「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る 続きを読む


       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (6)


    それから二日間、ゼネスは再び山を越えてユージン領に戻り、ずっとあちらこちら歩き
   回っていた。
    マヤとの話し合いが物別れに終わった後、彼は今後なすべきことを考えて、ほとんど
   一晩中悩みぬいた。あげく、ようやく一つの決断を下した。
    「公子を連れ出したい」という弟子の願いを受け入れ、力を尽くすことにしたのだ。彼に
   とり、それは大変苦痛を伴なう行為ではある。だが彼女との絆を取り戻すためには、どう
   考えても他に手立てがない。肚をくくって夜が明けると同時に動き始めた。
    まずは荘園屋敷に出向き、門番を呼び出すと弟子への伝言を託した。用件は三つ。
    1:昨日はこちらが悪かった。
    2:頭を冷やして考えをまとめるため、二〜三日この村を離れる。が、必ず戻る。
    3:再度の連絡を待っている。
    どうも全くのところ男として「白旗を揚げた」格好だが、いたしかたない。今は体面よりも
   実質を重んずべき時だ(ただし手紙でなく口頭の伝言を選んだのは、せめてこんな譲歩の
   痕跡を残したくない――という"男らしい"計算が働いたためかもしれない)。
    そしてマヤのドッペルゲンガーのカードは返さず、胸の内ポケットに収めたままにした。
   「考えをまとめる」という語の含みをカンの良い弟子が察してくれるようにと祈りながら、
   ゼネスはその足で荘園に来る際に踏破した山道を、今度は逆に越えた。


    最初に訪れたのは、王都ユージンの城外市場。彼はそこで、ある人物についての情報を
   探り出した。
    「王家に仕える高位の魔術師」
    以前に家令からチラと聞いた、公子・アドルフォの力に関して相談に乗っているという、
   その者の名と住居だ。彼はそこに出向いて直談判し、公子の能力の実相と公爵家の裏事情
   とを聞き出すつもりでいた。
    というのもゼネスは、荘園屋敷の家令・マルチェロを自分らの側に何とか抱き込みたいと
   考えていたからだ。公子の連れ出し作戦を穏便に遂行するためには、是が非でも老紳士の
   協力が必要だ。
    ここで昔の彼であれば、躊躇なく力で打ち倒し押し通る方法を選んでいただろう。しかし
   今の彼は違う。
    できるだけ穏やかに、誰かに責任を押し付ける形とせずに目的は遂げたい。マヤとの旅
   を続けるうち、ゼネスはいつしか、人間の関係の問題は力だけでは解決できないことが身に
   沁みるようになっていた
    (ただ、彼自身はそうした自分の心境の変化について、あまり自覚的ではない)
    そこで、今回は家令の協力を取り付けるしかないと思い定めたのである。
    しかし、この"工作"が難しいこともまた充分に承知していた。まともにぶつかっただけ
   では、公爵家の体面を傷つけるような行動をあの老紳士が納得するはずがない。
    だからこそ情報が欲しいのだ、公爵家と公子、家令を取り巻く「関係」についての細かな
   (信憑性の高い)情報が。そうした事情を踏まえれば、場合によっては公爵家を離れる方が
   公子の幸せにつながるのだと、家令を説得できるかもしれない。
    力のみで押し通るのは、その交渉が不調に終わった段階で考える最後の手段でよい。
    ということで、一日目の夜半に王都の場外市場に到着したゼネスは二日目の早朝より、
   市場の一角を占める薬種問屋街に張り込んだ。魔術にたずさわる者が通りかかるのを待ち、
   彼らの口から目指す術師の名を聞きだすために。

    ――呪文を使う者の中でも特に「魔術師」と呼ばれるのは、火・水・地・風の四大精霊力に
   通じ、あらゆる呪文を過不足なく扱えるレベルの者に限られる。
    彼らはその職能の特性から薬品の調合に関する知識を有するケースが多い(薬と呪文効果
   とを組み合わせることで、"病を治す"等の呪文だけでは対処できない事を行えるようになる)。
   だから魔術師の情報を得るならば、薬種店よりふさわしい場所はないのだ。
    こうして二日目はほぼ一日中、聞き込みに励んだ(ただしそこはゼネスのやることであり、
   大抵は路地のうす暗がりに相手を引っ張り込んで、怖い顔をしてみせたのである)。
    その結果、ユージン王家に使える魔術師の中でも最も位高く信任の厚い者が一名、絞り
   こまれた。
    ギョーム・プリオール・アルテ。齢喜寿(77歳)を越える老爺ながら魔術の実力・魔力の
   高さは共に国内有数の術者であり、かつ人柄にも優れて王家の相談役の一人を務めるという。
    その住居はなんと、王都ではなくゼネスがここに来るまでに通り過ぎた小さな村にあった。
   公爵家の荘園から山を越え、半日ほど歩いた距離の場所である。
    『ふむ、そのジジイでほぼ間違いなさそうだな』
    そう当たりをつけた彼は、急ぎ取って返して魔術師の住む村を目指した。
    途中、夕刻を過ぎて暗くなったのを幸いに黒天馬も遣い、目的の村に着いたのが夜遅く
   日付も変わろうかという時刻。
    そうして彼は今、魔術師の家を遠目に望む位置にたどり着いていた。このたびの外出の
   最重要課題はもうすぐそこである。
    「しかし、ここからがホネだぞ」
    月明かりの下で村はずれの館(――いや、実際には多少大きな百姓屋ぐらいの規模である)
   を見つめ、ゼネスは気を引き締めた。
    この距離で、すでに魔力の気配が濃く感じられる。これは何らかの術の"仕掛け"が施され
   ている証拠だ。
    大方は余計な来訪者を近づけないためなのだろうが、実力ある魔術師が工夫の呪文効果
   が現われているのだとすれば、カードの「解呪(人にかけられた呪文の効果を打ち消す)」や
   「リムーブカース(土地にかけられた呪文の効果を打ち消す)」ごときで何とかなるとは
   思えない。
    「さてと、どう攻めるか……」
    黒馬に乗ったまま考え込んでいると、不意に頭の上から空を打つ振動がやってきた。
    バサササササ……
    大きな羽音をさせ、それは目の前に降り立った。黒い、鶏ほどの大きさの――烏(カラス)
   が一羽。ただし、背中から腹にかけて銀鼠色のチョッキを着込んだような独特の羽色をした。
    烏は太くて長い嘴をクワッと開き
    「ロア!」
    ひと声鳴いた。
    「何だ、お前は?」
    思わず口にして、鳥に向かって呼びかけるバカばかしさにひとり苦笑する。しかし烏の
   方は意外にも、じっとゼネスを仰ぎ見てからクルリ向きを変え、館に向かって歩き始めた。
   そして五、六歩進んでから振り返り、またじっと彼を見る。
    「ロア!」
    鳴いた。まるで「来い」と呼ぶかのように。
    「……」
    いったい何がどうなっているのか、不思議で仕方ない。『ワナだろうか?』とも思ったが、
   それにしては烏の様子はずいぶんと親しげで愛嬌さえ感じさせられる。
    ゼネスは試みに、馬から降りてみた。すると烏はピョンピョン、両脚で跳ね飛んできて
   彼のマントの端をくわえ、引っ張った。
    もう間違いない、この烏は「ついて来い」と言っているのだ。
    「ほう、道案内でもしてくれるのか、面白い。言う通りにしてやるぞ」
    興が動くままにつぶやき、馬をカードに戻して鳥の後に従い歩き出した。
    果たして、烏の歩みはノシノシと大股ながら行く道はくねくねと盛んに折れ曲がる。館
   は見えているのに、ぐるぐる迂回を重ねてじわりじわり近づいてゆく。それでもゼネスは
   黙ってその後ろをついて行った。
    いくばくかの時を経て、ようやく一羽と一人は館の入り口の前に立った。
    と、烏が飛び上がり、扉の脇にある小窓を突ついて
    「ロア!」
    一段と大きな声で鳴いた。するとどうだろう、窓がサッと開いた。
    「おお、ロア、お客さんを連れてきてくれたね、ご苦労さん」
    顔をのぞかせたのは、禿頭の老人だった。痩身で目もと口もとに細かなシワをたっぷり
   刻み、長いあごヒゲを垂らしている。
    まさか、これが主の魔術師か、とゼネスはいささか驚いた。
    しかしそれにしては――彼の左眼が与える情報では、老人の身体には防御系の呪文効果
   などが一切かけられていない。初めて顔を合わせる相手であるのに、裸で対するのも同様
   ではないか。本当に目指す術師なのかといぶかしみ、一応確かめてみた。
    「お前が魔術師のギョームなのか、ユージン王家に仕えるという」
    老人はニッコリと笑った。案内役の烏はすでに主人の肩に飛び乗り、頭をこすりつけて
   盛んに甘えている。
    「ああ、それなら私のことだよ確かに。本人がそう言うのだから間違いはない。
     で、そう云うお前さんは……カンパネッラ公爵どのの荘園に来ている術師どのだね。
    マルチェロ君から話は聞いておるよ、そろそろおいでなさる頃だと待ち構えておった。
    さあ遠慮はいらん、お上がんなさい。カギなどかかっておらんから」
    老人=魔術師ギョームはにこやかにドアを指し示した。深夜、いきなり訪れた物騒な
   風体の男(ゼネス)に向かい、近所の少年を招き入れるにも似た親しみやすい態度である。
    ゼネスは自分の素性が相手にすっかり悟られていることに面映ゆさを覚えた。が、さり
   とて外に立ったままというわけにもゆかず、仕方なくドアの持ち手を引いた。本当にスッ
   と簡単に開く。
    だが屋内に一歩入って目を見張った。
    家の造作そのものはごく簡素で、当たり前の百姓屋より多少間取りが広いかという程度だ。
   しかし頭上で輝く呪文の灯に照らし出されたそこは――
    本・本・本……どこもかしこも書物と、そして何か書きつけた紙の束の洪水ではないか。
   部屋の床から天井まで、一面を棚にして本を詰め込んでいるのにまだ足りず、机の上から
   イスの上からありとあらゆる場所に本が積み重なっている。
    入ったはいいが呆気にとられ、足を進ませかねている"客"を見て、老人は禿頭を掻いた。
    「悪いね、散らかしっぱなしで。王都にある二軒の家が本で埋まってしまってこちらに
    移ったんだが……いつの間にやらこの有り様だよ。なあに、いざとなったら本の上に座って
    くれたってかまやせん」
    そう言って玄関から左手に開いた部屋に入ってゆく。ゼネスもその後に続いた。見れば、
   老人は部屋の中ほどに置かれた机とイスの上からえっちらおっちら、書物をどかせている。
    「無用だ、俺こそ立ったままで問題ない。それよりも、さっそくだが俺はお前に尋ねたい
    ことがあってここまで来た、必ず答えてもらうぞ」
    ドスを効かせた低い声音で語りかけた。ゼネスの手はすでに、マントの下でひっそりと
   一枚のカードを抜き持っている。
    老人は振り返り、今度はニヤリと笑った。シワの中からスキの無い眼がこちらを窺う。
    「お前さん、かなりお出来になるね。それにもしかすると、私よりもお年上でいなさるか」
    肩の上の烏も、首をかしげて訪問者を見守る。
    「そんな話はどうでもいい、俺のことを知っているならいっそ好都合だ、聞きたいという
    のはだな……」
    話し始めた彼を、だが老人はサッと手をあげて抑える。
    「まあ、まあちょいとお待ち。実は私もね、あんたにぜひとも訊いてみたいことがある
    のだよ。だからどうだい、お前さんと私とで取り引きをしようじゃないか。私があんた
    の訊きたいことに答え、あんたが私の知りたいことに答える、これでお互い万々歳だ」
    「貴様は」
    ゼネスはマントを跳ね上げ、カードを掲げた。
    「自分の置かれている状況がよくわかっていないようだな。取り引きだと?ふざけるな、
    貴様が呪文を唱え終わるよりも先に、俺はこのカードから"力"を取り出すことができる。
     "電光の矢"でドテッ腹に穴をあけられたくなかったら、大人しく質問に答えることだ」
    この恫喝の態度を見て、老人の烏が全身の羽をふくらませ、嘴をカチカチ鳴らして威嚇を
   仕返した。……が、飼い主の方はシワの寄った手で愛鳥の頭をなでてたしなめにかかる。
    「ロアや、そう怒るでない。これまでに黙ってお前の案内の後を付いて来られたお人に、
    悪いやつがいたためしなぞ無かったじゃないか。
     このお方はね、こんな言い方しか出来ない不器用なお人なのだよ。まあ、大目に見て
    やっておくれ」
    そんなことを言われ、ゼネスはバツの悪さが極まって顔から火が出た。
    「うるさいぞ、つまらんことをグダグダ言いおって、さっさとこちらを向け!」
    老魔術師は相変わらずにこやかに、恐れ気なく向き直った。
    「そう言えばお前さんはセプターだったね。そちらの質問――というのはだいたい見当は
    ついとるんだが、まあ答えられるだけは答えてみようよ、どうぞ」
    ようやく態勢が整った。ゼネスはカードを掲げていた手を下ろし、切り出した。
    「貴様はカンパネッラ公爵家の次男、アドルフォのことを知っているな。単刀直入に聞く、
    ヤツはいったい何者なのだ?」
    その名を出した瞬間、老人の顔に初めて緊張が走った。ブルルッ、かすかに身体もふる
   わせる。
    「いやいや、あの御方が何者かなど、どうして私らごときに知れようものかね。
     ところでそういう問いが出てくるということは……あんたも若君さまと、直にお会い
    なさったのかな?」
    魔術師の視線がピタリとゼネスを捕らえた。抜け目ない聡明さをたたえた深いグレーの
   瞳、そこに畏れの記憶を押し殺した男の顔が映っている。
    「――そうか、やはりお会いなされたのか。恐ろしかったろう、魔力を持つ者であれば
    皆、あの方の前に出ると、己れがいかにちっぽけな存在に過ぎぬかが思い知らされる。
     かく云う私もそうさね、巨大な、冥い底無しの淵を覗きこむようで足がすくむよ。
     若君さまのお人柄そのものは、いたって聡明で心ばせの深い、ものごとに感じやすい
    繊細さをお持ちなのだが、お目もじする前には気持ちの準備が要るわい。
     なにしろあの方、若君さまは"力"の御子だからね」
    「"力"の御子……だと?どういう意味だ、それは」
    問い返す。と、老人は軽く微笑した。
    「お前さん方セプターはカード、我々魔術師は呪文によって"力"を取り出し現わす。
    だが私が考えるに、カードも呪文も実は一つのきっかけに過ぎない。大切なのは術者の
    意思、精神の働きなのだよ。これがなければ何も始まらん。
     魔力というものは、術者の精神を"力"に呼応させるための媒介だ。まず"念じる"という
    精神の働きがあり、魔力を介した呼応の結果『扉』か『孔』を通って"力"が形を成す。
    その仕組みはすでにあんたも充分にご承知済みだろう。
     ところが若君さまの場合は、どうやらその精神が直に"力"と通じてしまっておるよう
    なのだ。つまりアドルフォさまご自身が『孔』そのものなのだよ。
     わかるかね、我々があの御方から感じ取っているのは形を成す以前の"力"の実相、
    "力"が拠って来たる場所そのものだ」
    「何だと」
    目を見張るゼネス。その顔を見やり、老魔術師はうんうんとうなずいた。
    「驚いたかね、いや、そりゃあ驚くだろうね。しかしそうでも考えなけりゃあどうにも
    説明がつかんよ、カードも呪文も使わないまま、お気持ちの揺れが何らかの効果を引き
    起こしてしまうなどとは」
    「う……む……」
    確かに、公子・アドルフォこそが"力"を呼ぶ孔である――と考えれえば、これまでに
   彼が目にした数々の現象からマヤやマルチェロが語ったことまで、いずれも説明がつく。
   納得できる。
    何より、初めて公子の姿を見た時に感じた巨大な冥い穴の印象が……。
    『しかし、だとすれば、そうだとするならば』
    その先には、あるひとつの類推が浮かんでくるではないか。そしてその類推が導く結論
   を思うと、ゼネスは心臓が圧されるような重い息苦しさを覚えずにはいられない。
    「それでだ、術師どの。私がお前さんにお聞きしたいのは、今荘園のお屋敷で若君さま
    のおそばに付いているというお前さんのお弟子のことなのだよ。
     何でも、そのお人は魔力を持つセプターでありながら若君さまのことを少しも恐れず、
    あまつさえ、直に相対する前より心を交わしておられたというではないか。
     これは、いったいどういうことなのだろうね?」
    魔術師の口もとは軽い笑みさえ含んでいた。だがその視線は大そう鋭く、何ひとつ変化を
   見逃さない観察力に満ちた光をたたえている。
    「しかも、先日マルチェロ君がよこしてくれた報告では――」
    老人はゼネスの上に目を据えたまま、話を続けた。亜神とはいえ、今や彼は鷲(ワシ)の
   爪につかまれたネズミの境遇にほど近い。
    「お弟子どのが若君さまにカードを渡されたところ、若君さまは、呪文の種類によって
    異なる形状のイメージを"見る"お力を発揮されたそうな。またそれだけでなく、反対に
    イメージを念じることで、対応する効果を発動させることもおできになれたとか。
     不思議だ、何と不思議なことだろうね、全く興味が尽きない。
     実は私も以前に何度か、若君さまにカードをお渡ししてみたことがあるのだよ。だがその
    際には、"何かお感じになる"とのお答えは得られなんだ。
     どうも報告を見る限りでは、お弟子どのがアドルフォさまのお力を新たに目覚めさせた
    としか思えぬわい。なあ、術師どの、ぜひとも私に教えてはくださらぬか。
     あなたのお弟子のマヤなる娘さん、その御方こそはいったい何者であるのだろうねえ」
    真っ直ぐに、貫き通すほどの強さで老人の視線がゼネスに突き刺さってきた。ゼネスは
   必死に足を踏ん張って耐えた、ここで負けてはならない、認めてはならない。
    絶対に、類推の結論を口にしてはならない。師弟の関係を今すぐに変えたくないので
   あるならば。
    「知らんな、あいつはただの当たり前のセプターだ。公子とのことは、俺は単なる偶然
    だと考えている」
    気力の全てを込め、老魔術師の視線を押し返すべく足掻きながら空言(そらごと:ウソ)
   を云った。否、彼が本心で「かくあれかし」と願うことを。
    「ふ〜む、そうかね……」
    老人の目が細く笑んだ、さもさも"面白いものを見た"とでもいうかのように。ゼネスの
   努力にも関わらず、何もかも「バレている」ことは明白だ。だが魔術師はそのまま、ただ
   にこやかに親しげに眺めるだけで何も言わずにいる。
    相手の努力を尊重すると、決めてくれたのだろうか。
    「まあ、良いわさ。いずれにしろこれはお前さんとお弟子との間のこと、私が口を挟む
    のはヤボだったな、すまんね」
    老魔術師は侘びを言い、この問いからゼネスを開放してくれた。
    「いや、それはいい。
     しかし"力"に直に通じた精神とはまた……さすがに俺も正直驚いている、何でそんな
    ヤツが生きた人間として存在するんだ?それと公子には兄もいたはずだったな、そっちの
    方は普通の人間なのか?」
    ゼネスの質問に、老人はつまらなそうな顔つきをしてかぶりを振ってみせた。
    「どうしてアドルフォさまのような御方がおられるのか……とな?それはわからん、われら
    人の身より他に持たぬ者どもにはうかがい知ることのできない範疇のことだよ、それは。
    ――『扉』や『孔』の向こう側にまでゆけるならば手掛かりを得ることもできるだろうが。
     それから兄君のレオナルドさまは、ごく普通の貴族の少年だよ。少しはにかみ屋さん
    だが真面目で利発な、公爵どのによく似た御方だ。ただ……弟君のお力のことはほとんど
    知らされておらんだろうな。もしかすると、弟がいる事実すらご存知ないかもしれん。
     ……それにしても、惜しいのはアドルフォさまだよ」
    老魔術師はゼネスからいったん目線をはずすとつぶやいた。
    「あの御方のことは私も気になっておってね。初めてお会いしたのは、まだ二歳という
    お小さい頃だったなぁ。
     公爵さまから内密に相談に乗って欲しいとのお話があってね。それでお会いしたのだが、
    もちろんそのお歳ですでに、あの恐るべきお力は十二分に発揮されておったものだ。
     私はその時、この可愛らしいお子にどうして、膝が震え歯の根も合わぬほどの恐怖を
    感じて止まないのか――と思った。その一方で、原因を突き止めたい、ともね。
     結局、好奇心が恐怖に打ち勝って今もこうしてお付き合いを続けておる。マルチェロ君
    との連絡を密にしておるのも、私のほうから彼に頼んだことなのだよ。
     思えば、公爵さまはご多忙、奥方さまはご次男については一切手を出されないときた。
    アドルフォさまは実質、あのマルチェロ君が男手ひとつで養育してきたようなものだ。
    そんな事情を知るだけに、どうも他人ごととは思えぬなぁ」
    「家令がそこまで尽くすのは、公爵家への忠義心からか?」
    ゼネスは注意深く言葉を選びながら尋ねた。話題がついに、一番聞き出したい部分に差し
   掛かってきている。
    「うむ、最初はそうだったろう。彼は下級士族の出でね、さる伯爵家に小姓見習いとして
    出仕していたところを、客として訪れた先代の公爵さまに見出され、お引き立てを受けた
    男だ。肝が太くて頭が切れて情に厚い、男の中の男とは彼のことだよ、全く。
     公爵さまがいろいろと難しいご次男の養育をまかされたのも、その人柄を見込んでの
    ことだと私は思っちょる。
     マルチェロ君の方でも、公爵家の表舞台に戻れぬことは承知の上でなお、心を尽くし
    て若君さまにお仕えしてきた。私は十年見守ってきたからね、よくわかっているつもりだ。
     アドルフォさまが、不如意なご境遇ながらおやさしく直ぐなお心をお持ちであるのも、
    彼の努力があってこそだろうね」
     ただ、どうも母親との縁が薄いせいか、奥方さまのことを強く慕いすぎるきらいはある
    のだが……」
     老人が唇を曲げて長いあごヒゲをひねり始めたので、ゼネスはまた注意深く聞いてみた。
    「その公爵夫人だが、公子を嫌っているという話は本当か」
    老人の目がキラと光った。
    「ほう、お前さん事情通だね、お弟子からお聞きなすったか。
     まあ、実際のところ本当さ。奥方さまはユージン王家の末の姫でね、生まれてこの方
    ご自分の思い通りにならぬものは何ひとつなかったというご身分だ。
     あの方の目から見れば他の者などは、ことごとくご自分の楽しみを満たすための手段
    でしかない。それがたとえ夫君の公爵さま、兄上のユージン王さまであってもね。まこと
    生粋の貴族的性分の持ち主だよ。
     ところが、その奥方さまもついに意のままにならぬ者にぶつかってしまった、それが、
    ご次男のアドルフォさまだ。
     なにしろ生まれたばかりの赤ん坊の頃から、旋風を起こして部屋中をひっくり返したり
    周囲に怪しい光を飛ばせたりするお子だ。奥方さまにすれば、子どもなどご自分を賞賛
    させるためのネタか、着飾らせてペットのように連れ歩く者でしかなかったのだから、
    プライドを傷つけられたようにお感じになったのだろうね。
     ご出産の後、数日をまたずして「妾(わらわ)は今後一切、この者と関わりとうない」
    そう宣言されてしまった。
     それでお困りになったのが公爵さまだ。腹心のマルチェロ君に因果を含めて一任した
    ――というのが事の流れなのだよ」
     あごヒゲをひねる手を休めず、魔術師はさらに言葉を続けた。
    「二年前に若君さまを本城からお移しすることに決まった際にも、奥方さまは荘園屋敷
    ではなく城内の"服喪の塔"に閉じ込めたいと、かなり強硬に主張なされたらしい。
     しかしこの塔というのは、昔城主が喪に服する際に篭(こも)った場所でね、何の飾り
    もないガランとしたうす暗い建物なんだよ。だからさすがに公爵さまも哀れに思われて、
    どうにかこうにか奥方さまをなだめてやっとこさ荘園屋敷に移すことを承知させたという
    いきさつもある。
     さて、ここからは私の独り言なんだが……」
    老人はヒゲいじりの手を休め、あらぬ方を見た。
    「実は若君さまが映られてから二度、あの屋敷には曲者が入り込んでおる」
    「曲者、"賊"か?」
    ゼネスも耳をそばだてた。しかし彼の言には取り合わず、老人は"独り言"を続ける。
    「最初は一人、二度目は二人組だったそうな。夜中に忍び込んだようだが、いずれも三階
    の大広間で死んでいるのを発見された。それも、自死の状態でだ。
     自分の剣で心臓を突いたり、縄でくびれ死んでおったそうな。そしてマルチェロ君の
    見立てでは、その者らは単なる物盗りではなく暗殺を稼業とする者だったらしい」
    「それは……!」
    息も言葉も呑んだ、二重の驚きである。
    「持ち物から見当がついたそうだが、誰が放ったのかね。
     それと、そうした稼業の者らが追い詰められて死を選ぶ際には、証拠を残さぬように
    火の呪文で自らを焼き尽くすか爆死するものと相場が決まっておると聞くが――彼らは
    夜の広間で何を見て、己れの死骸をさらすはめとなったのだろうねぇ?」
    ゼネスは身を固めたまま魔術師の横顔を見守った。額にジワリ脂汗が浮く。
    「実は、つい最近も深夜に押しかけた者がいたらしい。そいつもやっぱり三階の広間に
    誘いこまれたようだが、しかしなぜか無事生きて屋敷を出ることができたそうだ。
     どうかね術師どの、この話、お前さんのご興味を惹いたかね?」
    「独り言じゃなかったのか……?」
    半ばうめくように言い返すのが精一杯だった。「今度こそはお命にも関わりかねませず」
   ――あの時の家令の言葉が脳裏によみがえる。
    「ああ、そうだったね」
    肩をすくめてぺろり舌を出し、だが老人はすぐに神妙な顔つきになった。
    「術師どの、お近づきになったご縁で私からひとつだけお頼みしたいことがあるのだが。
    カードを、カードのクリーチャーをお遣いになるところを見せていただきたい、お許し
    願えまいかな」
    「今すぐにか?それは……造作もないことではあるが」
    思いがけない依頼に、ゼネスはややとまどった。しかし老魔術師は重要な情報を惜しみ
   なく開陳してくれたのだ、少しはその好意に報いねば、そう思い直した。
    「老師には、夜分突然訪ねたのにもかかわらず存分なもてなしを受けた。ご所望とあらば
    カードを遣ってその返礼となそう」
    彼もまた形をあらためて応え、二人は玄関を出て庭先に立った。
    東の空が白みはじめている。ゼネスは明け近い湿った気を肺いっぱいに吸い込んでから
   右手で一枚のカードを高く掲げた。
    ヴィーーン……
    澄んだ大気を振動させて「光」が、輝く"力"が呼び出された。カードの面(おもて)から
   せり出し、盛り上がってやがて大きな球を作る。さらに明るく大きく輝きながら「光」は
   成長し、密度を高めた。振動の音が高く強く鳴る。
    ついにまばゆい輝きが辺りを圧し、瞬間、ゼネスの手からカードが消えた。同時に光の
   球から黒い物体が現われ、突き出される。
    今や輝きは凝集し、一個の"存在"へと析出してゆく――長い鼻づら、たてがみ、紅く
   燃える眼、竹を削いだような耳、太くしなやかな首と胴、蹄の付いた四本の脚、そして翼。
    大きな、力強い黒い翼の羽ばたき。
    「おお……!」
    老人の前に出現した黒馬は、カツカツと足踏みし翼を広げて高くいなないた。老人の烏も、
   つられたようにバサバサと羽ばたく。
    「なんと美しい、素晴らしい……やはりカードの力は偉大であるな。術師どの、あなたは
    セプターとしてまことに抜きん出た能力をお持ちだ、これほどの技を見せていただいた
    のは久しぶりだよ」
    満面をほころばせ、魔術師はゼネスを称えた。だが当の彼は、クリーチャーを一体出した
   だけでなぜこれほどに感嘆されるのか合点がゆかず、少しあきれながら相手を見ている。
    「そう……昔ミリアどのがカードを使われるところを拝見して以来かもしれん」
    「ミリア?ミリア=ソレルのことか?」
    驚き、問い返す。大賢者の称号を得たかつての名セプター、ミリア。ロメロの曾祖母の
   名がこの老人の口から出るとは。
    「もちろん、エテルナ王国のセプターにして大賢者のミリアどのよ。私の師匠がミリア
    どのとは面識があってね、弟子に入って間もない十一の時に、一度だけお会いする機会
    を持った。
     ミリアどのはその頃、引退される直前であったから……五十間近だったか。それでも
    大そうお美しく気品ある女人であったな。師匠に紹介された私に『何か知りたいことは
    ないか』とご下問くださったので、思い切って『カードをお使いになるところを見せて
    ください』と申し上げたのだよ」
    老人はうっとりと黒馬を眺めながら語っていた。シワだらけの顔に、ほのぼのと血の色
   が差して見える。
    「私はその時までまだ、セプターがカードを使う様子を一度も見たことがなかったのだ。
    ミリアどのはやさしくほほ笑まれ、『それではよく見ていらっしゃい』そう仰るとカード
    を掲げられた。
     お会いした場はミリアどののお宅のテラスだったのだが、小さなカードからまぶしい
    光が辺り一面に放たれてびっくりしたよ。それでも、眼を細めながらも懸命に見ようと
    したな。
     やがて、輝きの中心から何ものかが現われてきおった。細く鋭い翼を持つ雷撃の飛竜、
    "サンダービーク"だ。
     美しかった、一点の曇りも迷いもなくそれは美しかった。長く突き出たトサカを持つ
    頭部をシャンと持ち上げ、翼を広げて、時おり全身が青白い放電に包まれる。一声啼き、
    風を起こして空に舞い上がった。
     ああ、くっきりとこの眼に焼きついておる。夕暮れの茜色の空に、鎌の刃の形をした
    翼が黒々と抜けて見えたこと、その翼をひるがえし飛竜はツバメよりも速く風を切って
    飛んでいたことを。
     飛ぶ、何のためでもなくただに飛ぶ、あふれるがままに飛んでゆく。光があり海があり
    風があり地があり、その中に在って常にその全てを宿す。
     もちろん、子どもの私にすぐさま深い理解ができたわけではない。だがね、『美しい』
    と思った。そしてこの『美しさ』こそが『正しい』のだとも。いや、直感した。
     以来私は、魔術師の立場から優れたセプターが体現する『美しさ』の正体を知りたいと、
    ひたすら研究を重ねてきたのだよ――」
    老人の眼線はいつしか、明けの虚空に留められていた。熱を込めて語られる言葉はしかし、
   ゼネスには正直、半分も内容が理解できない。が、『美しさ』だけは耳に引っ掛かった。
    ――『カードの力は"表わし"のひとつ』――
    ミリアその人が語ったという言葉に、とても近いような気がされて。
    「うむ、セプターがカードを通して体現する『美しさ』を呪文によって実現できないか、
    とね。師匠から独立した後も、各地の魔術師を訪ね多くの書物をひもといたものだ。
     だがね、そうして研究を続けたあげく、私はしばらく前にひとつの結論に達した。
     結局、呪文はカードには及ばないのだと」
    痛切な断念を語っているはずであるのに、その声は不思議と明るい。
    「呪文は、もともと人が"力"を使役するために発展させてきたものだ。どこまで行っ
    ても引き出し使う役目、何がしか為にすることから逃れられない。カードはいつでも、
    無償の『美しさ』を創り出すことができるというのにな。
     カルドセプトのカードに世界を創る力があるという言い伝えは、今ではくだらぬ雑言
    として一笑に付されてしまっておる。世界を創造して何の得になるのか、愚か者の夢だ
    とな。だが本当に愚かなのはむしろ、我らの方ではないのか。
     いつの間にやらセプターも魔術師も『美しさ』や創造を求める心を忘れ、より多く得て
    より使うこと、為にすることにばかり重きを置くようになってしまった。しかし、創造を
    忘れて消費にふける世界は、いつかそのしっぺ返しを受けるのではなかろうか?
     今までに使った全てを一時のうちに返済させられる、そんな日が遠からず来ないとは
    誰が保証できよう?
     あるいは、アドルフォさまというお子は……いや、私はあの方のことが好きなのだ、
    つまらぬ当て推量は止めにしておこうよ」
    最後のほうはつぶやきとなって、老魔術師は二度、三度と頭を振った。赤紫の空に輝く
   名残の星の下で、しかし彼の表情は心なしか沈んでいる。
    だが、すぐにシワ寄った顔をゼネスに向けた。
    「術師どの、ここはひとつ心を決めてマルチェロ君に相談なさるがよい。若君さまを
    お連れするための方策と段取り、彼ならばきっと上手いやり方を用意して立ち回って
    くれよう。
     それにあの屋敷の使用人たちは皆、彼の一族の者なのだよ。だからマルチェロ君さえ
    承知してくれれば、全員が問題なく協力するだろう。
     悩んでおるのさ、彼も最近は。アドルフォさまにとり最もお幸せな生き方はどういう
    ものなのか、とね。たださすがの彼も、貴族のご身分からすっぱり足を洗わせてしまう
    ことにはためらいを感じておる。だからあんたが行って、背中を押してやるといい」
    ニコニコしながら、何とも大胆な提案をしてのけた。
    やはりこちらの思惑は見透かされていたな――とゼネスはまぶしいような気分だったが、
   それもこの老人であれば当然か、などと今は素直に認めることができる。
    「老師よ、ご助言に感謝する。おかげで……」
    「アア、カーアァ」
    礼を述べようとした言葉をさえぎり、いきなり老人の烏が大声で鳴いた。何事かと見れ
   ば鳥は空を、それも北東の方角の一点を熱心に見つめている。
    「おや……?」
    老魔術師も見上げた。明るくなってきた朝空に、黒い点がひとつ。
    「鳥、烏だな」
    もちろん、ゼネスの竜眼はその姿をしっかり捉えている。上空の点は首から腹にかけて
   銀ねず色をした烏、ロアと同じ種類だ。
    「カ〜ア!」
    そのロアは主人の肩に止まったまま、バサバサと翼をふるった。待ちきれないといった
   様子で、空の仲間(?)に合図でも送っているようだ。そして実際、黒い点はすぐさま翼を
   広げた鳥の形となり、ぐんぐん大きくなって地上に近づいてきた。
    「カ〜アァ!」
    上空からも鳴き声(やや細い声)が降ってきた。そして、
    バササササーッ
    もう一羽の烏が、老人の空いている方の肩の上に舞い降りた。
    「おお、カーラよ、ごくろうさん。しかしいつもとは違う方向から来たね、お前は。ん?
    そうか、マルチェロ君はお城から手紙を寄こしてくれたんだな。
     ……しかし、はて、そんな予定は聞いておらんかったがなぁ」
    首をひねってぶつぶつ言いながら、老人は飛んで来た烏(カーラ)の脚に付けられた細い
   銀色の筒をはずし、中からきれいに丸められた紙を取り出した。
    (どうやら魔術師は、この烏たちを使って家令と連絡を取り合っていたようである)
    指先に呪文の灯を点けて、老人は紙片に書きつけられた文字を追った。が、すぐに彼の
   表情は険しく変わった。
    「これはいかん、術師どの、事態急変だ。公爵さまが倒れられた、昨夜の夕食後だそうだ。
     お屋敷にもすぐさまお迎えの馬車が来て、若君さまとマルチェロ君は今お城にいると
    書いてある。これはあんた、急いで荘園に戻って様子を見なけりゃならんよ」
    聞いてゼネスも顔色を変えた。もちろん、彼の心配は弟子の少女の行方である。
    「わかった、俺はこのまま天馬でおいとまする。老師、機会あれば次はあなたに弟子を
    引き合わせよう」
    「そうかね、待っておるよ。とにかくお急ぎなされ、それともう明るいから充分にお気を
    つけてな」
    慌しく別れを交わした後、黒馬は颯と大地を蹴って風に乗った。翼を打ち振るうたびに
   みるみる老人が、館が、庭が、村が、足下に小さく遠くなる。
    『マヤ……』
    重い気掛かりを抱え、黒い翼は山を越えた。

前のページに戻る 続きを読む
 「読み物の部屋」に戻る