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      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』


      第9話 「 風の中を飛ぶ 」 (1)


    風が吹いている。花が揺れ、梢の葉は騒ぎ、耳元で軽い渦の音を聞く。昨日はあいにく
   一日中の小雨模様であったが、今日は朝からすっきりと晴れ上がってくれた。地表では草
   の葉が斜めにそよぎ、空では雲が徐々に形を変えながら動いてゆく。"風"が吹いている、
   世界が流れる。
    立っている人のほほを、髪をゆるくなぶる見えない手つき。それはしかし高所へと上がる
   ほどに強く冷たく、激しさを増して荒(すさ)ぶ大気の息吹きとなる。"飛翔"の経験を持つ
   セプターであれば皆、そのことをよく知っている。
    黒い翼が円を描いていた、だだっ広く底の知れない透けた青の中で。大きく広げられ、
   時おりひらひら、ひらひらとはためく……二組の羽。二羽の烏(カラス)はそれぞれに、
   平らな円周の上をゆっくりと移動しているのだった。くるり、つーいくるり、つーい、空に
   二つの「輪」ができる。
    ふと、その輪が崩れた。四枚の翼の動きが一瞬乱れ、乱れたと思ったら黒い鳥影は次々
   と横流れにすっ飛んだ。突風に煽(あお)られたのか?否、「パッ」大きく翼を開き、飛ば
   された先で急停止した。さらに忙しく羽ばたきながら、二羽は共に連れ立つようにして初め
   に円を描いていた場所に戻ってゆく。そして「ヒューーーッ」またすっ飛ばされて「パッ」
   停まる。再び元に戻り……何度も同じことを繰り返す。
    「遊んでるし、あの子たち」
    ずっと見上げていたマヤがつぶやき、笑った。
    横風に吹き飛ばされる烏たちは、翼をすぼめ、うまい具合に体を細長くすることで風の
   急流に"乗って"いるのだ。まるでソリ遊びする子どもらが思い切り身体を倒して滑走して
   ゆくように。
    高空を支配する風の神(テレイア)のさらに上手を行って、烏たちの翼は荒々しい力を
   御すばかりか自らの遊戯までをも創り出してしまっている。
    「烏は遊び好きだからね、中でも"風乗り"は彼らのお気に入りの冗談だよ」
    ギョーム老人も少女と並んで空を見上げていた。明るい陽光に目を瞬かせながら。
    蒼く、青い空に黒い点が二つ。ヒューと流されては開き、鳥の形になる。そしてハタ、
   ハタと羽ばたき大回りして風の吹き口へと舞い戻り……再び点となって流される。高度な
   飛行技術を持つ者ならではの巧みな"遊び"を、二人はそうしてしばらく見守っていた。
    やがて、
    「カーアァ」
    空の一羽が相方に首を伸べ、呼びかけた。
    「アア!」
    呼ばれた方もすぐさま鳴いて応える。と、二羽は翼をたたみ、そのまま真っ直ぐに急降下
   してきた。落ちてくる、みるみる「点」が「染み」になり「影」になり――
    「バサササササッ……!」
    大きな羽音をたてて「影」が開いた。老魔術師の頭上にピタリ、四つの翼が広がり静止する。
    「お帰り、ロア、カーラ」
    少女があいさつして烏たちに腕を差し伸べた。
    「カォ」
    すすぃ、返事した一羽が舞い降りて彼女の肩に止まってくれた。老人とは違う細っそり
   と狭いそこを脚の爪でしっかと掴み、バランスを取りながら翼をたたみかける。
    「んふふ、くすぐったい。でも私のところに来てくれてありがとね、ロア」
    マヤは肩の上にある黒い頭を見上げ、微笑した。
    「"風乗り"、面白かった?とっても楽しそうだったね。私まだあんなに上手いこと風を
    使ってなんて飛べないよ、君たちってすごい」
    語りかけながら静かに手を出し、黒と銀鼠のちょうど境い目になる烏の後ろ首の羽毛の
   中に指を突っ込んで掻いてやった。気持ちが良いのか、鳥の薄いまぶたが閉じられて丸い
   目が細くなる。
    「いやいやいやマヤさん、あなたは物事をよく"見て"いる人だ。おとついここに着いた
    ばかりだというのに、もうロアとカーラの区別もつけておる。だから何でも"知る"だけ
    上達するはずだよ。
     何にでも興味を持ってよく見て、その仕組みをつかもうとする――それがいいセプター
    になるための条件さ」
    言って、魔術師は振り返った。
    「なあ、そうよなあ、お師匠どのよ」
    ゼネスの顔を見、意味ありげにほほ笑む。
    「…………」
    彼は黙っていた。老人の言葉を肯定も否定もしない。いや、否定はもとよりするつもり
   はない、老魔術師が正しいことはよくわかっている。
    けれど、
    『だからといって、ここでうなずいたら俺はウソつきだ』
    内心にその忸怩(じくじ:非常に恥ずかしい)たる思いがある。彼の首を縦に振ることを
   ためらわせる。
    『ずっと、ただ力押しに戦うことばかりを続けてきた者が……』
    そう、ゼネスはこれまでカードを使っての戦闘といえば、しゃにむに真向勝負をかける
   戦法にばかりこだわってきた。そして実際、力の強いクリーチャーを手足の如くに遣い、
   さらに「光の矢」「暗黒の炎」といった相手に直接ダメージを与える呪文を次々に撃ち放つ
   彼に、大概の相手セプター(それらは無論、覇者志望のセプターたちである)は文字通り
   "粉砕"されてきたものだ。
    カードをさばくセンス、瞬時に相手との間合いや呼吸を計って決断し実行する行動力。
   己が持てる全ての感覚を動員して研ぎ澄ませ、面白い戦いができればそれでいい、自分の
   役目はそれで務まっているのだ――そう、思ってきた。だから、戦いからいったん意識を
   離し、周囲を見回して物事の仕組みや関わりあいに神経を傾けてみるなどという、細かな
   積み重ねの経験とは縁遠いままに来てしまって久しい。
    ほほ笑む老人はきっと、ゼネスのそんな反省の気分をとうから承知であるのに違いない。
   とぼけきったシワ面が恨めしい。
    「あの、老先生、ロアたちはあの遊び場所、自分で見つけたんですか」
    不意にマヤが訊ねた。おかげで、魔術師はにこやかな顔を彼女の方に振り向けてくれた。
   どうにか居心地悪さを脱したゼネスは「ふぅ」、ひと息をつく。
    「うむ、それについてはだね、カーラが教えてくれたのだよ」
    老人は自分の肩の上にいる烏を見やった。ロアよりも少しだけ小柄な、雌の鳥を。
    「もう五年がほどは経つか、ロアは季節はずれの嵐の日に森の近くで拾った子なのだよ。
    その時にはまだ羽も生え揃ってはおらん雛鳥でね、どうやら風に飛ばされて巣から落ち
    てしまったらしい。
     しばらく近くを探したが、それらしい巣も親鳥も見当たらん。そこで私が"ロア"と
    名づけ、養い親になったというわけさ」
    「そうなんだ、お母さんからはぐれちゃったんだねロアは、可哀そうに……」
    マヤは気の毒そうに眉根を寄せ、首を掻く手を止めて鳥の頭をなでてやった。烏はあい
   変わらずまぶたを閉じて大人しくしている。
    「しかし私は人間だ、ロアに食べ物をやることはできても烏の作法まで教えてやること
    はできん。このままでは彼は"自分は人間だ"と思い込んでしまわないかと気になって
    ね、ずいぶん心配したものさ」
    「作法?飛ぶこととかですか?」
    首をひねる少女に、ギョーム老はいたずらっぽく笑んでみせる。
    「いい質問だね、しかし"飛ぶ"ことは作法ではない、鳥は生まれつき飛べるのだよ。
    羽根がすっかり生え揃って充分なだけの筋肉がつけば、ひとりでに飛んでしまう。人の
    赤子が誰に教えられずとも時期が来ればつかまり立ちし、やがては歩いたり走ったりする
    ようになるのと同じにね」
    「へえ〜、知らなかった!」
    質問者は大きく目を見張って感心した。
    「私が言う作法というのはだね、烏が烏として生きるために知っておくべき身の振り方、
    知識のことさ。仲間とのあいさつの仕方、尊重すべき者と避けねばならない敵の区別、
    さらには、ただ飛ぶだけでなく地域の風を知り尽くしてより巧みに飛ぶ技術――
     ここで見ることのできる生き物については、私はずっとそれなりに観察してきたからね。
    ロアを一人前の烏にするためにはどうしても、他の烏の助けが必要だと考えておった。
     さて、そんな折にやってきたのがカーラだ。こちらは当時すでに大人だった」
    「あれ?じゃあもしかしてカーラのほうがお姉さん……」
    「そうなんだよ」
    老人はまたしてもにんまり笑った。
    「カーラはね、村の悪童が投げつけた石が運悪く当たって翼を傷つけてしまってね。
    だが当の悪童め、地上に落ちてバタバタもがく鳥を見たら急に怖じ気づいたと見える、
    半べそかいて私のところに『何とかして』と持ち込んできおった」
    「それで、ロアの"先生"に」
    「ああ」
    マヤは老人の肩の上の烏と、自分の肩の上のそれとを代わる代わる見比べる。そして老
   魔術師は、そんなマヤの顔を目を細めて見ていた。
    「カーラは前年生まれの若い烏だったがかしこい娘でね、翼の治療をした私にすぐよく
    なついてくれたばかりか、ケガが治ってからはロアを養子にしてくれた。やっと飛べる
    ようになったばかりのロアに、つきっきりで烏として知っておくべき全てを教え込んで
    くれたのだよ。
     犬や猫に気をつけること、私以外の人間にはよく注意すること、近辺の風の通り道を
    憶えて少ない力で遠くまで飛ぶ方法……いやあ、そばで様子を見ていた私にも全く大いに
    勉強になったもんだ」
    「いいなぁ……」
    少女は老人の話にすっかりと惹きこまれているようだった。だがゼネスは?『興味深い』
   とは思いながらも、彼の中には『しかしこんな話がセプターとして何の役に立つ?』との
   疑いの念がうっすら浮いて出る。
    しかしそれでも、彼は努めてその疑念に囚われぬようにしながら、弟子とは離れた立ち
   位置で老魔術師の烏談義を耳に入れていた。
    「それでね、さっきあなたが見た"風遊び"もカーラがロアに教えてくれた作法のひとつと
    いうわけさね。
     にしても、風の吹き方なんぞは周辺の地形や季節ごとの大気の条件によってもさまざま
    のはずだ。この村の上空のどのポイントで、いつどんな風が吹くのか、もしもカーラが
    自分の親鳥から教えられたのだとすれば……」
    そう言って、魔術師はマヤに目配せした。少女がパッと顔を輝かせて答える。
    「わかりました、他所の土地でも、そこに棲みついてる烏たちは代々、自分たちの風の
    道や風遊びの場所を持ってるってことになりますね」
    「ご明察」
    老人もまた大いに喜ばしげな顔になった。
    「風を使う技は、鳥たちが一番良く知っておるし優れてもいる。常に身の回りの鳥たち
    を観察して、飛行術のお手本とするがよろしかろう」
    「はい!」
    返事するマヤの声の明るく快活なこと、この上ない。二人の姿を眺めながら、ゼネスは
   何とはなし"置いてけぼり"を食ったような落ち着かなさを感じてしまう。
    その時、「ドッ」と一陣の風が吹き抜けた。
    「カーアァ」
    ファサッと翼を広げ、ロアが少女の肩から舞い上がった。つられてカーラも続く、風に
   乗った二羽は見上げる間にもぐんぐん、すごいような速さで真っ直ぐ空に上って行く。
    「上昇気流に乗ったか、見事なものだ」
    ゼネスも思わずつぶやいた。温かい空気は軽い、このあたりは日光に熱せられた地表の
   大気が、時に強い流れを作って上空に昇る場所だったのだ。
    「まだまだ遊び足りんか、まあムリもない。彼らには、ここ最近は私の用事でずい分と
    忙しい思いをさせてしまったからなあ」
    手をかざして上空の影を追いながら、ギョーム老はふともらした。
    「それは、荘園屋敷とのやり取りのことだな」
    二歩、三歩と近づいてゼネスは確かめた。あの公子に関わりのある話ならば、少しでも
   詳しく聞いておきたい。
    「やや、しまった……うむ、術師どののお察しの通りだよ」
    老魔術師は少しばかり肩をすくめ、東の山並みを見た。公爵家の荘園のある方角である。
    「ロアもカーラも、この私と一緒に何度かあのお屋敷に通ううちにすっかり"道"を憶え
    てしまってね。それとあの子たちはマルチェロ君にもよくなついて、勝手にちょくちょく
    あちらにお邪魔しては美味いものをいただくのが習いになってしまった。
     そこで私はマルチェロ君と相談をして、ロアたちに手紙を運んでもらうようにした。
    彼らもその役目が気に入ったと見え、わたしが脚に手紙を付けてやると喜んで飛んで
    いったものだ」
    「かしこいんですねぇ、ホントに」
    マヤも山並みと烏たちとを見比べながら感想を述べた。
    「とまあ、そんなものだからお師匠どのとマヤさんとがお屋敷に来られることがわかって
    から、ロアもカーラも交代で毎日こことお屋敷の間を行ったり来たりだったのだよ。
     それで今日は久しぶりに遊びを満喫しておると、そういうコトだ」
    「それでは、何もかも"筒抜け"のはずだな」
    ゼネスは苦笑したが、
    「そうだったんだ、でも……」
    少女の声が急に沈んだ。
    「そのマルチェロさんのことですけど、アドルフォが塔に篭ってしまってあの人はこれ
    からどうなるんでしょう?
     さっきは、『明後日には本城に引き揚げます』ってお話されてましたけども」
    山の向こうを、気遣わしげな目で見はるかす。
    「やっぱり、あなたが今ひとつ浮かない顔をしとったのは彼の心配をしておったからか。
    烏たちの"遊び"を見せれば気晴らしになるかと思ったが、結局は私が自分で話を振って
    しまったなぁ」
    老魔術師は苦笑いした。――実は、今日の昼前までかの荘園屋敷の家令・マルチェロが
   この魔術師宅を訪れていたのだ。
    家令の来訪については、すでにその前日から屋敷の使者により、公子・アドルフォの
   服喪の塔への蟄居の事実と共に情報がもたらされていた。つまり、今回は公爵家の家人(けにん)
   としての正式な訪ないなのである。
    そして今朝、家令は草の葉の露で馬の蹄を濡らしながら、沈鬱な面持ちを下げてやって
   来たのだった。


    「本日は僭越ながら不祥わたくしめが先代さま、若君さまのご名代として感謝の辞を申し
    上げるために参上いたしました。
     ギョームさまには長らく、親身なご指導をいただきました。おかげさまで、公爵家の
    安泰は守られましてございます。一同、まことに感謝の念に耐えません、本当にありが
    とうございました」
    まずは型通りの礼の言葉を述べ、家令は深く腰を折って礼をささげた。
    「――で、お前さんはこれから?」
    問われ、初老の紳士は静かに頭を上げる。
    「はい、今日を限りに荘園屋敷の家令の任は解かれ、本城にて新たな任に就くことが決ま
    っております」
    やや寂しげな表情の相手に、老魔術師は手を伸ばしてその肩を軽く叩いてみせる。
    「マルチェロ君よ、生真面目なお前さんの肚の内はこの私がよくわかっておるつもりだ。
    言いたいことを呑み込んだままでは辛い、これからもたまさかにはここに顔を出して、
    グチなんぞ言うとくれ、いくらも聞くよ。若君さまのことも、少しでも変わった様子が
    見えたらすぐに早馬を飛ばしておくれ。
     私は、いつまでもお前さんの友人のつもりなのだからね。それに私らのお仲間なら他
    にもおる」
    そう言って振り返り、隣室で聞き耳をたてていた師弟二人を呼んだものだ。
    「ほれ、術師どのとマヤさん、こっちにお出でなされよ」
    いきなり引っ張り出されたゼネスは、家令の手前最初は『どのツラ下げて』とさすがに
   バツが悪かった。それでも、公子が示した「意志の力」については、その発動のさまを目の
   当たりにした彼とマヤとの他に伝え得る者はいない。そう肚をくくると、あえて真正面から
   紳士の前に進み出た。
    そうして、自分と弟子が見聞きした全て――公子に対面しようとしたが物理的・魔術的な
   干渉をまったく受け付けない「壁」が出現して彼らの塔への接近をはばんだこと、どれほど
   呼びかけても応答は得られなかったこと、また、その代わりのように大規模な呪文の効果
   が塔から発されて領国の空を覆いつくしたこと――を簡潔に伝えた。
    「公子は今、特殊な呪文の効果を非常に大きな規模で展開し続けている。思うにあれは、
    呪文・「領地守護(ランドプロテクト)」のバリエーションなのだろう。
     俺が見張りにかけた「睡眠(スリープ)」が一瞬で打ち消された。それを見るに、何らかの
    良からぬ意図による呪文効果は今後一切、公子の力の及ぶ範囲では通用しないのでは
    なかろうかと考えている」
    「それに――」
    ゼネスの所感に続き、ギョーム老も述べる。
    「恐らくは若君さまのその呪文、影響下の地域の環境を安定させる効果をも併せ持つの
    ではないかな。マヤさんへのお手紙には、民草が日照りや疫病に苦しまないように、との
    お言葉もしたためられてあったということだから。
     若君さまからは以前、"天候が不順となったり人が病に罹るのは何故か"とのご下問を
    いただいたことがある。その際にいろいろとお答えしたのだが、何より大切なのは周囲
    の環境の安定であることを特に強調してお話し申し上げた。
     火・水・地・風の四つの精霊力の調和を常に保ち、運行させることができれば環境は
    安定する。アドルフォさまのお力は今、もしやそこまで実現されておられるのでは、と
    私は考えておるところだ」
    「あの、私は――」
    ずっとゼネスの後ろにいたマヤが、その時初めて自分から家令の前に出た。
    「私には、先生や老先生みたいに詳しいことはわかりません。でも……」
    彼女は目線を落とし、非常な慎重さをもって話をしようとしていた。まるで自分の胸の
   内側をのぞき込み、確かめるかのように。
    「でも、"歌が聞こえる"って思いました。アドルフォが使った力を感じた時に。
     詞(ことば)のない、でもきれいな、清らかな祈りの歌が聞こえてくる。"ここに居たい、
    守りたい"――あの子が願う気持ちが結ぼれて、歌になって塔から空いっぱいに響いて
    いるんだって。
     何もできなくてごめんなさい、でもマルチェロさん、私せめてあの子の、アドルフォの
    その決心を認めてあげたくなったんです。それが正しいのか間違ってるのかは……まだ
    わからない、でも、それでも認めてあげなくちゃって」
    「ありがとうございます、皆さま、マヤどの」
    ひと通り聞き終えると、紳士は礼を述べて微笑した。悲しみの底で、諦念から生まれた
   ような笑みを口もとに刻んだ。
    「そうですか、アドルフォさまはそのようにして領国をお守りになられておられるので
    すか。けれど魔力というもののないわたくしには、どうにもお察しする術のないことが
    悲しゅうございます。
     ですが、こうしてお分かりになる方々からお話をお聞かせいただきますと、若君さま
    のお選びになられた道がいかなるものであるのか、この菲才(ひさい:才能の無い)の身
    にも腑に落ちますようでありがたく。
     アドルフォさまは決して、お国の犠牲になられたわけではないのですね、やや安堵いた
    しました。幸いにも、わたくしはこれから本城での務めとあいなります。若君さまのお傍
    にあって、一人密かに守り役を続けさせていただく所存にございます。
     ギョームさま、お言葉に甘えましてこれからも、若君さまの件はご相談を続けさせて
    いただきとうございます」
    彼はそう言ってまた頭を下げた。老人がにっこりと笑み返す。
    「それから術師どの、マヤどのにも」
    紳士はゆっくりと体を回し、ゼネスとマヤを見た。
    「アドルフォさまのご決断の中心にあるお気持ち、このマルチェロめもしかと受け取ら
    せていただきました。おかげさまで、引き続き迷いや憂いなくお仕えすることができます。
     マヤどの、あなたが仰ってくださったように、ご選択の道をお認めになってくださる
    ことこそが、必ずやアドルフォさまのお幸せにつながりましょう。重ねて御礼申し上げ
    ます、本当にありがとうございました」
    感慨を込めた言葉と共に両手を差し出し、初老の男は少女の手をしっかりと握りしめた。


    ――こうして、公子の"守り人"は来訪時の沈鬱を払拭し、平穏の表情を取り戻した後
   荘園屋敷での最後の仕事を果たすために去っていったのだった。

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