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      第9話 「 風の中を飛ぶ 」 (2)


    風が吹いた、少し強く吹きぬけた。少女の波打つ髪が乱れ、騒ぎ、ひそめられた眉の上
   に翳りを落とす。
    「マルチェロさんがアドルフォの気持ちをわかってくださって、それでとても安心され
    たのは良かったなって思ってるんです、私。
     本当はもっと早くにお伝えしたかったんですけど、先生(ゼネス)が『今さらノコノコ
    あそこ(荘園屋敷)に戻れるか』なんて言われて聞かないから……それじゃ私が感じた
    ことはもう、ずっとお話しできないんじゃないかと心残りでした」
    ちらと一瞬だけ振り向き、嫌味たらしく師を一瞥した後、マヤは老人に問うた。
    「それで、あの、マルチェロさんはお城に戻って何のお務めをされるのでしょう?私には
    ご本人も老先生も、わざとそこに触れないでいたような気がしてしかたなくて。だから
    余計に気にかかるんですけど。
     もしおわかりでしたら教えていただけませんでしょうか、老先生」
    「あなたはカンのいい娘さんだな」
    老人は手を上げ、アゴの白く長いヒゲをひねり始めた。
    「彼はこれから、お家の裏の仕事に回されるのだろうよ」
    山向こうに視線を浮かせ、あまり抑揚のない声で言う。
    「裏の仕事――それ、どんなことなんですか?」
    少女の眉間に、声に、険しさが宿る。
    「なんか、あまりいいことじゃないみたいですね」
    老人は珍しく、質問者の顔を見ようとしなかった。だが答えた。
    「表ざたにはできんことだよ、貴族の家には多かれ少なかれつきものの、言わば汚れ役
    だ。まあ……アドルフォさまのご養育そのものが、公爵家にしてみればすでに裏の仕事
    扱いだったのだろうが。
     すまん、私の口から言えるのはここまでだ。わたしも結局は貴顕の方々の禄を食む身
    だからね、限界というものがある。
     あなた方のような非公式のセプターさん達とも、こうして世間話をするぐらいならば
    "情報収集だ"と言い張っておけば済むのだが、さすがに機密を漏らすことはできん。
    悪いが勘弁しておくれ」
    禿頭を大きく左右に振り、魔術師は詫びた。じっと見つめてくるとび色の瞳を避けて。
    「マルチェロ君は本来、主家の秘事は己れの胸ひとつに収めて墓の下まで持ってゆける
    男だ。あなた方にその大事の秘事を打ち明けたのは、アドルフォさまがマヤさん、あなた
    を望んだからこそなのだよ。
     使用人の進退は主すじの意向次第、しかも彼のように切れ者だが律儀で家柄のあまり
    高くない身分だと、黙っている限り難しいお役目ばかり押し付けられてしまう。
     だが……それでもマルチェロ君はやっぱり、文句ひとつ言わずにこれからも真面目一路
    で務めるのだろうなぁ」
    老魔術師はため息をついた。だが、凛とした声がその嗟嘆をさえぎった。
    「文句ひとつ言わずに――これからもずっとあの子を、アドルフォを見守るためにですか」
    とび色の目の主だ、老人は観念したようにマヤの顔を正面から見た。
    「そうだ、その通りだよ。ただしマルチェロ君が若君さまに寄せる思いは、"忠誠"では
    なく"情愛"だろう。彼を筆頭に数少ないお付きの者たちだけが、かのお方を我が子の
    ごとくに慈しんでお育てしてきたのだからね。
     しかしそのアドルフォさまご本人が、塔に篭られて領国をお守りされると決められた。
    彼にはそれを止めることはできない、もう、お見守りするしかないのだよ」
    「"そこ"なんです」
    はっきりした声が、またも魔術師の言葉を打ち返した。少女の両の手は、固く握りしめ
   られてあった。
    「あの日塔からあの子の、アドルフォの願いの力が広がったのを感じた時には私も、この
    気持ちを認めてあげたい――って、確かに一度はそう思いました。
     でも……でもこうしてマルチェロさんのこれからのことなんかを聞いてしまうと、本当
    に良かったんだろうか、あの子もマルチェロさんも塔とかお城の中とかに埋め込まれて
    しまって、自分から進んで不自由に耐えてしまってるだけなんじゃないか、やっぱりお国
    の犠牲になってしまってるんじゃないかしら?そう思えて、でも私にはどうすることも
    できなくて、何もかももどかしくて痛いようでたまらなくなるんです。
     老先生、どうしてこんなにがんじがらめなんでしょう、皆んな。生まれとか育ちとか
    能力とかしがらみとか記憶とか、持ってるもの全部捨てないと自由になんてなれないん
    でしょうか。それを捨てられない人は、不自由でも自分の今いる場所を守って生きるしか
    ないんでしょうか」
    問う声は次第に大きく、震える。マヤの肩も、握られたこぶしも震えている。ゼネスは
   二人から少しだけ離れた位置に立ったまま、黙って弟子の横顔を見守っていた。
    ――自由――
    この言葉の持つ意味について、彼はこれまであまり真剣に考えたことはなかったし、マヤ
   と話し合ったこともない。
    ギョーム老が何と言って答えるのか、息をひそめてたたずんだ。
    「自由か、なるほど」
    老人の口元が「やわり」崩れて笑みの形を作った。
    「その、そちらにおいでのあなたのお師匠どのは、"自由"について何と言っておられる
    のかな?」
    ゆるり、人懐かしい顔つきをこちらに振り向ける。ただ聞いているだけのつもりだった
   ゼネスは、自分への思わぬ"飛び火"に内心慌てた。
    だが、
    「この人は」
    弟子の少女がすかさず答えた。硬い声、師を指して"この人"、『マズい』――全身の感覚が
   ギュウと音立てて縮み、浮き足立つ。
    『これはロクなことを云われんぞ……』
    そして予想通り、彼は弟子による赤裸々な評価を耳にする羽目となった。
    「私の先生は、ご自分が勝手気ままに流れ歩いて、強いセプターと戦うことさえお出来に
    なれればそれでいい方ですから。
     人の自由がどんなものかなんて、お考えにはならない方ですから。だから私も、そう
    いう質問はしません、しようとも思いません」
    マヤは眼の端の方だけで凍りついているゼネスを見据え、嫌味をたっぷりまぶしたセリフ
   を次々と並べ立てた。案の定、痛烈極まりない。
    「ははははは……こりゃ手厳しいわいな。術師どの、形無しだね、日頃のご苦労が偲ばれる」
    遠慮会釈なく大口開けて笑いながら、魔術師は悪びれる風もなくゼネスに目配せをして
   寄こした。しかし、当の彼ときたら顔面も頭の中も真っ赤になるほど羞恥心が沸騰してし
   まって返事するどころではない。
    弟子の目の厳しさもさることながら、ゼネスは過去の自分の"怠惰"を心底情けなく思った。
    「――まあ、それはともかくとしてだ」
    ひとしきり笑った後、ギョーム老人はまたいつもの穏やかで飄々とした顔つきに戻った。
    「さて、マヤさんや、あなたの考える"自由"とは何だね、それは"状態"のことかね」
    老人の問いに、少女は黙って考え込む。
    「…………」
    困っているような顔を眺め、魔術師は次なる言葉を続けた。
     「しかし、我々生きている者はおしなべて、肉体という決まった形ある器を必要とする。
    また、他の者らに己れの感じた気分を伝えるためには、言葉なり身振りなり一定の様式
    に則(のっと)らねばならん。
     もし全くの自由な状態というものを考えるならば、それは煙のように決まった形も無く
    誰にも捕らえられない替わりに、互いに触れあい理解しあうきっかけを持つこともでき
    ない状態なのではなかろうかね。
     少し乱暴な言い方になるが、生きてゆくことはそのように、何がしかの制限を受ける
    ことで逆に己れの姿を見出してゆく、発見してゆくことでもあるのだと私は思うのだが」
    「仰ることはわかりますけど……」
    思案顔の少女はとまどいの声をあげた。
    「でも、自分の姿を自分で決められることが"自由"なんじゃないんですか。それとも、
    たった独りで生きる覚悟がない限りは、……その、いろんな様式に制限されて不自由なまま
    生きるしかないんだ、とでも」
    とがりがちの唇から、不満をはらんだ言葉がもれ出る。だが老人は彼女を見つめ、破顔した。
    「いい所を突いとるね。しかしマヤさん、実はその"自分で決める"ことも、制限のうちの
    ひとつなのではないのかな?」
    「あ……」
    ハッとして、マヤは口元に手を当てた。
    「だから、"自由"を状態のことだと考えるとどこかで壁にぶつかってしまうだろう。
    そこで私は、少し別の見方をしてみようと思う。
     で、マヤさん、今からあなたにひとつ、お話をしてあげよう。ちょうどお茶の時間でも
    あるようだしね」
    老魔術師は少女に誘いをかけた。マヤが「何のお話を」とばかり首を傾げるとさらに、
    「大賢者と呼ばれた名セプター、ミリアどののお話だよ。わたしの師匠があのお方とは
    昔なじみでね、ミリアどのとはわたしがまだ子どもだった頃、直にお会いしたことがある。
    そちらのお師匠どのにはすでにお伝えした件なのだが、どうだね、あなたも聞いてみるかね」
    そう持ちかけた。
    「ミリアさま!あの大賢者ミリア=ソレルとお会いになったことがあったんですか、
    老先生は。
     お話、おうかがいしたいです。いえ、ぜひお聞かせください、お願いします!」
    とび色の瞳を輝かせ、マヤは大乗り気に身を乗り出した。
    「うんうん、じゃあひとまず家に入ろうかね。なに、烏たちはもうしばらくはどこかで
    遊ぶだろうから気にせんでも大丈夫だよ。
     術師どのもさあさあ、いつまでも突っ立ったままだと脚が棒になるぞ、入った入った」
    にこやかに手招きすると、老人はさっそく少女を連れて玄関扉の奥に消えてしまった。
   二人を追って、ゼネスもようやくその場から動き出した。


    魔術師の家の居間は、今日はやや片付いていた。先日の夜に訪れた際には部屋中どこも
   かしこも本だらけだったのが、今は少なくとも床の七割方は露出している。中ほどに置か
   れた机と四脚ある椅子の上も、空っぽだった。三人で茶を飲む余裕は充分にある。
    実は、昨日の一日をかけてギョーム老とマヤの二人が居間の本を整理したのだった。床
   の上に積まれた本を仕分けして、周囲の本棚のあるべき場所に納めたり他の部屋に持って
   いったり……の作業にいそしんだのである。
    しかし、とはいうものの、片付けしながらもマヤが興味を惹かれた本を立ち読みしたり、
   あるいは中の記述について老魔術師に問い質したりなどするものだから、一日かけてよう
   やく、床の半分以上と机と椅子とが空いただけなのだが。
    (ちなみにゼネスはと言えば……およそ"片付け"だの"整理整頓"といった仕事が身に
   ついていない男だけに、何をどうしたらいいものやらと手を出しかねて、こちらも一日中
   ただその辺をウロウロしていただけである)
    「お茶が入りました」
    椅子にかけてしばらく待っていると、木の盆をささげ持ったマヤが居間に入って来た。
   盆の上に三つ並んだカップから盛んに湯気が立ち昇り、芳香が広がる。
    「お菓子もあるよ」
    続いて入って来た老魔術師は、机の真ん中に浅い鉢をひとつ置いた。中には、淡い色の
   小さな砂糖菓子(ボンボン)が二つかみほど盛られている。これはどうやら、王家からの
   拝領品のようだ。
    ふと、風が通り抜けた。
    昨日降り込められた湿気を逃すべく、魔術師の家はどの部屋の窓も玄関扉さえもが、今
   はすっかり開け放たれていた。片田舎のはずれ屋の気楽さ、通りかかる者も覗き込む者も
   なく、風だけがするすると家の中を吹き過ぎてゆく。壁際の本棚にぎっしり並んだ本の背
   表紙に、うっすらと光が射す。
    すぅぅっ……と、マヤが大きく息を吸った。
    「さてと、それではミリアどののお話をしようか」
    茶の湯気の向こうで、白いヒゲに埋もれた唇が語りはじめた。

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