「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る 続きを読む


       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (5)


    「おはようございます」

    朝、ベッドから起きあがって身支度を整えてから、
    わたしは同じ階の大広間に行く。
    絵の中の母上に、ごあいさつをするために。

    ここに来る時、マルチェロが絵師に命じて描かせた
    赤ん坊のわたしをお抱きになる母上。
    毎日、朝が来るたびわたしは
    白いお顔を見上げてごあいさつを申し上げる。

    「おはようございます」

    お美しい母上
    冷たい笑顔の母上
    わたしのことをお嫌いな母上

    母上、ははうえ、ははうえははうえははうえははうえははうえははうえははうえははうえ。

    ――ははうえ、本日もごきげんうるわしゅう。


    お庭の、わたしの部屋から見える場所に、フォレストたちが花の苗をたくさん植えてく
   れた。毎日少しずつ背丈が伸びて、とりどりの花が咲いた。赤、白、黄、青、橙……。
    カネーロ(アドルフォ付きのボーイ)とリネッツァが、お部屋に花を持ってきてくれた。
   いい匂い、やわらかい花びら。わたしがお庭に立つのは気持ちが抜け出てしまった時だけ
   で、それだと花を間近に見ることはできても匂いや手ざわりまではわからない。あの二人
   はそのことを知ってるから、そうしてくれたんだ。
    ありがとう。
    でもそのうちには花びらが散ってしまって、わたしはさみしくなった。するとカネーロ
   がフォレストから聞いてきてくれた。
    「花が終わった草は抜いて干してから燃やして灰にして、土に混ぜ込んでしまいます。
   すると、土が肥えてまた来年良い花を咲かせてくれるのだそうですよ」
    今年の花は終わっても、また次の年につながってゆくんだね。そのことを知って、少し
   嬉しくなった。
    リッカルドが、お馬の手入れをするところを見せてくれた。わざわざテラスから見える
   場所に曳いて来てくれて、大きな体をよくよく拭いてブラシをかけて、たてがみをきれい
   に編み上げる様子をわたしはずっと見ていた。
    お馬は気持ち良さそうに目を細くしていた。リッカルドも嬉しそうに目を細くしていた。
   リッカルドがお馬の扱いが上手なのは、彼がお馬のことを大好きだからだとその時思った。


    ゼネスが屋敷から戻って一日がたち二日がたった、「変化」は何もない。朝が来れば東の
   山間より日が昇り、そのまましずしずと空を渡ってやがては西の山の端に沈む。昨日も、
   一昨日も同じだった、今日もきっと変わらない。
    いや、彼にとって「どうでもいい」変化ならばいくつかあった。昇って沈んで昇って、
   そして陽射しの色は日ごとに濃く、光も暑くなりまさってゆく。庭木にかけられた鳩の巣
   では、卵が二つばかり孵(かえ)った。
    また同じ敷地内の本宅の方でも、朝の暗いうちから明るい間いっぱいは家人の他近在の
   百姓たちが出入りし、農具やら荷物やらを手に行ったり来たりしている。
    (彼らは麦の刈入れの準備をしているのだが、ゼネスにとりそれは全くもって「関係ない」
   部類のことである――"神"の身分でそれはどうか?という意見は別として)
    たまさか、庭先で鶏の番をする犬の吠える声が聞こえた時だけ、彼は素早く窓に寄って
   細く開けた隙間から外をうかがい見た。だが「訪問者」は待ち人ではなく、大概は鶏を見に
   来た猫か行商人だ。
    そうして、もう三日目の太陽もすでに西の山に近づきつつある。待つばかりの身に日は
   いたずらに長い、部屋の隅に置かれた寝台の上に寝転がったまま、ゼネスはあまりの所在
   無さに苛(いら)立ちながら落ち着かない気分を持てあましていた。
    ――「必ず連絡はしますから」――
    弟子の少女は言った。
    ――「待っている」――
    師の返事を、彼女は確かに聞いたはずだった。のに、未だ何の便りもその兆しさえも無い。
    「いい加減なことを言いおって」
    何度も寝返りをうち、部屋の壁に映る自分の影を横目で見てはブツブツと弟子に対する
   不満を口にする。それでもおさまらず、時に
    ドンッ
    拳を固めて壁を打った。本当はいっそ大声で「バカヤロー!」と叫び出したい。
    だが、壁を叩いた拳はそのままずるずると滑り落ちた。
    ゼネスの情はいったん怒りに振れると必ず、その反動のように別の方向にも大きく振れる、
   すなわち「不安」。
    ――「あなたはもう、いらない人」――
    深夜、屋敷の広間で少女の幻影(?)に言い渡された言葉が脳裏に立ち現れ、圧しかかって
   くる。とたんに膨れていた憤りは消沈し、入れ替わりに怖れとおののきと――どうしようも
   ない心細さがせり上がってきてひしひしと骨身を噛む。
    『俺のことなど忘れてしまったのだろうか』
    普段ならば一笑に付して省みないはずの愚かしい懸念、しかし頼りなく揺れ動く者には
   その愚かしさこそが真実と思われて……
    「コケッケッココウー!」
    突如、力強い啼き声が思案を突き破った。ハッと身を起こしかけて我に返る。
    「どうかしてる」
    ふたたび寝台に寝転がり、煤けた天井を見上げ、口にした。
    「どうかしてるぞ」
    もう一度、あえてはっきりと言葉にして我が耳で聞く。
    気分を変えたい。
    頭を振り、半身を起こすとおもむろにふところを探って小さな塊を三つ、取り出した。


    わたしは、オバケなんだよ。
    だって、他の人をびっくりさせたり怖がらせたり、怒らせたり困らせたりすることしか
   できないんだもの。
    それに、時々気持ちだけが抜けて外に出てしまったりするし。
    あなたが来てくれた日も、早く会いたいなって思いつめすぎたみたいで、気がついたら
   塀の上に立ってあなたを見てた。わたしの身体はずっとこの部屋にいて椅子に座ってたのに。
    オバケだよ、そんなの。でも、オバケってほんとはいたらおかしいものだよね。

    「可愛いオバケさん、
     "いたらおかしい"だなんて、私はあなたがいてくれてとっても嬉しいんだけど?
     今のままのあなただって十分に好きだよ、他の人のことなんか知〜らない。
     でも、あなたはやっぱり自分のその力を操れるようになりたいの?私たちセプターが
    カードを使ったり使わなかったりするように」

    自分の力を操る……そんなことができればわたしは……。

    「あなたは……どんな"感じ"がするの?"力"を使ってしまう時には。私はカードから
    浮かんでくる像を強く念じるんだけども……」

    わからない、ただ笑ったり怒ったり悲しくなったりするだけで、気がつけばいろいろと
   困ったことが起きてしまってるから。いっそ何にも感じなければ何も起きないのかなって、
   そう思うこともある。

    「そんな、気持ちが動くことは悪いことじゃないよ、絶対に。だってあなた生きてるん
    だもの、何か見たり聞いたりして感じることがあるのは当たり前だし、それで生まれた
    気持ちを表に出さないように我慢なんてしてたら、心が固くなってそのうち本当に何も
    感じない"お人形"になっちゃうよ。
     そんなお人形より、オバケのほうがずっと好きだな、私は」


    ゼネスの手のひらの上で、塊はちょうど胡桃(クルミ)の実ほどの大きさに丸くまとまり
   転がっていた。三つとも表面に細かなシワをぎっちりと寄せ、一枚の紙をくしゃくしゃと
   固く握り込んだような形をしている。
    「だいぶ戻っているな」
    じっと眺め下ろし、彼はひと時の安堵を感じた。昨日の状態ではまだ、もっとギザギザ
   した角々が残っていたな――などと思い返しながら。
    実は、この「塊」はカードだ。公子の力と対した際、呪文「シャッター」で砕かれた三枚の
   「マナ」のカードの"その後"なのである。
    カルドセプトのカードは人の力で物理的に打ち壊すことはできない。唯一、呪文によって
   のみ粉々の破片に砕かれる。
    だが、壊れたカードはそのまま寿命を終えるわけではない。実は、砕けた次の瞬間には
   破片どうしが集まって固まりを作る。まるで磁石のように互いに引き付け引き寄せあって、
   一枚のカードごとに必ずひとつずつの塊となるのだ。
    たとえ一時に複数枚が壊されても、決して他のカードの破片と混じりあうことはない。
   いかにも不思議だが、これが元からカードが持てる性質なのである。
    そうしてくっつきあった破片は、数日をかけて次第に融合し元の形を取り戻してゆく。
   今ゼネスの手のひらの上で丸まっている塊も、あともう2〜3日もたてば、花の蕾が開く
   ようにして「マナ」のカードが復元されるだろう。
    そっと転がして、なおも見つめる。
    この「塊」だけが現在彼の身辺にあってただ一つ、具体的に変化するものだ。そのことに
   思い至り、ゼネスはふと視線を外して深いため息を吐く。
    カードは、このように時とともに修復され、傷の跡も残さず元の姿を取り戻すことができる。
    だが命は、そして人の営みは、いったん砕かれ壊されてしまえば二度と再び復することの
   できないものではなかったか。
    弟子の少女を待って苛立ちと不安にかられるたび、彼の脳裏にひらめく光景がある。
    焼け野原、瓦礫の山、黒焦げの死体――大きいの小さいの累々、白い骨片と化したもの、
   おびただしいその数――ゼネスがかつて自らの意志によって殺した者、壊したもの、呪った
   世界。どれだけの長い歳月を重ねても返らない全て、薄まることのない「罪」の事実。
    『俺は、あいつが師として誇り得るような男ではない』
    早く戻って欲しい、帰って来て欲しい、そう願うほどに「罪」の記憶は立ち上がってきて
   彼を見下ろす。"思い上がるな、身の程を知れ"とばかりに。
    「これもまた俺の罰、か……」
    怒り、不安、そして畏(おそ)れ。三相の間を絶えず振れ動きながらも、そう「自覚」する
   ことで彼はどうにか、耐えて待つ力を得ていた。
    そしてしばらくの後、「塊」を再びふところに戻し入れた。


    あなたの話を聞いて、ここが本当に平和で暮らしやすいところだってよくわかった。
    わたしの目は時々塀の上に立って、領民たちが畑で働くのを見ているんだよ。
    マルチェロが前に、こんなふうに言ってくれたから。
    ――「若君さまにつきましては、お屋敷の中においでくださるようにと公爵さまからのお達し
    が来ております。ですが、お気持ちがお外に出られることだけは、私どもにはお止めする
    手立てがございません。
     それでしたらいっそお屋敷の塀にお立ちになって、領民の暮らしぶりをつぶさにご覧
    くださるのはいかがでございましょうか。
     そうしてくだされば、公爵さまやニールさまが何をお守りになっていらっしゃるのかが、
    若君さまにも必ずやおわかりいただけるでしょう」――
    畑で麦や野菜を作ったり家畜を太らせたりするのは、とても大変な仕事だ。汗をながし
   手を泥だらけにしなければ、食べるものはできない。
    だから苦労して作ったものを戦争で焼かれたり盗まれたりしたら、どんなにか辛いだろう。
   父上や伯父上は、国の人たちがそんな目に遭わないようにしっかりと守っているんだね。
    でも……この冬は悪い病気がはやって子どもが何人か亡くなったんだ。小さな棺をかついだ
   お葬式の列を見た。泣きながら歩く人を何人も見た。
    それと、去年の夏には二週間も雨が降らないことがあって、みんなとても大変だった。
   川の流れも細く細くなってしまってね、そこから時間をかけて手桶で水を汲んできて畑に
   まくんだよ、暑いのに。
    それでも、お百姓のジョルジオは畑で採れた一番いい野菜をわたしのところに持ってきて
   くれるんだ。何もできないオバケのわたしに。
    強い兵隊やピカピカの武器や鎧をそろえても、守ることの難しいものがある。わたしは、
   わたしは……守れるようにならなくちゃいけないはずなのに、支えられてるばかりで。
    何もできないことが本当に苦しくて。
    ああ……どうして抱きしめてくれるの?あなたはどうして厄介者のわたしを抱いてくれるの?


    カードの確認が済んでまた寝台に寝転がったゼネスの耳に、ついにある音が聞こえてきた。
    カッカッカッカッ、ガラガラガラ……馬の蹄と車輪の回転の響き、待ち焦がれていたもの。
    『馬車!』
    飛び起き、窓に駆け寄って一気に大きく開け放った。
    来る、確かに近づいて来る。首を伸ばし目をこらして百姓屋の庭先を注視する。
    果たして、田舎道との境い目に繁る果樹の低い木立ちを抜け、大柄な御者が操る華麗な
   馬車はスルスルと小径をたどると母屋の前にぴたり停まった。
    まずは御者が降り、うやうやしく車の扉を開ける。そこから現われ、慌てて飛び出して
   きた家の女房のあいさつを受けたのは、長いスカートの裾を引くドレス姿の一人の少女。
    『マヤ……』
    しかと見て取るとゼネスはやにわに窓から顔を引っ込め、閉め切って部屋の奥に下がった
   (あまり待ちかねた気配を悟られてはみっともないと思ったのだ)。
    それでもじっと立ったまま、息をひそめて物音にだけは注意を傾ける。
    コツ、コツ、コツ――軽く細い靴のかかとの音が母屋の方角から近づいてきた。他の音は
   しない、マヤと思しき一人だけだ。
    ドクン、ドクン、心臓の鼓動がいやに高く鳴る。どうしてこんな状態になるのか彼にも
   よくは理解できぬままに。
    怒りと畏れは急速に遠のいた。残った「不安」と、新たに生じた再会への「期待」とがふく
   らんでゆく。鼓動がさらに早くなり、今にも心臓が飛び出しそうで、彼はしっかりと手で胸を
   押さえつけながらドアを見つめていた。
    「コン、コン」
    とうとうノック音が響き、次いで聞き慣れた声がドアの向こうから呼びかけてきた。
    「ゼネス、連絡に来ました」
    ひとつ深呼吸し、つとめて気持ちを整えながら彼は応えた。
    「入れ」
    カタリ、ギィ……
    静かに開いた戸の向こうに立つ姿を認め――しかしゼネスは「あっ!」と色を失った。
    そこに居たのは栗色の髪、とび色の瞳、凛とした顔立ちに薄化粧した、彼が見知っている
   はずの少女。先日とはまた異なる、ベージュ地に赤紫の花柄のドレスがよく似合っている。
    だが、
    「お前は、どうして……!」
    覚えず荒れた声をあげていた。
    「何でドッペルゲンガーなんぞをよこしたんだ!!」
    そう、目の前の"それ"は弟子の少女の姿をかたどったカードのクリーチャー。ほんの
   わずかな気配の違いを、しかしゼネスの感覚は決して取り違えたりはしないのだ。
    「とっとと去れ、貴様ごときに用は無い!」
    怒鳴った。けれど"少女"はサッと部屋の内に入り、後ろ手でドアを閉めた。
    「待ってゼネス、もともとあなたをゴマかせるなんて思ってない。それにこれは私、これ
    だって私、今はアドルフォのそばに付いててあげたいから、こうして話するしかないの、
    わかって」
    とび色の瞳が、冴えた眉が、強い調子をたたえて彼を見上げる、本当に"そのもの"だ。
   しかしだからこそ憎い、憎さがつのる。
    カッと頭に血が上り、脳が熱くなって一気にまくしたてた。
    「黙れ、替え玉め。それもこれもあの公子の"御ため"か、そんなに貴族の屋敷は居心地
    がいいか。だったら貴様とはもう師でも弟子でもない、好きなように公子の侍女でも妾
    (めかけ)でもなるがいい!」
    自分が何を口走っているのか自覚が追いつくヒマもなく、彼はすっかりとナマの感情を
   ぶちまけてしまっていた。
    「ゼネス!」
    少女の顔も紅潮した――本物の彼女のように。淡く彩られた唇が一度ギュッと結ばれ、
   すぐに開いて鋭い声をほとばしらせる。
    「替え玉なんかじゃない。ゼネス、誰が私の先生だったと思ってるの、ずっと見てきた
    んだよ、私は。あなたがカードのクリーチャーを遣うところを。
     グレムリンでもグリフォンでも、トロルもドラゴンもペガサスだって、ゼネスが遣う
    クリーチャーは皆どれもこれも毛の先爪の先までゼネスがきっちり詰まってる、あなた
    そのものだよ。それができるからゼネスはあれだけ強いんだってずっと思ってた。
     だから私は、私も自分が遣うクリーチャーは自分自身なんだって考えてるの。あなたを
    お手本にして、あなたみたいにやりたいって。
     今日この子を選んだのは、私の考えとか気持ちを真っ直ぐに伝えられるのがこの子
    だって思ったからだよ。それでも認めてもらえないの?いったい何がいけないの、どう
    してそんな怒りかたするの。ヘタクソだって言うならもっと上手くできるようになるよ、必ず。
     こんなことで"師でも弟子でもない"だなんて、私のカードの先生はゼネスしかいない、
    そんなのあなたが一番良くわかってるはずでしょうに」
    『マヤだ』――煮えたぎっていた脳髄に、ふっと理性の風が吹き差した。マヤの言葉だ、
   これは。ゼネスの弟子である彼女にしか言い得ないそれを口にする、眼前の「少女」。
    言葉が人か、人が言葉か――とまどい、ひるみながら考える。
    ――何がいけないの――
    ――どうしてそんな怒りかたするの――
    ようやく自覚が戻って来た、彼の内に。そしてその自覚が引き出した答え、さきほどの
   激情の正体に気がついて、ゼネスは愕然とすると同時に赤面しそうになった。
    マヤの精神は目の前にある。セプターがクリーチャーを遣うのであれば当然のことに。
   それならば何故、自分はこの似姿を「許せない」と怒りに囚われたのか。求めて、得られずに
   いると思ったものは何なのか。
    弟子の視線を見返すことができなくなり、彼は肩で息をつきながら天井を見上げた。窓を
   閉めてしまったために薄暗いそこを。
    すう、はあ、すう、はあ、
    師と弟子と、二人が息を吸い息を吐く音ばかりがひととき部屋を満たした。
    やがて、
    「わかった、お前の話を聞こう」
    ついにゼネスはそう告げ、次いでそろそろと顔を下ろした。マヤは、少女はホッとして
   表情をゆるめ、両手でドレスをつまんで花が揺れるように軽く腰をかがめ、辞儀をした。


    あなたの手はあの暗がりの中から現われてわたしを抱いてくれる。
    なつかしい場所、底なしの闇の穴、
    わたしが続くそこにあなたもつながっているのだろうか。
    あたたかく、やわらかく抱きしめてくれる手、
    あなたはきっと、わたしと"同じ"人。

    母上は、わたしのことがお嫌い。
    輝かしくて立派で美しいものばかりがお好きな母上。だから母上は、
    真っ暗な闇に続くわたしのことが大のお嫌い。
    あなたの手、
    夜の色をしたその手に抱かれて、でも、わたしは、
    いつの間にか悲しくてたまらなくなっている。

    どうしてわたしは
    母上の子どもでいたいと思い続けているのだろう。
    なぜにわたしの力は
    一番に願うことに限って叶えることができないのだろうか、と。


    あの人のことを考えているね、今、あなたは。
    嬉しそうな顔で、甘い声で話してくれたあの人のこと。
    あなたが抱きしめているのはわたし?
    それとも、あなたの気持ち?

    「ごめんね」

    ああ、あやまらないで、
    あやまらなくっていいんだよ。
    わたしは、そんなあなたを見ていることが好きなんだもの。

    それに、わたしだって
    あなたの手に抱かれて背中をなでてもらいながら、
    母上のことを考えている。
    わたしを支えてくれる人たちのことではなくて。

    あなたは、よくわかっているんだね。
    わたしたちは、似ているね。


    「あなたは……自分の力が働いてしまう時の"感じ"さえつかむことができれば、もしか
    すると力を自分で操れるようになるのかしら。
     ね、私のカード、触ってみる?何かわかることあるかも知れないよ」


    「こんな格好で失礼します、ゼネスはあんまり好きじゃないみたいだけど、マルチェロ
    さんからアドルフォの……公子の前ではこれでって頼まれましたから。
     私は、あそこではとてもよくしてもらってます。着る物は上等だし、食べる物も飲む
    物も公子と同じ席で同じ物をいただいてます。お付きの人たちも、とっても気持ち良く
    接してくださる。本当に、歓迎されてると思います」
    「そういうことは、別にいい」
    弟子のドレス姿をまぶしい気分で横目に見ながら、ゼネスは自身の関心の方向へと話を
   促しにかかる。
    「公子のことを聞きたい、俺は」
    「そう、うん……そうでしょうね、あなたなら。
     あの、先にひとつ聞いていい?ゼネスはあの子のこと"恐ろしいヤツ"って言ったけど、
    それは戦ってみてそう思ったの?それとも、最初に見た時に"怖い"って思ったの?」
    サァッ――ゼネスは自分の顔色が変わる音を聞いたように感じた。とび色の瞳は、スキ
   のない光を宿して(師の表情を見逃すまいと)彼を見上げている。
    きっと、何をどうごまかしても見抜かれる、覚悟するしかない。
    だがそれでも彼は、本音だけは絶対に口にしたくない、するわけにはゆかない。
    「今お前にそれを言う必要は無い」
    あえて真っ直ぐに少女の眼を見下ろし、言った。
    「……」
    師から何を読み取ったのか、少女はほんの少しの間だけ口をつぐみ、そしてやや視線を
   外し加減にして話し始めた。
    「イヤなら、ゼネスがイヤなら聞かない、私も。
     ええと、何から話せばいいかな。あの子は、アドルフォは……いつも静かで落ち着いて
    いて、子どもっていうより小さい大人みたいな感じの子。
     ううん、違う、そう見えるだけ、落ち着いてるんじゃない。何をするにも慎重にして、
    できるだけ気持ちが急に動かないように気を配ってるんだと思う、たぶん。"力"を、
    不意に現わしてしまわないために。
     でも、でも本当はとっても感じやすい子。だって、私が旅で見たものや出会った人や
    行った場所の話なんかしてあげるとね、顔が明るくなって目なんかキラキラして、頭の
    中が想像でいっぱいになってるんだなって手に取るみたいにわかるんだよ。
     ただ、それで夢中になるとちょっとだけ困ったことが起きちゃうんだけど。
    「困ったこと?」
    師が聞き返すと、弟子は上目遣いになった。
    「うん……その……例のこと、だけどホントにちょこっとだけ。お部屋にある机や椅子が
    揺れて独りでに動いたり、チカチカッとした光の玉が飛び回るとか、それぐらい。
     あ、最初は私もびっくりしたの。でももう慣れちゃった、ぜんぜん平気、大したこと
    ないもん」
    大したことない――弟子の話と自身の経験とを胸の内で比べながら、ゼネスは驚きを禁じ
   えない。マヤが見たのが"そよ風"だとすれば、彼が遭遇したのは"竜巻"だ。公子の力の
   現われ方は、家令が言っていた通り本人の精神状態や相手によって、だいぶ異なるものの
   ようである。
    ――「若君にさまに対抗するお気持ちが強くあればそれだけ、応じて現われるお力もまた
   大きくなります」――
    ふむ、とうなずく。師が独り合点したのを見て、弟子はまた話を続ける。
    「マルチェロさんが言うにはね、それでもこっちのお屋敷に移ってからだいぶ"出方"が
    ゆるやかになってるんだって。公爵さまのお城にいた時分は、突風が吹き荒れるみたい
    なすごい騒ぎがしょっちゅう起きてたそうだけど。
     でも、それで落ち着いたと思ってお城に帰るとまたダメで、最近はもうほとんどこちら
    のお屋敷にいるばかりなんだって」
    そう言って、ため息をつく。
    「どうしてだと思う?マルチェロさんは"お城はなじみの者だけに囲まれたこちらでの
    お暮らしとは違いますので、若君さまは緊張なされてしまうのでしょう"って説明して
    くれたけど……でも私、それだけじゃないような気がする」
    仔細ありげな様子でゼネスに目配せをした。彼も考えてみた、荘園屋敷と公爵家の居城
   との違いとは……。
    『そういえば、あの屋敷には女の姿が見当たらなかったな』
    ふと、気づいた。表立って出てきたのはいずれも男の使用人たちだ、茶を出してくれた
   のもボーイだった。
    それは、机や椅子が勝手に動いたり妖しい光が舞ったりするような屋敷に、ごく普通の
   女が入って勤めるのは難しかろう(とはいえ、公子の目に付かない掃除などの下働きをする
   女ならば、近隣の百姓屋から働き手を募っているのだろうが)。
    ――と、そこまで考えてハッとひらめいた。
    貴族の家に勤める一定以上の階級の女使用人といば、必ずその家の女主人の「選別」の手
   が入っているはずのものだ。それがあの荘園屋敷には居ない……事実の、意味するところは。
    彼の脳裏に、屋敷に関係ある者の中でも最も身分の高い女、金髪の貴婦人の肖像が思い
   浮かんだ。美しいがどこか冷ややかだった、あの絵の中の顔。
    「母親か」
    つぶやくと、マヤもうなずいた。
    「アドルフォはね、私に言うの。"母上はわたしのことがお嫌いなんだよ、だからこの
    屋敷に離して置いてらっしゃるんだ"って。あの子ったら少し笑って言うんだけど、ムリ
    してる。寂しそうだもの、顔も声も。
     私聞いたの、マルチェロさんに、奥方さまは時々は若君に会いにこられるんですよね?
    て。そしたら、"お忙しいお体ですのでなかなかには……。ですが、常にお気に掛けて
    いらっしゃいます"だって。
     大嘘、自分の子どもに会いにも来ないお母さんがいるなんて信じられない、ひどい話」
    少女は唇をとがらせひどく憤慨した。
    確かに……と、ゼネスはしかし別のことを考える。生みの母親に疎まれている少年公子
   であるならば、マヤが同情を寄せて邸内に留まろうとするのもあながち理解できないわけ
   ではない。
    『なるほど、な』
    自分の胸ひとつにて合点した。
    「でもね……」
    怒っていた少女がうつむいた。
    「あの子ったらそれでも公爵夫人――お母さんのことを片時も忘れてないの、いつでも
    会いたいって思ってる、好かれたいって。ずっと見てればわかるよ。
     自分のお母さんなんだもの、当たり前だよね。でもきっとその気持ちが強すぎるから、
    お城では失敗しちゃうのかもしれない……かわいそうに」
    そう言って顔を上げ、遠くを見る眼になった。物憂げな表情、その思いの中には一人の
   美しい、だが不幸せな少年の面影がある。
    ゼネスは、家令がマヤにドレスを着用させている理由がわかったような気がした。
    『公爵夫人の衣装なのだな、これは』
    屋敷の中で彼女が期待されている役回りに、ようやく思いが至った。
    「それで何か?お前は"自分が公子にしてやれることを考えたい"とか言っていたが……
    要するに子どもが城に帰って母親と暮らせるようにしたいと、そう思っているわけか」
    まだ喋りだそうとしない少女に尋ねてみる。彼女は急に、眼を据えた真剣な面持ちに変わった。
    「うん、そのことなんだけど。
     私ね、アドルフォに自分のカードを渡してみたの。何か感じることがあったら教えて
    ちょうだいねって言って。
     そしたらあの子、何て言ったと思う?クリーチャーとアイテムのカードには何も感じ
    ないけど、呪文のカードにだけは、触ると色と形が浮かんでくるんだって、頭の中に」
    「色と形だと?」
    意味がつかめず、ゼネスはついそのままに聞き返していた。
    「何だ、それは。普通に呪文の効果が現われた光景が浮かんでくるのと違うのか?」
    通常、セプターはそうして呪文カードが引き出す力の内容を知る。だが弟子は首を振った。
    「それが、そうじゃないみたいなの。
     アドルフォが言うには"色の付いた形"で、呪文の種類ごとに違ったのが見えるって。
     マジックボルトは白っぽくて針がいっぱい突き出したような形、テレキネシスは金色
    のゴツゴツした岩みたいな形、マインドブラストは赤茶の丸い柱が見えて、シャッター
    は透明な細い葉っぱに似てるんだって」
    「貴様……」
    思わず渋面を作り、師は弟子をにらんだ。今彼女が挙げた四つの呪文は、いずれもつい
   先だって彼が苦戦した呪文効果を現わすものではないか。
    「もしかして、最初に公子に面会した折にもうカードを渡していたのか。そのおかげで
    俺がどんな目に遭ったと……」
    「ごめん、ごめんゼネス」
    弟子は師の言葉をさえぎってあやまった。
    「急にお屋敷が揺れて大きな音がして、アドルフォは泣き出すし……あの時は何が起きた
    のか全然わからなくって、後でマルチェロさんから聞いてビックリしたの。
     ただ、ただね、ゼネス、あの子の力がはっきりした効果になって出たのって、あれが
    初めてみたい。それまでは"突風"や"光"や"物が動く"だけだったって。
     それで私、考えたんだけど……」
    少女は師の間近に寄った。
    「色と形が浮かぶのって、それって"イメージ"ってことだよね。アドルフォはそういう
    イメージを使えば、自分の力を何とか扱えるようになるんじゃないかな。うまくすれば、
    使うだけじゃなくて力を抑えることだってできるようになるかも知れないし」
    ずいぶんと気負い込んだ早口だったが、ゼネスはどうにか頭の中で弟子の言葉を意味と
   して組み立てることができた。
    カードや呪文の代わりに特定のイメージによって"力"を引き出す能力――それが公子・
   アドルフォの特性だ。マヤはかの子どもの能力を鍛錬することで使えるものとし、ひいては
   力の無駄な顕現を抑え込むことにもつなげようというのである。
    「う〜む、理屈としては通っていると言えそうだが……。
     しかしイメージで己が力を操るにしても、引き出すならともかく抑える方策なんぞ、
    俺にはまるきり見当もつかない。雲をつかむような話としか思えないな」
    彼は師として極めて正直な思いを言う。と、弟子も気負いが薄れて難しい顔つきになった。
    「うん、そこなんだよね。でもあのお屋敷を離れて、私たちの持ってる呪文のカードを
    きっかけにしながら、時間かけてあの子の能力の法則みたいなものを探ってけばきっと、
    いい方法が見つかるんじゃないかって……」
    「おい、待て」
    ゼネスは口をはさんだ。今、聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
    「屋敷を離れるだと?どういう意味だ、まさかお前は公子をあの屋敷から連れて出よう
    とでも言うつもりか」
    咎めた。するとすぐさま、目の前にあるとび色の眼が戦闘的な光を帯びた。
    「そうだよ。このお部屋の周り、人いないよね――私、アドルフォのこと一緒に連れて
    行きたい。あの子はもう、貴族なんてやめたほうがいいって思う。
     それは、マルチェロさんやお付きの人たちがあの子のこと大切にして、何とか普通の
    貴族の子にしたいって苦労してるのはわかってるの。
     でも……もしアドルフォが自分の力をうまく抑えられるようになってお城に戻れたと
    しても、それで本当にあの子は幸せになるのかな。いつもどこかで何かを抑えつけて、
    思い切り笑ったり怒ったりすることも控えなくちゃいけないなんてことが。
     奥方さまの目から見ればそっちの方が"いい子"で可愛がれるのかも知れないけど、
    でも私は反対。何か困ったこと起こしがちでもいいの、あの子のこと丸ごと引き受けて
    『それでもいいよ』って抱きしめていてあげたいの。奥方さまが本当に嫌ってるんだった
    ら、私が替わりにアドルフォのお母さんになる」
    背を伸ばし、眼を上げ、言葉を連ねるほどに語気を強めて、少女はこの上なく強い輪郭
   で己の考えを示す。マヤだ、マヤ自身が確かに今ここにいる。ドッペルゲンガーの姿を
   通しながら、まぎれもない彼女の実質がここに立ち上がっている。
    が、しかし、その事実を充分に見て取りながらも(否、承知したからこそなおのこと)師
   ――ゼネスの首はふらふらと横に振られていた。
    『だめだ……いやだ……お前がそんなことを言うんじゃない……俺は認めない、聞きたくない』
    すうっと冷たい何かがほほをなでる。心臓の動きが急激に高まり、針を呑んだように体の
   内側がチクチクと痛い。
    ――「丸ごと引き受けて、抱きしめてあげたい」――
    なぜそれがあの「公子」でなくてはならないのか。ほんの数日前に会ったばかりの相手に、なぜ。
    どうして。
    少年だからか、寂しく美しい少年であるためか。それとも貴顕の血が流れているゆえか。
   金の髪、象牙の肌、あえかな色の瞳。広大な庭園と瀟洒な屋敷、華麗な調度品。
    ――その中にあって少しも違和感のなかったマヤ。高貴な少年と優美な少女との出会い、
   運命の出会い。運命?相応しい相手?
    『俺だって、元はといえば……!』
    割り切れない、諾(うべな)えない、頭の中で思考がバラバラに乱れ千切れる、胸の奥で
   肺腑がよじれて縮む。情念が悶える、わなないて締めつける、どこにも届き得ない虚しさに
   痙攣しうめく。
    彼は今こそはっきりと自覚し、と同時に身中にのたうつ苦痛を爆発させた。
    「バカなことを抜かすんじゃない、あいつが誰だと思ってるんだ!
     公爵家の次男でユージン王の甥だ、犬の仔や猫の仔を拾うのとはわけが違うんだぞ、
    もっと考えてからものを言え!
     貴族の子弟なんだ、せせこましくて入り組んだ関係の中にガッチリ組み込まれたやつ
    なんだぞ、あの公子ひとりを抜き出しただけでどれだけの亀裂ができるか、お前は本当
    に想像がつかないでいるのか?
     ご次男の姿が消えました――で、ただで済むか、コトは下手をすれば公爵家や王家の
    面子にも関わるんだ、少なくともあの屋敷の使用人は全員、責任を問われる。家令だって
    詰め腹を切らされるかも知らん。
     それでも貴様はまだ公子を連れて行くと言うのか!」
    これは「脅迫」だ、"世間の道理"を盾に少女の願いを打ち砕くための――。そう、内心で
   ささやく声がする。絵の中の一つ目巨人はお前だ、ゼネス。右に残った人の眼が今、何の
   色に染まっているか、とくと省(かえり)みるがいい。
    だが、彼は全力でその"声"を封じ込めた。この苦痛を弾けさせなければ、自身こそが
   砕けてしまう。
    「何人もの人生を狂わせて、貴様はたった一人を救えばそれで満足なのか、気が済むのか、
    どうなんだ、答えろ、マヤ」
    少女の顔は蒼白となっていた。
    「そんな……そんなつもりじゃない……でもだめ、アドルフォをあのままにしておくなんて
    だめ。可愛いの、すごく可愛くて愛しくてどうしようもないの、あの子と離れたくない、
    離したくない」
    「まだ言うか!!」
    パンッ
    乾いた音が響き、マヤの身体は近くの壁に打ちつけられていた。ゼネスの手が、彼女の
   ほほを張ったのだ。
    少女は壁際にくずおれた。真っ赤になった左のほほを押さえ、懸命に涙をこらえている。
    「話にならん、そんな我儘の通る世界がどこにある。やはり替え玉ではダメだ、マヤ、
    貴様自身が俺の前に出て来い。師匠としてそのふざけた性根を叩き直してやるぞ!」
    いきり立った興奮が冷めやらぬまま、彼は弟子に対し言葉でもってさらに打った。
    彼女のほほを張った感触が右の手のひらでズキズキうずく、そして手のひらだけでなく
   キリキリと胸をも突く。彼の苦痛はむしろ彼の内側に向かって弾けたかのようだ。
    ゼネスは足を踏ん張り、荒い息をついていた。ややもあって、うずくまっていたマヤが
   身動きした。
    そろりそろり、壁伝いに立ち上がり……キッと師をにらみ返した。瞬間、その姿が光を発した。
    「あっ!」
    クリーチャーの身体が"還元"される、光の粒と化して四散する。
    「待て!」
    慌てて腕を突き出し、細い肩をつかもうとした。が、すぐに少女は消え去り、入れ替わり
   に一枚のカードが中空に現われ出ていた。
    パサッ
    軽い音をたてて床の上に落ちる、ゼネスはかがみ込み、拾い上げた。ほのかな温もりが
   手に沁みる、人の肌合いにも似た。
    つい先刻まで、なじみの少女の姿をしていたカード。そっと指の腹でなで、握りしめる。
   猛っていた彼の怒りはしおしおと萎え、替わってひたひたと後悔の念が湧きあがってきた。
    『壊してしまったのだろうか、俺は』
    取り返しのつかないことをしてしまった気がする。まるで、マヤ本人が永久にカードと
   化して帰って来なくなってしまったかのような。
    彼女の願いは切実だった。いかに実現が難しかろうと、せめてその切実さだけは師として、
   年長の者として受け止めてやるべきだったのではないか。
    にもかかわらず、彼はむげに拒んで傷つけた、己れの苦痛に振り回されるままに。
    『あいつは、まだ俺のことを師と思っていてくれるのだろうか』
    カードは壊されても時がたてばいずれ元に戻ることができる。だが人の関係は、人と人
   との間にある絆は、いったん切れて壊れてしまえば自ら復することは難しい。
    消える直前、彼を見据えた弟子の鋭い視線を思い起こせばうなだれるしかなかった。
    打ち砕いてしまった関係、その破片は彼が自分でひとつひとつを拾い集め、再びつなぎ
   合わせるよう試みなければならない。
    本当に取り戻したいのであるならば。
    ゼネスは立ち上がり、手にしたカードをマントの隠しポケットではなく、上衣の胸の内側に
   あるポケットに収めた。そしてしばらく、服の上から手のひらでその場所をじっと押さえていた。
    もう夕刻であり、部屋の中はだいぶ暗くなっている。彼は窓に近づいて開け、馬車がまだ
   待っているかと見やった。
    しかし赤い光に満たされた百姓屋の庭先は、すでに空っぽだった。


    「いつも、いつもこうなの。
     一番大事なことに限って、ただ投げつけるみたいに言ってしまうの。
     悲しいの、あの人も痛いだろうってわかってるのに、どうして、どうして私」

    泣かないで、泣かないで、あなた。
    あなたの気持ちがわたしの中にも流れ込んでくる。

    ――「私が悪いの私が悪いのいつだって悪いのは私なの、
     ムリ言ってるのできないことを押し付けてるのそれでヒビが入ったってかまわないって
    思ってるの。
     あの人が苦しいと私も辛いのにこれじゃいつかきっと壊してしまいそう」――

    泣かないで、
    あなたがそれを言えるのは、あの人がちゃんと聞いてくれるからだよ。
    必ず受け止めてくれるって、信じてるからだよ。
    傷つけて壊してでも、変わっていって欲しいんでしょう。
    変わってゆくところを見たいんでしょう。
    そしてあなたも苦しみながら、自分の中から何かをつかみ出したいんでしょう。

    ぶつかって、傷ついて、苦しんで、でもそれだけ、
    あなたとあの人とは少しずつ近づく。
    だから、泣かないで。泣かないで、あなた。
    あなたの涙をわたしがすくい取ってあげる。

    「ありがとう。
     私、あなたのことなぐさめるつもりでここに居るのに、逆だね。
     かえってあなたになぐさめられてる。
     ありがとう、本当に。私、あなたのこと、好きよ」

    ううん、わたしのほうこそあなたのことが、好き。
    あなたがいることがわかったから、これからも生きてゆける。

    ひとりでも、ひとりになっても、きっと。

前のページに戻る 続きを読む
 「読み物の部屋」に戻る