「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る


       第8話 「 公子 (サイクロプス) 」 (7)


    人気のない村はずれを選んで降り立つとすぐさま黒馬をカードに戻し、ゼネスはひたすら
   荘園の中を屋敷に向けて走った。一本、二本と小川を越え、種々雑多な作物の葉が繁る畑
   を後にし、麦が植え付けられていた一帯に差しかかる。
    つい先だって見た時には黄一色に染まっていたそこは、しかし今日はほぼ一面が切り株
   ばかりだった。急に「ガラン」とだだっ広くなった地面、その上に、ぽつんぽつんと黄色な
   小山ができている。
    それは刈り取った麦を束ね、よく乾くまで積み上げてある山なのだ。――が、今のゼネス
   の目にそうした周囲の事象の変化はさして映ってはいないのだった。全てはただ流れ去る
   風景に過ぎない。
    弟子の少女、彼女もまた公子と共に公爵家の居城に向かったのか。それとも荘園屋敷に
   待機しているのか。
    できれば城になど行っていて欲しくない。公子のことはともかく、とりあえず彼女には
   自分のそばに戻って来て欲しい。そんな願いとも欲求ともつかない思いばかりがふくらみ、
   今しも身体の外へとせり出して彼を引っ張り駆けさせてゆく。
    そうしてついに、荘園の中ほどにある長い長い石塀にたどりついて回りきり、門の前に
   出た。門番はすでに起き出していた(そして、実に沈鬱な顔をしていた)。
    ゼネスは息をはずませながら、
    「公爵どのが倒れられたと聞いた。若君は城に戻られたそうだが、俺の弟子は供として
    ついていったのだろうか?」
    一気にそれだけを尋ねた。すると、
    「お弟子どのでしたら、ただ今はジョルジオの宅においでです」
    そう答えるではないか、彼は内心『ホッ』と安堵の息をついた。
    「そうか、家令どのから何事か言付かってはおらんか」
    ついでに聞く。門番は、
    「"公爵さまのご容態により、今後のことはまた追ってご連絡さしあげます"と。
     私も気を揉んでおりますところでございまして」
    そう言って、いっそう顔を暗くする。
    「そうか、承知した、お役目ご苦労」
    ゼネスは身をひるがえし、今度は自分が滞在中のあの百姓屋へと走り向かった。
    到着し、三日ぶりに目にしたそこは、以前にも増して人の出入りが多くなっている。皆
   てんでに鎌や縄などの麦刈りに使う用具を手に、忙しく行き来していた。
    さすがにそのただ中に駆け込むことははばかられ、彼は家の裏側に回って生垣の間から
   こっそりと敷地に入った(竜眼のおかげで犬にも吠えられずにすんだ)。
    そうしてようやく「離れ」の部屋に近づくと――中には確かに人の気配がある。
    彼が、よく知っている気配がひとつ。
    胸の動悸を抑え、「コン、コン」ゆっくり二度ノックした。
    「……ゼネス、なの?」
    声がした、サッとドアを開けて飛び込んだ。
    「マヤ!」
    弟子の少女がそこにいた。今度は間違いなく本物の、人間の彼女が。いつも通りの男装に
   戻り、寝台の上に座って。
    悄然として。
    後ろ手にドアを閉め、ツカツカと弟子のそばに寄ってはみたものの、ゼネスは今彼女に
   何を言ったらよいのか、かけるべき言葉が少しも思いつけなかった。ただ傍らに立って、
   うなだれる少女の伏せられた睫毛を見つめる。
    「行っちゃった、アドルフォ……。
     どうしよう、すごく不安、胸騒ぎがするの。このまま二度とあの子に会えなくなるん
    じゃないかって、そんなことばかり考えちゃう……」
    下を向き、自分のひざ小僧のあたりに目を落としながらポツリポツリ言った。
    震えがちな、精彩に乏しい声で。
    「どうしよう、ゼネス……」
    ようやく師の顔を見上げた。とび色の瞳の上に涙が盛りあがっている。
    こぼれそうに、あふれてくる。
    不意に、ゼネスは自身の内奥から強い衝動が吹き上がってくる感触を覚えた。それは
   胸を圧されるように苦しく、ひび割れるように痛く、しかしてどこかうっすらと甘美の色あいに
   染まっている。
    「ジワリ」、腕が勝手に動き出しそうになった。無作法な真似を仕出かさぬよう、彼は人
   知れず懸命に己が四肢を律した。
    そして、
    「今からそんなことを決めつけてどうする、お前らしくもない。連絡が来るまで待つんだ」
    精一杯の励ましを口にしていた。
    少女はうん、うんとうなずいて目をこすり、涙をぬぐった。だがしばらくすると、今度は
   寝台の上で両のひざを抱え込み、そこに顔をくっつけてしまった。
    師の方は窓に寄った。外の物音に注意を払う一方、不安に耐える弟子の様子を見守る。
   それぐらいのことしか、今、彼にはできない。
    二人ともそのままで動かず、口も開かなかった。長い長い一日が、無為のうちに過ぎて
   いったのだった。


    窓の外の光が赤く染まり、内側では薄暗く物の輪郭がにじみだした頃、
    カカッ、カカッ、カカッ、カカッ……
    遠くから早馬の駆ける蹄の音が聞こえてきた。思わず耳をそばだてると、それは一散に
   この百姓屋に向かって近づいてくる。
    「お城の馬だ!」
    「伝令か?」
    家の庭先で、今日の分の麦刈りを終えて戻って来た農民らが口々に声をあげた。ゼネスは
   細く開けていた窓を半分まで押し開いた。
    ひと呼吸おき、わらわらと左右に分かれた人々の間を一頭の馬が息せき切って駆け込ん
   できた。止まった、と同時に黒いフード付きマントを羽織った人物が素早く飛び降りて、
   被っていたフードを取った。
    「マルチェロさま、マルチェロさまではありませんか、なぜまたあなたさまが伝令なぞを?」
    家の主人が慌てて出迎えたのへ、人物は何事か耳打ちした。とたんに主人が「えっ!?」
   と棒立ちになる。
    彼はそのまま周囲の農民たちに軽く会釈し、
    「詳しくは、後ほど」
    ひと言だけ告げ、離れの窓から見ている術師の方を向いた。
    目と目がカチリ合った。マントの人物=家令・マルチェロは沈鬱な、非常に厳しい表情である。
    どうやら覚悟しなければならないことがある、そうとゼネスも思い定めた。
    「家令が来たぞ」
    振り向き、弟子に声をかける。少女は弾かれたように身を起こし、師を見た。
    唇を噛んでいる。師の声音と顔つきから、彼女もまた覚悟の必要を感じ取ったのだ。
    その時、ドアがノックされた。
    「術師どの、マヤどの、マルチェロにございます」
    初老の紳士の低く抑えられた声がした。
    「待っていた、入れ」
    ゼネスは応えて窓を閉め、呪文の灯を点けた。紳士は静かに、重々しい足取りで部屋に
   入ってきて一礼した。
    「お時間がございません、失礼ながら手短かにご説明させていただきます。
     公爵さまにおかれましては、まことに残念ながら今朝がた早くにみまかられました」
    『やはり、そうか』
    息を呑み、師弟は相手の次の言葉を待つ。
    「これにより、カンパネッラ公爵家のご当主はご長子のレオナルドさまが継がれること
    とあいなりました。ユージン王家よりアラン侯さまがニールさまのご名代としてお出張り
    くださり、爵位継承の承認をなさっておられます。
     当面は、アラン侯さまがレオナルドさまの後見役として補佐してくださるとのことです」
    家令はいったん言葉を切った。そして瞑目し、さらにいっそう沈痛な面持ちとなると、
   師弟が最も知りたい話に移った。
    「アドルフォさまは、城内の"服喪の塔"に篭(こも)られました」
    「篭るって……どれぐらいの間ですか?」
    小さな声で恐る恐る尋ねるマヤに、返答はしかし、
    「それは……今後ずっとでございます。
     若君さまはすでに塔にお入りになられ、入り口も窓も閉じられました。俗世を離れ、
    塔の内にて修養の道を歩まれることで、お父上の御魂と領国の安寧をお守りなさるのです」
    そう言って、紳士は少女に深く頭を下げた。
    「ちょっと……!待ってよそれって何、どういうこと?これからずっと篭るって、修養の
   道って……そんなこと言って本当はあの子を塔に閉じ込めたってことなんじゃないの!」
    マヤの声は高く厳しく、唇を震わせ食い入るように家令を見つめている。が、やがて頭
   を上げた紳士の顔もまた、悲痛の色に満ちていた。
    「マヤどの、閉じ込められるのではありません、実はこの仕儀はアドルフォさま御自ら
    がお望みになった結果、決まったことなのでございます」
    「あの子が自分で……そんな……ウソ」
    身をすくませ両手で口を覆った少女に、紳士はなおも事実の説明を続ける。
    「若君さまはこのことを、公爵さまがご危篤になられた時からずっとお一人でお考えに
    なっておられたようです。レオナルドさまの爵位継承が済むとすぐさま、アラン侯さまと
    奥方さまの御前に進み出られて
     『わたしはこれから服喪の塔に篭り、父上の御魂と領国を守るため、祈りの日々を
     送りとうございます』
     そう告げられましたから」
    「でも……でも……」
    マヤは涙声でかき口説いた。
    「誰も止められなかったの、その時?アドルフォはまだ十二なんだよ、奥方さまは何て?」
    「それが、大変満足そうにほほ笑まれまして――」
    家令がまた目を瞑(つむ)った。痛ましい情景を想い起こすのか、彼の肩もまたかすかに
   震える。
    「奥方さまは
     『そなたの望み、殊勝である。許します、身を慎み修養にお励みなさい』
     とのみ、仰いました」
    「どうして!」
    叫び、少女は顔を覆って床にうずくまった。その彼女の上に、さらに紳士の声が落ちる。
    「マヤどの、わたくしはここに若君さまよりあなたさまに宛てたお手紙をお預かりして
    おります。お読みになっていただけますでしょうか」
    そろそろと顔を上げた少女の前に、折りたたまれた白い紙が差し出された。マヤはそれを
   取り、開いて目を走らせると
    「あああ〜〜〜」
    今度こそ本当に泣き伏してしまった。
    「貸してくれ、それを」
    ゼネスは涙に暮れる弟子の手からそっと手紙を抜いた。紋章の透かしの入った上質の紙
   には、子どもの手跡とは思えぬ達者な字が書き連ねられていた。
    ――「親愛なるマヤ、あなたと急にお別れすることになってしまいました。
     あなたはわたしに"一緒に旅に行こう"と誘ってくれたのに、こたえることができなくて
    ごめんなさい。
     あなたと会うまで、わたしはいつも自分のことを『生まれてきてここにいて、本当に
    良いのだろうか?』と思う毎日でした。なにしろ母上が生んでくださったその日から、
    わたしは母上を怒らせ、父上を困らせ、マルチェロを悩ませ続けてきましたから。
     "力"――誰も願っていたわけではないのにどうしてか"力"に通じてしまっていると
    いうこの能力のせいで、わたしはただ家中に迷惑をかけるばかり、自分の務めを果たせ
    ない厄介者でした。
     でもマヤ、あなたのおかげでようやくわたしはこの力の使い方を知ることができた。
     わたしはこれまでずっと、多くの人の手に支えられて尽くされてきました。生んでくだ
    さった母上と父上、身の回りの世話をしてくれる家中の者たち、国の元である領民たち。
    多くの人がいてこそのわたしです。だから、これからはわたしが自分の能力を使って
    皆にお返しをしようと思います。
     決めました、わたしは城内の塔に篭って祈ります。疫病や日照り、飢饉を退け、皆が
    豊かに幸せに暮らせるよう祈り続けます。わたしの力を使えば、それができるはずです。
     これまで皆を守っていた父上は亡くなられました。わたしはここにいたい、そうして
    母上を、兄上を、家中の者を、領民を、父上に代わって守りたい。
     支えられ尽くされてきた分は、いくらかでも報いなければ。それが、貴族に生まれた
    わたしの一生の務めでしょう。
     マヤ、短い間だったけれど、あなたと過ごした日々はわたしの一番の宝物です。
     ありがとう、あなたが来てくれたから、わたしはここにいてもいいのだと思うことが
    できるようになった。
     ありがとう、マヤ。
     さようならは言いません、わかっていますよね、あなたとわたしはいつでもつながって
    いるのですから、"あの場所"を通じて。
     マヤ、どうか幸せに。幸せに過ごしてください」――
    「アドルフォ、アドルフォ……」
    何度もしゃくりあげ、少女は少年の名を呼んでは涙を流した。
    「どうしてそんなこと、私、そんなことのためにあなたにカードを渡したんじゃない……」
    「わたくしも、もっと早くにお二方にお頼みすべきでした」
    がっくり肩を落として家令がゼネスに対した。涙がひとすじ、そのほほを伝い流れ落ちる。
    「お屋敷にお留まりいただくより、むしろ若君さまをお二人に託せば良うございました。
    わたくしの決心が遅かったがために……」
    紳士も片手で目を覆った、その手が小刻みに揺れる。
    ゼネスは彼に同情を禁じえなかった。
    「家令どのよ、自分を責めるな。人は誰も……そう簡単には己の状況を変えることなど
    できないものだ。まして、公子という重い身分であればなおさらのこと。
     あなた方が公子を貴族の生活に戻すべく尽力したのは、しごく当然のことだろう。
    それに……」
    言って、弟子の肩先に手を添えた。
    「行くぞ、マヤ。泣くヒマがあるならやれるだけのことはやってみるべきじゃないのか」
    少女は師の顔を見上げた。
    「行く……あの子のところへ?」
    まだ涙声ながら、師の意志を確かめるべく問い返す。ゼネスはうなずいてみせた。
    「そうだ、塔に出向いて公子に呼びかける」
    「術師どの」
    紳士もまた涙をぬぐった。必死の、藁にもすがる"救出"への願いも露わに師弟を見る。
    だが、
    「家令どの、悪いがあまり期待はしないでおいて欲しい」
    率直に告げるしかなかった。
    「実は、魔術師のギョーム老に会ってきた。公子の能力について知りたいと思ってな。
    老師の見解も聞いた、優れた洞察だ、恐らく核心を突いているだろう。
     しかしそれだけに、公子が本気で塔に立て篭もったならば俺たちには手の出しようが
    ない。これはダメでもともと、あえてぶつかってみようという試みだと承知しておいてくれ」
    ゼネスの言葉を聞き、紳士は再度沈痛さを浮かべた。が、じきに顔をあげ、そして腰を
   深々と折って丁重な礼をした。
    「わかりました。願わくはアドルフォさまにお二方のお気持ちの届かんことを」
    「すぐに発つ、マヤ、カードの用意をしろ。それから家令どの」
    呼ばれて姿勢を戻した紳士に、
    「世話になったな、礼を言う。この家の主にも、家令どのより我らの感謝の意を伝えて
    おいてくれないか。
     とはいうものの、これから庭先でクリーチャーを呼び出すので、ひと騒がせするかも
    知れないが」
    そう言って彼もまた頭を下げ、丁寧に礼を返した。


    家令に教えられた方角(それは確かに、老魔術師の烏が飛来した北東の方角であった)に
   向かっていくばくか。黒天馬と飛竜とが公爵家の居城上空に到着した時には、すでに夜の
   闇が空から地上までをすっぽりと黒い裳裾の下に覆い隠していた。
    二人の目の下に、石造りの大きな城がある。灰色の建物は鬱蒼と繁る木々に囲まれて、
   暗い海に沈む遺跡のようにも眺められる。森の周囲はかの王都にも匹敵する規模の城下街
   がにぎにぎしく取り巻くが、ぶ厚い枝と葉の茂みにはばまれて、宵の口の街のさんざめきは
   城にまでは届きそうにない。
    目指す塔は、その城の敷地の北隅に立っていた。そっと降下して近づいてみれば、なる
   ほど、服喪の場所というだけあってその表面はほどんど飾りなく寂しげな印象だ。ただし
   城中のどこよりも高く、天を指す円柱が大ぶりに切り出された石で整然と組み上げられて
   いる。――それはどことなく、不器用な巨人の立ち姿にも似て見えた。
    「見張りがいるな」
    灯火を手に塔の付近を歩き回る二人連れの姿を、ゼネスの左眼は疾(と)く見出していた。
   だがこれは予測された事態ではあり、対処の準備は怠りない。「スリープ(眠り)」の呪文
   カードを取り出してかざす。
    「眠れ」
    念じると、淡い黄色みを帯びた光がカードから飛び出し、見張りに向かった。遥か上方
   からとはいえ竜眼がつけた狙いだ、いずれあやまたず呪文の効果は目標に到達し、見張り
   たちはたちまちその場に倒れて眠り込んでしまった。
    「よし、行くぞ」
    天馬が、次いで飛竜が翼をすぼめて降下し地上に着陸した。飛竜からマヤが飛び降り、
    「アドルフォ!」
    叫んで塔に走り寄る。
    「扉はどこ?――あっ!」
    円柱の壁伝いに回ったと思うといきなり立ちすくんだ。後を追った師もその場所に着き、
    「これは……」
    絶句する。
    塔の扉は硬い材の木に鉄製の枠をはめた重厚なものだった。そして扉の隙間という隙間
   は全て、漆喰でもって念入りに目張りを施されている。これでは、ネズミの仔一匹とても
   塔の内には入り込めそうにない。
    「何てことを、本当にあの子は閉じ込められちゃったんだ。
     待ってて、こんなの今すぐ壊してあなたのとこへ行くから……」
    マヤがカードをかざして"力"を呼び出そうとした、その時、
    バチン!
    「あっ……!」
    突然、彼女の体が突き飛ばされたように大きく跳び、地上に投げ出された。
    「マヤ!」
    師が駆け寄る、幸い弟子はケガもなくすぐさま自力で上体を起こしにかかった。
    「なに、今の……?見えない何かがぶつかってきたみたいな……え?どうして?」
    跳ね起き、ふたたび扉に向かった。だがあと三歩という所でまたしても、何かに当たった
   ように転び、尻餅をついてしまった。
    「何これ、"壁"ができてる、向こうに行けない!」
    悲痛な声をあげ、立ち上がった。そして両の手のひらで目の前の中空を盛んに叩き、押す。
   まるで透明な"壁"に対してそうするかのように。
    「"壁"だと……?」
    ゼネスも少女に並んで立ち、慎重に手を差し出した。――確かに、彼女が言う通り手の
   ひらに何かが触れる。硬いとも柔らかいとも表現し難い感触、竜眼でさえ見ることのでき
   ない何ものか。けれど"力"の気配だけは濃厚に感じられる。
    「呪文の効果だ、これは」
    気づき、驚嘆のつぶやきをもらした。見えない"壁"、それは間違いなく何らかの呪文に
   よって引き起こされた現象だ。それもどうやら、物理的な干渉の一切を防ぐ効果を現わす
   ものらしい。
    だが、
    「どういう仕組みだ、これは。呪文攻撃を防ぐ"障壁"ならばともかく、物理的な干渉を防ぐ
    効果の呪文があるなどとは聞いたことがないぞ」
    ゼネスの長い経験に照らしてみても、物理的干渉から術者を隔てる呪文やカードの効果
   というものはおよそ記憶に無い。けれど頭を巡らせるうち、ふと思い当たったことがある。
    「応用だ、"障壁"の呪文の。そうか、これが公子が持つ能力の真の発現なのか」
    アドルフォは呪文に拠らず特有のイメージを使って"力"を制する。そのため、本来ならば
   対応する呪文言語を発見せねば使えないはずの効果であっても、イメージを少しずつ変化
   させることで対応させ、引き出すことができるのだ。
    マヤが所持するカード群の中には、攻撃呪文のみならず、「障壁(バリアー)」「ランド
   プロテクト(領地守護)」等の防御系呪文や地形変化呪文など、基本的な呪文のカードが
   ひと通りは揃っている。彼女が公子にそれらの全てを触れさせているのだとすれば――。
    『あの公子は自分が持つイメージのバリエーションを作ることで、ほとんど想うままに
    "力"を使うことができるのではないか……』
    考えるだに背筋が寒くなった。けれどこのまま引き下がるわけにはゆかない。
    「マヤ、持っているだけの解呪系カードを出せ、ディスペルでもリムーブカースでも。
    俺も出す、ありったけの力でこいつを消してやる」
    「はい!」
    二人は揃って数枚のカードを掲げ持った。そこから一斉に光が放射され、空間にいくつ
   もの暗い渦が生じる。それらは人や土地についた呪文効果を吸い込む穴だ。
    「去れ!!」
    声を合わせ、念じた。――のに、何も起きない。
    「くそ、もう一度だ。……去れ!」
    意識を強く集中させ、額に汗して師も弟子も何度となく念じた。だが、やはり起こるべき
   反応は無い。"壁"はビクともせずに存在し続ける。
    「ダメだ、ここにあるカードでは対処できない」
    ゼネスはうめいた。セプターでは、そしてリュエードにあるカードではこの魔術の壁を破る
   ことができない、そう認めるしかない。
    「そんな……」
    師のあきらめを見て、少女の手も力なく下げられた。
    『"力"の孔(あな)、魔術の王――』
    たった十二歳の少年が持つなんと恐るべき能力、ようやくその全貌を目の当たりにして、
   くらくらと目まいさえしかける。
    「私、上に行ってみる。上の窓のほうならこっちの扉みたいにふさがれてないかもしれない。
    声ぐらいは届くかも」
    弟子の声にハッと我に返った。マヤは身をひるがえし、地上に降ろした飛竜に向かって
   いる。そうして先に飛び上がった後を追い、ゼネスも天馬で夜空に昇った。
    高い高い塔の周囲をらせん状にぐるぐると巡りつつ、ところどころに開く明り取りの窓を
   点検する。が、いずれもごく小さい上に内側から板で隙間なくふさがれてしまっていた。
   何より、下と変わらず見えない"壁"が上方でも塔の周りを取り巻いている。二人とも建物
   の表面を眺めるばかりで、塔には指を触れることさえできない。
    「アドルフォ、アドルフォ、返事して!」
    それでもなおマヤは、飛竜の背から身を乗り出して懸命に呼びかけた。しかし反応は見え
   ない、ついに塔の先端部分にまで来た。
    「窓が……ああ、ここも……」
    最上階にだけは大きな両開き窓がついていた。だがそこは閉め切られ、しかもすぐ外側
   に鉄製の太い格子がガッチリとはめ込まれていた。転落防止用なのだろうが、普通の人間
   ならばまず脱出は不可能だ。
    ――そう、「普通の」であればだが。
    「アドルフォ、ねえアドルフォお願い、顔見せて。このままお別れなんていや、悲しすぎる、
    あんまりじゃないの。あなたのこと好きなのに、一緒に行こうよ、何でこんなとこに閉じ
    こもらなくちゃならないの、アドルフォ……」
    飛竜に乗っていることなど忘れたかのように、少女は"壁"にすがりついて訴えた。手の
   ひらで見えない隔てをなでさすり、打ち叩き、思いのたけを触れ得ぬ窓の向こうに届かせ
   ようとする。
    「せめて……せめてもう一度でいいからあなたの顔を見せて、アドルフォ!」
    何度も呼び続けたあげく、彼女の声はかすれてしまっていた。そしてほほには新たな涙が
   流れ、伝わっては落ちる。
    それでも、闇の中で塔の全ては沈黙していた。閉ざされた場所が動き出す気配は、毛筋
   ほども感じられない。
    ゼネスは見た、ふるえるマヤの背中を。少年の名を呼び、会いたいと叫び、叶わぬ痛み
   にひくひくと痙攣する魂を。これほど嘆く彼女の姿は目にしたことがなかった、彼の中で
   何かが生まれ、生まれて激しく暴れ、胸を破り出ようとして――突如、荒々しい感情が炸裂し
   噴出した。
    「ばかやろう!」
    怒鳴り、天馬を急進させた。「バシンッ」音高く"壁"にぶち当たる。
    「ゼネス……」
    弟子が目を上げて師を見た。だがかまわず再度ぶち当たる。
    「ばかやろう!何で抗(あらが)わない、どうしてそんなに運命に従順なんだ。
     親も家臣も領民も知ったことではないと、理不尽に耐えるなんてまっぴらだと、何故
    言わない、言えないんだ、貴様は。
     何がしたい、何が望みだ、それほどの力があるならこんな所に閉じ篭らなくとも、何
    だって貴様の思い通りになるはずじゃないのか。
     ふざけるな!俺との勝負の決着だってまだついちゃいないんだ、出て来い、出て来て
    戦え、聞こえないとは云わせんぞ、公子、アドルフォ!」
    ほとんど吠え猛るように叫び、天馬を急進させては突撃をしかけた、二度、三度、四度。
   黒い羽根が散り、身体中にビリビリ痛みが走る。しかしさらに馬を駆って突進する。
    腹が立つ、気に食わない、理解できない。怒りともやるせなさともつかない情動がねじ
   くれ、荒れ狂う。なぜ、弟子の少女はこんなにも強く少年を求めるのか。なぜ、かの少年は
   巨大な力を己れのために使わないのか。そして……彼自身はこの窓に開いて欲しいのか、
   それともついに開かずにおいて欲しいのか。
    わからない、つかめない、何ひとつ確かめることができない。
    「ゼネス、止めて。そんなことしてたらゼネスの身体がどうかなっちゃう、ぶつかるの
    もう止めて!」
    半泣きになってマヤが叫んだ、飛竜が天馬の前に飛び出してくる。
    「どけ、この……」
    大バカ者めが!そう叱りつけようとした、瞬間、
    ヴ……ンン……
    闇が振動した。ゼネスの背がゾッと粟立ち髪が一斉に逆立った。
    開く、孔があく、巨きな冥い孔が口を開ける。"力"だ、"力"の実相が現われ出てしまう、
   今ここで、この塔を中心として……。
    凍った。彼の深部で恐怖の根がふるえ、硬くこわばった。
    呼吸が乱れる、息苦しい、心臓も肺も縮みあがりかけて胸をつかんだ。引き絞られる、
   自分自身の恐怖に鷲づかみされ、ひねりつぶされてしまう。
    「……くそっ、来るなら来い……!」
    あえぎ、もがいた。黒い天馬も荒い息を吐き、ひきつったいななきをあげる。しかし、
    「マヤ……?」
    弟子を見て、思わず目を見張った。
    少女の腕は大きく開き、差し伸ばされていた。"壁"の向こう側の窓に向けて、あくまで
   やさしく豊かに、しなやかに。我が児を迎え取る母の如くに。
    ――お前は、誰だ――
    その時、
    爽と一陣の風のような何かが吹き渡った。塔から周囲へ、地上へ、空へ、遥かな地平、
   空と地との合わせ目までへと瞬く間に波打ち広がる。
    「それ」はいったい何に似ていただろうか。すきとおった声、心にのみ響く歌、もしくは
   祈りのつぶやき。眼には見えない、耳にも聞こえない、それでいて感じる、存在し鳴って
   いるとわかる旋律の調べ。
    ゼネスの恐怖はいつのまにか形を失っていた。替わりに、ぽっかりと白い空(うつ)ろが
   ある。"風"を受けて旋律と共に鳴っている。
    マヤの腕がゆるゆると下ろされた。
    「ああ……アドルフォ」
    そのまま、胸の上でしっかりと組み合わされる、我と我が身を抱くようにして。
    沈黙がたたえられた。
    しかして、後、
    「行こう、ゼネス」
    振り返り、弟子は師に呼びかけた。
    「私、わかった。これがあの子の気持ち、アドルフォの答え。ここに居たい、捨てられない
    んだって、たとえ報われなくてもかまわないからって、そう。
     だから……もういいの、行こうよゼネス」
    飛竜が上昇を開始した。金色の翼を広げたまま静かに、ひそやかに塔を離れてゆく。ふと
   眼下に動く影を感じ、ゼネスは地上に眼を向けた。
    「スリープ」で眠らせたはずの見張りが二人とも目を覚まし、起き上がろうとしている。
    『術が、解けた』
    彼の天馬も首を上げ、夜空の高みを目指した。師弟はふわふわと漂いながら城下を後にし、
   そのまま山を越えた。


    夜遅く、ゼネスは老魔術師の家の戸をほとほとと叩いた。ギョーム老はすぐに現われ、
   彼らから事の顛末を聞くといたく慨嘆した。しかし師弟の訪ないは歓迎してくれて、客用
   の寝室に通してくれた(さすがに、この部屋だけは辛うじて寝台の上に本が乗っていない)。
    二つ並んだ寝台の夜具の間にもぐり込むと、疲労がドッと押し寄せてきて、彼も少女も
   とろりとろりと泥のような眠気の中に沈潜していった。


    夢を、見た。
    気がつけば、ゼネスの頭は背高く繁る木々よりもさらに抜きん出ていた。肩にチクチク
   梢の葉先が触れる。
    こんもりとした森の中だった。けれど目の前には、開けた草地がある。
    のどやかに陽が当たり、そよそよと風の吹きよせる場所が。
    少女と、少年が座っていた。栗色の髪の男装をした少女と、金髪の美しい少年。草地の
   上に敷布して、パン切れとチーズの食事を楽しんでいる。
    互いに微笑を交わしながら。
    そして、彼らと向き合う形で男が一人、座っていた。こちらからは後ろ姿しか見えない、
   黒い髪、青いマントの男。
    三人が囲む食卓に、赤い色が見えた。つやつやした皮の小カブが数個、ちょうど真ん中に。
    少年が手を伸ばし、カブをつまんで齧った。とたんに顔をしかめる。
    少女が笑って皮袋の水筒を差し出した、少年は慌てて受け取り、ひと口飲んで彼も笑む。
    男の肩が揺れていた、頭を軽く振って少年に何ごとか言い、少年があらためて笑み返す。
    風が吹く、温もりを抱いて微風がそよぐ。光がある、うらうらとおだやかに人と草木と
   地を包む。
    彼は眺めていた。森から頭を突き出したまま、じっと立ち止まりいつまでも、いつまでも
   草地の三人を見守っていた。




    ――おやすみなさいませ、アドルフォさま――
    「おやすみ、フォレスト」
    ――おやすみなさいませ、アドルフォさま――
    「おやすみ、リッカルド」
    ――おやすみなさいませ、アドルフォさま――
    「おやすみ、リネッツァ」
    ――おやすみなさいませ、アドルフォさま――
    「おやすみ、カネーロ」
    ――おやすみなさいませ、アドルフォさま――
    「おやすみ、マルチェロ。いつもありがとう」

    ――おやすみ、アドルフォ――
    「おやすみ、マヤ。幸せに」

    わたしにほほ笑んでくれた人々、
    わたしを支えてくれたあなたがた、おやすみなさい。

    そして、

    「おやすみなさいませ、母上。お心安らかに」
    おやすみなさいませ、
    永遠に。


                                             ――  第8話「公子」 了 ――

前のページに戻る
「読み物の部屋」に戻る