「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る 続きを読む


      第9話 「 風の中を飛ぶ 」 (3)


    ――ミリアどの、正式なご本名はミリア=ジェンマ=ヴィエスタ、これがお生まれになった
   時につけられたお名前だ。エテルナ王国の七代と八代の王様に、主にセプターとして仕えられた。
    ご実家であるヴィエスタ家は、代々王国の公認セプターを輩出してきたと聞いておる。
   だがな、ミリアどのが頭角を現わすまではセプターの任務といえば、国に仇をなす非公認
   セプターの撃退か戦の前線での要、あるいは隠密や偵察、刺客要員といった重要ではある
   が政治的には裏方の、冷や飯を食わされがちな立場であった。
    まあこの辺りの事情は今でも、一般的な能力のセプターならば変わっちゃおらんのだがね。
    ミリアどのはご幼少の頃から、非常な遠隔地からでもカードを起動し使いこなす、また
   呪文の効果も精密かつ自在に操るなど、鋭いセプター能力を示されておった。さらにそれ
   だけではない、大そう見目麗しい女子でもあったものだから……わかるな?一族が権門の
   家に取り入るための大事な「駒」として、まさに期待の星であったそうな。
    あの方の逸話は数々あるが、王国で特に数えられたものを挙げれば三つ。
    王都を流れるカナール河の決壊を未然に防いだ件、国の西端の海岸線を変えて半島を出現
   させた件、そして敵対国であるスラヴォイとの戦いで、三万の軍勢を打ち破るきっかけを
   作られた件――ん、マヤさん何だね?
    「あの、私が聞いたことがあるのは"山を動かしたり河の流れを変えたり、海を陸地に
    するのも簡単に出来た人だった"っていうお話です」
    「ははは、そうしたことは本当に簡単にやってのけられたろうね、あのお方なら。海を
    陸地に……というのは多分、半島を作られた件だろう」
    ――カナール河の件の時は、長雨のあげくの豪雨で満々と水をたたえ、崩れる寸前だった
   河岸を「アイスストーム(冷気嵐)」の呪文カードを使い、一瞬で凍りつかせた。河の水は
   一滴も凍らせずにゆるんだ土手の地盤だけを固めた、見事な技だったそうだ。しかもその
   時のミリアどのはわずか十五歳のお若さであったというからね、まったく驚くばかりだよ。
    半島を造られたのは、波の静かな港が欲しいという王様と元老院の求めに応じたものだ。
    これは「アップヒーバル(火山隆起)」を使い、あらかじめ地質学者たちが計算した通り
   の場所に、注文通りの地形を盛り上げた。魔術にたずさわる者としては信じられんほどの
   精密さだ。そしてこの功績により、ミリアどのはまず「賢者」の称号を得られた。
    当時のミリアどのはようやく二十歳を出られた頃だったのだが……その「賢者」の称号
   こそが、あの方の人生を大きく変えるきっかけとなった。
    七代王から直々に与えられた称号の式典には、王太子もご出席されておられたのだが、
   なんとこの方がミリアどのの美貌を見初めてしまわれたのだ。『ぜひにも、我が側に』と、
   こう密かにお声を掛けてこられたのだよ。
    実は、その時にはすでにミリアどのは、国内のさる貴族の御曹司と内々に婚約の準備を
   進められているところだった。話はもう、まとまる寸前だったのだ。しかもそれが、政略
   結婚とはいえご両人はお気が合われて、なかなかに睦まじい間柄だったらしい。
    ところが、そこに降って湧いた王太子からのご要望だ。貴族の正妻か、王家の側室か――
   いや、ヴィエスタ家は悩んだりなぞしなかった。御曹司の方はあっさり断わって、王家に
   鞍替えしたものだ。
    お気の毒に、振られた格好になった御曹司は傷心のあまり国外に出奔されてしまったの
   だそうな。
    「そんな……知りませんでした、ひどい話。でもミリアさんは、お家に言われるままに
    黙って従われたのですか?」
    少しく非難の調子をにじませてマヤが言う。しかし魔術師は首を振った。
    「いや、その時のお気持ちについてはわからん。まあ、もうしばらくは黙ってお聞きなさい」
    ――こうして王太子の側室に上がったミリアどのは、持ち前の美貌だけでなく聡明さをも
   愛されて厚い寵を受けられた。三男二女、お子を五人ももうけられたのだから太子のご執
   心のほどもうかがわれよう。
    そしてもちろんご実家のヴィエスタ家のほうも、期待に違わぬ大抜擢にあずかったよ。
   もともと一族には優秀な人材が多かったこともあってね、代官や執政官、将軍職といった
   表の要職に取り立てられてはどしどしと手腕を発揮していった。彼らの活躍によって王国
   は次第に版図を広げ、刺激を受けた周辺諸国でも競って優れたセプターを政治の場に登用
   するようになった。
    まさに、ミリアどのお一人の存在が公認セプターの歴史を塗り変えてしまったのだ。
    やがて七代王が引退されて太子が八代の座に就かれると、ヴィエスタ家は一気に「侯爵」の
   位を授かった。セプターの家が初めて上級貴族の席に列した瞬間だ。そしてミリアどのは
   ご自分のお子の王位継承権を返上し、引き換えに新たに「ソレル家」という公爵家を復活
   させることを許された。
    この"ソレル"とは、古い時代にエテルナ王家と縁の深かった大貴族の姓。しかし長らく
   絶えていた家だった。これを復活させるにあたっては、やはり王家の血を引くお子たちの
   ためという大義名分がものを言ったのだろうな。
    ヴィエスタ家としても、王位に色気を見せなければ、王家や王家に近いすじの貴族たち
   からの反発は買わずに済む。自分たちが国の屋台骨を背負って立ちはじめたからには、王
   家の信頼をより確かなものとして、政治の実質を握り続ける方が得策と踏んだのであろう。
    何にせよ、ミリアどのが今は一般に「ミリア=ソレル」と呼ばれておるのはこのためなのだよ。
    「老師」
    ずっと黙って聞いていたゼネスだったが、彼が最も興味を惹かれた話題がなかなか登場
   してこない。ついに痺れを切らして訊ねた。
    「その……ミリア=ソレルがスラヴォイとかいう国の軍勢を打ち破るきっかけになった
    という話を、詳しく聞かせて欲しいのだが」
    「おお、そうだったそうだった」
    老魔術師は禿頭を掻いて笑い、また話をし出した。
    ――それは八代王が即位されて後のことだ。この大陸の中ほどにあるスラヴォイという
   新興の国が、その頃急激に領土を広げてきて、エテルナをはじめ西側諸国の脅威となって
   おった。
    スラヴォイの民は冶金や鋳造(:いずれも金属類の錬成、加工の技を指す)の技術に長けて
   おってな、強力な武器や防具を次々に開発して力をつけたのだよ。しかもそれらには大抵
   呪文防御の仕掛けまでも施してあるものだから、軍隊に少しばかりのセプターや魔術師を
   混ぜただけでは到底歯が立たん。
    そこで西側諸国では、エテルナ王国を中心に四カ国が連合してスラヴォイの侵攻に対抗
   する策を取った。ミリアどのはこの時、八代王より拝命して最前線に立たれたのだ。
    両軍は大陸南西の広い砂漠地帯でぶつかった。スラヴォイ軍は精鋭三万、対する連合軍
   は四万あまりと数だけは勝るが寄せ集めで、武器・防具の質も心もとない。
    実際、砂塵を捲いて迫る敵軍は、西側の常識を上回る遠距離から強弩(ボウガン)の矢や
   投石器の石を飛ばしてきおる、それだけで西側の兵士たちは蒼然として浮き足立った。
    しかし、慌てる自軍を尻目に粛々と、ミリアどのが進み出られて先頭に立たれた。
    ――と、いきなり強い閃光がほとばしり、味方も敵も全軍の目を覆わしめた。ややあって
   光がおさまったかと目を開けば……なんと、晴れていたはずの空に真っ暗な闇が広がり、その
   下に燐光を放つ巨大な影が立ち上がっておる。
    "それ"は人に似た姿をしていたが山をも越す身丈を誇り、頭部には触覚、胸とおぼしき
   辺りからは幾本もの剛毛を生じた節のある脚が突き出ておった。何やら「虫」を思わせる
   異形のクリーチャーだ。
    「"風の魔王"か……!」
    ピクリ、ゼネスの右眉が上がった。同時にそれまで組んでいた腕をほどき、居住まいをも正す。
    「風の魔王 ベールゼブブ」――それは、以前ユウリイが呼び出してしまった「火の魔王」
   と同じく、四つの精霊力に属する魔生物各々の「長」たる存在。最高位の実力を持つ強大な
   クリーチャーだ。
    「それで、ミリアは何をしたのだ」
    確かに、火の魔王で思い知ったように「魔王」と呼称されるクリーチャーは、たった一体
   を出現させただけで世界全体に影響を及ぼすほどの力を示すことができる。ゼネスに言わ
   せれば、たかだか三万の軍勢に対するには"大げさに過ぎる"のだ。
    美しく聡明で五人もの子の母である女セプターが、あのロメロの曾祖母が、それが運命
   とはいえ戦の場に臨んで魔王カードを遣い、あまたの人の血を流したのだろうか。
    覚えず緊迫したゼネスを前に、ギョーム老も神妙な面持ちだった。彼はひと口、マヤが
   淹れ直した茶をすすると語りを再開した。
    ――戦いの場に現われた巨大にして異形のクリーチャー、居合わせた人々は驚き、てんで
   に見上げた。するうちに突如、甲高く尾を引く声をあげてクリーチャーが叫んだ。まるで
   金属が激しく軋(きし)るような不快極まる音、皆思わず耳をふさいで両軍ともに干戈の
   響きは止んだ。
    それが魔王の咆哮だった。一瞬の静寂の後……魔王は巨大な体躯を身震いさせ、すると
   身体中に開いた気孔から大量の霧が噴出した。さらに魔王を中心に風が巻き、ドッと強い
   大きな旋風が起こった。
    「風の魔王」はやはり風を生むのだ、そうして魔王の霧を含んだ旋風は一気に砂上を駆け、
   対するスラヴォイ軍めがけて襲いかかろうとした。
    ミリアどのはしかしその瞬間、魔王をカードに戻してしまわれた。だから強い旋風も、
   敵軍の陣中を吹き抜ける頃には多少強い突風程度の威力にしかなってはおらん。が……。
    さあ、いったい何が起こったと思う?
    魔王が生んだ"風"に吹かれるや否や、スラヴォイ軍が手にし身に付けていた自慢の武器
   防具は皆、ことごとく赤く錆びついて崩れ落ちてしまった。木材を使った強弩や投石器も、
   留め具などの金属製の部品が失われてバラバラになる。投石用の石でさえ、あっという間に
   ぐずぐずの砂と化した、敵軍は大混乱だ。
    「"風化"か……!」
    ゼネスのうめきに老人がうなずく。
    「風化、もっと正確には"酸化"だな。無機質に働きかけてその性質を変えてしまう力こそ
    が、風の魔王の真の能力だったのだ。――それは、ミリアどのがこの時お使いになるまで、
    何人たりとも知り得なかったことなのだが」
    「うう〜む……」
    驚きを隠せず、ゼネスはただ唸った。彼も「風の魔王」のそんな能力については初耳だ。
   もともと、扱いの難しいカードであるだけに見(まみ)える機会さえ滅多に無いとはいえ。
    「ミリアの他に、その"酸化"の能力を引き出せたセプターはいるのか?」
    さらに問うたが、老人は首を横に振った。
    「おらぬ、よ。後にも先にもミリアどのお一人のみさ。それと……もし"酸化"の発現と
    同時に風の魔王をカードに戻されておらなんだら、必ずや後方の連合軍の武器・防具も
    また塵と化していただろうと今では考えられている」
    ――こうして、スラヴォイ軍は一瞬にして強力な武装の全てを失い、戦意さえも喪失して
   潰走(ついそう:陣形が崩れ、ちりぢりになって逃げ散ること)した。連合軍がこれに対し
   笠にかかって追い立てたのは言うまでもない。
    両軍の激突はこうして、大した戦闘もないまま連合側の勝利となって決した。
    ちなみに、エテルナ軍はこの戦で敵軍の武器・防具職人らを多数捕らえ、連れ帰っておる。
   だからことによると、魔王の使用は八代王から内々に「戦に勝利し、さらに敵軍の職人も
   確保するよう」と要請された末の決断かも知れん。
    「あの、老先生」
    しばらくぶりにマヤが口を開いた、沈鬱にひそめた声で。
    「魔王を呼び出す時、ミリアさんは……何を"贄"にされたんでしょうか?」
    青ざめた顔、胸の前で固く握り合わされた手、ユウリイのことを思い出したに相違ない。
    「"贄"か、確かに魔王のカードを使うとなれば、何らかの犠牲は避けられぬからのう。
    ミリアどのはこの時……ご自分の右の腕と左の脚とを引き換えになさった」
    「ええっ!!」
    叫び、少女は絶句した。とび色の眼がいっぱいに見開かれ、睫毛がぴりぴりふるえる。
    「ミリアどのが魔王をカードに戻されると、元通り空は明るくなった。スラヴォイ軍が
    大きく乱れ、それを見た連合軍の兵士たちが次々、ミリアどのを追い越して走ってゆく。
     実はわたしの師匠もこの戦には従軍しておってね、この時はミリアどののすぐお側に
    付き従っておった。師匠の話では……長いマントを羽織られたかのお方のお姿が何やら、
    バランスを欠いたように見受けられる。異状を察して近づき、お体をお支え申し上げる
    と、どうだ、
     右腕と左脚の手応えが無い、どちらも付け根あたりからすっぱりと、切り落とされた
    ように"消えて"しまっていたそうだ。
     帰国の後、戦勝の報告に上がられたミリアどののお姿を見て、八代王ははらはらと
    落涙されたという。この、対スラヴォイ戦でのミリアどのの功績は各連合国からも高く
    評価され、ついに賢者改め「大賢者」の称号を送られる運びとなった。
     しかし片腕片脚となられたミリアどのは、それ以降ずっと、魔力によって動く義手と
    義足とをお付けになってお過ごしになられた」
    「どうして……どうしてそこまで……」
    ほとんど涙声でマヤはつぶやいていた。その彼女に、魔術師はじんわりとほほ笑む。
    「師匠が戦場でミリアどのをお支え申した時、かのお人はひと言『"命"なのです』と、
    そうつぶやかれたそうな。ここで言う"命(めい)"とはな、如何ともしがたい、一方的に
    やってきてただ受け入れるしかない"運命"のことだ。
     ご自分につながる縁(えにし)の数々を投げ出すことなくお引き受けになり、その者ら
    をあたう限りの最善へと導いてゆく――ミリアどのほど仁愛を体現されたお人を私は
    他に知らない。
     力を持つとはすなわち、責任を持つことでもある。かのお方はまこと、それを己が身
    をもって生涯に渡り示され続けた……」
    老人はそこまで語ると、またカップを持ち上げて茶をすすった。「ひやり」、家の中を通る
   風がやや冷たくなりはじめている。が、三人とも席を立たず、それぞれに何ごとか思いを
   巡らせている。
    しばらくの沈黙の後、ようやくとギョーム老は再度「語り」を始めた。
    ――さて、対スラヴォイとの戦から十年余りが過ぎた頃だ。エテルナの属国のひとつに
   生まれた私は魔術師を志し、紹介する人あって師匠の元に弟子入りを果たした。そして、
   ある日師に付き従ってミリアどのにお会いする機会を持った。十一の時分だったな。
    お会いした場所は、ミリアどのの別邸のテラスであった。師匠が公用の相談事のために
   招かれた折に、私も連れて行ってくださったのだ。訪ねたお屋敷はさすが王の寵姫の別邸
   らしく瀟洒かつ華麗な造作でね、海に面した大変眺めの良い高台の上に建てられていた。
    その日は終始、心地良い潮風が吹いていたことを良く憶えておるよ。師より紹介された
   私にミリアどのはほほ笑みかけられて、「何かお聞きになりたいことはありますか?」そう
   お尋ねになられた。
    そこで私は「自分はまだ、セプターがカードを使われるところを目の当たりにしたことが
   ございません。よろしければ、どうぞその技を見せていただけませんでしょうか」とまあ、
   お願い申し上げた。
    ミリアどのは「わかりました、それではよくご覧になっていらっしゃい」と仰ってカードを
   一枚取り出された。
    通常ならば公認セプターといえど、任務以外の理由でカードを所持することは許されない。
   だがミリアどのほどの名セプターとなれば話は別でね、特別に私用のためのカードをお持
   ちになることを許可されておったのだ。
    かのお方がテラスの上でカードを掲げられると、そこから強い光が放たれ、明るい輝きの
   中よりひとつの影が現われ出た。それはほっそりと華奢な雷飛竜、「サンダービーク」で
   あった。
    飛竜はひと声啼いて風を呼び、さらりと舞い上がった。燕(ツバメ)が翼をひるがえす
   よりも軽やかに、滑らかに、海からの風を受けて巧みに速度を増し、高空へと至る。
    今も忘れはしない……夕暮れの近い赤紫色の空に、しなやかな翼の動きがくっきりと黒く
   抜けて見えた。小刻みな旋回も見事だったが、ただゆるりゆるりと大きく円を描いて飛ぶ
   姿こそが、ことにも美しかったものだ。
    翼を広げて胸を張り、時おり青白い放電の光を帯びつつ空を行く。大きく旋回する毎に、
   華奢であるはずの姿が次第に大きく、雄大な気配を広げてゆく――太陽も海も大地も風も、
   等しく全てがビークの飛翔を介してひとつに調和していると感じられた。「飛ぶ」という
   行為そのものだけが、そこには在った。
    私は感動して……とても強く深く感じ入ってしまってね、思わずミリアどのに直に告げて
   しまったよ。
    「こんなに美しいものを、私は生まれて初めて見ました。セプターの技とは何と素晴ら
    しい、すごい人たちなんですね」
    するとすぐさま、わたしの師匠が笑いながら訂正をしてくれたものだ。
    「ギョーム君、セプターの全てがこれほど優れた技を持っているのではないのだよ。私の
    知る限りではミリアどのだけだ、カードの力をこれほど美しく表現できる方は」
    ところが、それを聞かれた当のミリアどのときたらね、ポッとほほを赤く染められて、
   少女のようにはにかまれたものだ。その頃のお歳はすでに五十目前のはずであったのだが
   ……何ともはやお美しくもお可愛らしい様子に見えてね。私はたちまち、このお方のこと
   をもっと知りたい、ご自分のお口から直接ご自身のお話をうかがいたいと、頭の中はもう
   そんな思いでいっぱいになってしまった。
    それで、また急いでお尋ねしたのだよ。
    「ミリアさま、ならば何故あなたおひとりだけが、カードの力を美しくお使いになれる
    のでしょうか」
    そうしたらばミリアどのは、ほほばかりかもうお顔中まで真っ赤にされたが、それでも
   私の顔を真っ直ぐに見てお答えになってくださった。
    「"美しい"と言ってくださってありがとう、大変嬉しゅうございます。
     でも……特別のことは何もしていないのですよ、ただ私が世界に触れて得た"ことば"
    を、自分なりの"ことば"に変えてまた世界へと放ち返しているだけで」
    「その、仰る"世界"とか"ことば"というものが何なのか、私にはわからないのですが」
    不躾にも夢中になってさらにお聞きする私に、ミリアどのはほほ笑まれた。
    「"網"ですよ、無数の糸と結び目から成る。
     私たちが生きるこの世界に在る全ては、数え切れないほどの糸で互いにつながって
    います。あなたも私も、そうした糸が幾本も絡み合った結び目のひとつひとつ。
     私はいつも、私につながる糸を伝わってくる響き――"ことば"を感じています。耳で
    聞くことば、目に見えることば、肌で知ることば……波の音、鳥の声、陽の光、花の色、
    風の動き、幼い子の手のひらの柔らかさと熱さ……有り様はさまざまですが、どれも
    ことば。少なくとも私はそういうものだと思うております。
     そうして日々、たくさんのことばを受け取って己が身の内に折り重ねてゆきますとね、
    いつしか私の中からも、湧きあふれ流れ出そうとする"何ものか"が生じてきます。私は、
    その"何ものか"をカードの力を借りて形とし、全ての糸に伝わるようにと祈りながら
    自分の手から送り返しているのです。
     ずっと、そうしてきました。世界にことばを投げかけるために、私はカードを使うより
    他の術(すべ)を持ちませんでしたから。
     不器用なのですよ、ですからただひたすらに、愚直に同じことを続けてきたに過ぎない
    のです」
     『師匠――!!』
    ゼネスの胸に衝撃が走った。ぐらぐらと頭が、記憶が揺さぶられる。
    ――「世界を見なさい、お前は、この広い世界をこそ。
    すみずみまで見て、触れて、ありのままに感ずるがいい。
    そして私に教えておくれ、
    お前が何に、どのように心を動かされたのか、どんな思いが浮かんできたのかを。
    焦らずともよいのだよ、繰り返していればきっと"扉"はお前のために開かれる。
    "カード"とは、そういうものなのだからね」――
    今ギョーム老が語ってくれたミリアの述懐は、言い方こそ違えかつて少年の日、師が彼
   に諭してくれたカードの秘蹟そのままではないか。
    まばたきすることさえ忘れて眼を見開いたままのゼネス。老人はしかしちらとうかがった
   だけでなおも話を続けた。
    ――そう仰られてから、ミリアどのはついとテラスの向こうに広がる海原にお眼を向け
   られ、じっとしばらく彼方を見つめられた。風の音、潮の匂い、波の響き……私もしばらく
   "世界のことば"に向かい自身の感覚を集中させた。
    やがて、ミリアどのは空の飛竜を見上げられながらこんなことを言われた。
    「結び目たる私たちは、蜘蛛の網に捕らえられた羽虫とは違います。
     ですが……私はいつか、糸を伝って自在に場所を移し、消えては現われる結び目に
    なりたい。誰にも見えない結び目に……」
    私にはその時、すぐにはお言葉の意味がわからなんだ。吹けば飛ぶ子どもの限界だな。
   そのお目通りの日からしばらくしてミリアどのは引退なされ、やがてお亡くなりになった
   との報が師匠の元に来た。すると、わが師はおごそかにつぶやかれた。
    「ついに、見えない結び目となられたか」
    と、そう――。
    「老先生!」
    勢いよく椅子を蹴立てるようにして、マヤが立ち上がった。
    「ミリアさんは生きてらっしゃったんです、引退されてすぐにお亡くなりになったという
    のは表向きだけの話で、その後も百歳を越えられるまでお屋敷の奥でずっと過ごされて
    いたんですよ。
     少し前まで私たち、ロメロさんという歌手の方と一緒に旅をしてました。その人が
    ミリアさんのひい孫で、子どもの頃にお母さんのご実家のお屋敷の奥で、閉じ込められた
    不思議なお婆さんに会ったんだそうです。とてもとても歳を取った、でもやさしい、何
    でも知ってるお婆さん。
     仲良くなって何度かお話ししたけれども、ある冬の晩に亡くなられたんだそうです。
    その時初めて、ロメロさんはお婆さんがミリアさんだったことを知ったと、そう教えて
    くれました」
    「うん……うん、ありがとう。するとあなた方も真相をご存知だったのだね」
    息せき切って語った少女の顔をやさしく見上げて、老人はしかし意外な言い方をする。
    「"あなた方も"ということは――老師、それではあなたも承知のことだったのか」
    確かめるゼネスに魔術師は微笑で応えた。
    「訃報を受けた後にも私は時おり感じておったものだ、空を渡って行き来する何ものか
    の気配を。それはかつて見た、ミリアどののサンダービークから響いてきたものとよく
    似た印象であった。
     風になり、波となり、鳥に化し、花と咲く――ミリアどのはお一人で過ごされながらも
    なお、ご自身が感じ取られた数々の"ことば"の一つ一つにお心をゆだねられていたの
    だろうか。その思いが見えない形をとって、この世界のそこかしこに現われていたので
    あろうか。
     少なくとも私の師匠は「そうなのだ」と説いてくれた。『ミリアどのが、糸を伝って
    私たちの元へお出でになっておられるのだよ』と」
    マヤがハッとして顔色を変えた。
    「それは、もしかして……老先生のお師匠さまはミリアさんのことを……」
    目を細くしてまぶしげに、魔術師は少女を見返す。
    「わかるかね、ああ、私の師匠はかのお方とは深く心を交わされておられた。なにしろ、
    以前には気の合った婚約者どうしだったのだから」
    ――御曹司……!――
    ゼネス、そして恐らくはマヤも、同じ一つ言葉を呑み込んでいた。
    「師匠は一度は生国を出奔し、全てをあきらめようとした。だが果たせず、逆に権謀渦
    巻く宮廷に入られるミリアどのを影ながらお助けするため、魔術の道を進まんと決意された。
    貴族の子弟ながら、もともと優れた魔術のセンスをお持ちであったのでな。
     そして厳しい修行を積み、短期間のうちにひとかどの魔術師になるとすぐさま、名前
    を変え顔の半分を薬で焼いて素性を隠し、エテルナ王宮に仕える術師の一人となった。
     このことは、師がご自身の臨終の際にようやく、全てを明かしてくださったのだよ。
    ミリアどのが本当にお亡くなりになるより、十年ほど先であったなぁ」
    「老先生、ミリアさんはそのこと、お師匠さまが元の御曹司だということを、ご存知だった
    のでしょうか?」
    まだ突っ立ったままのマヤが問うた、瞳を据えた真剣な顔で、握りしめた手を胸に当てて。
    「それは私にも本当のところはわからない。何しろ王様の寵姫だからね、師匠の方から
    出向くのは務め上の用事のある時だけ、ましてやお二人のみ差し向かいでお会いできる
    はずもない。
     だが、ミリアどのは師匠を友人として厚く遇してくださった。私が別邸でお会いした時
    などは……師匠と歓談されるあの方のお顔ときたらそれは初々しくてね、まるで乙女
    そのままであったな。
     顔の右半分を赤黒い痣に覆われた男の顔を、やさしい眼差しで飽くことなく見つめて
    くださっておられた」
    「ミリアさん……」
    つぶやいた少女の声は小さく、湿っていた。
    老魔術師はしばらく目をつむり、茶をすすった。カップに残る半分ほどをゆっくり、しごく
   ゆっくりと時間をかけて飲んだ。
    そうして全てを飲み干した後、空になったカップを両手で握り、じっと押し黙っていた。
   聞いている二人も黙し、居間の中はこそりとも音がしなかった。だが、老人はやがてついに
   眼を見開いた。
    「ミリアどのはそのご生涯の前半を、同族と国と仲間のセプター達のために捧げられた。
    それでは、残りの半分では何を成されたのか?ただお一人で、いったい何を追及された
    のであるか?
     マヤさんや、あなたはさっき空から戻ったロアたちに『面白かった?楽しそうだったね』
    と、こう話しかけられたな。
     人の"自由"とは本来、そのような心の動きや想像力の働きの内にこそあるものでは
    ないだろうかね」
    「あっ……!」
    小さく叫び、とび色の眼の瞳孔はまん丸に開いた。マヤのただでさえくっきりと形の良い
   眼が、いよいよ大きく濡れて見える。
    いや、ゼネスもまた弟子と驚きを共にしていた。思いもかけなかった発見の驚きを。
    ――糸を伝う"ことば"、消えては現われる"結び目"――
    ――何に、どのように心を動かされたのか、どんな思いが浮かんできたのか――
    ――面白かった?楽しそうだったね――
    『そうだ、同じだ、皆同じひとつのことなのだ』
    ずっと澱み滞っていたものが流れ出した。記憶、思考、想念、感覚――ゼネスの頭の中で、
   あらゆるものが激しく動き渦を巻いて繋がろうとする。
    一方、彼の弟子は生き生きとして魔術師に向かっていた。
    「外の"ことば"に触れて、そちらへと気持ちが動いて私の中にも"ことば"が生まれる。
    響いて、動いて、生じて、表わす。表わしてまた外に返す――ああ、だんだんはっきり
    してきました。
     老先生、ロメロさんは最後にミリアさんからこんなお話をうかがったのだそうです。
    『カードの力は、ただ"表わし"のひとつに過ぎぬものを』と。
    そうです、魔力が高ければとか強い力を使えればとか、そんなことが大事なんじゃない。
    大事なのは、まず心が動くということ、外から伝わってくることばに向かうということ。
     それが始まりで、私たちは心が動くから情や思いが生まれて、やがては生まれたもの
    を自分なりのことばに変えてまた外に返す。するとそれが他の誰かや何かに伝わって
    ――その繰り返しでつながってゆくんですね。
     カードの力は伝えるための表わしのひとつ、音楽や絵や詞と同じこと……わかります、
    今はとてもはっきりわかる感じがします。
     良かった、ああ、ユウリイが見せてくれた通り、カードはもともとは怖いものじゃ
    なかったんだ。嬉しい、すごく嬉しい……」
    ひと言ひと言を確かめるようにマヤは話していた。彼女は掴んだのだ、ついに、これまで
   探し続けていたものを。
    しかしそれを聞く老人の顔は、必ずしも明るいものではなかった。
    「だがなマヤさん、ミリアどののそうしたお考えは結局、世に入れられなかったのだ。
    出世を遂げたセプター達は、能力こそ優秀だったが自分たちの力は何か得をするための
    ものとしか考えなかった。
     "力のある者が多くを得るのは当然だ"――そう唱えてね、彼らのやり方にあまりいい
    顔をしないミリアどのを次第に疎んずるようになってしまった。
     あの方が早すぎる引退をされたのは、慢心したセプターの行く末を憂慮されてのこと
    だったかもしれない」
    「でもお師匠さまや老先生にはちゃんと伝わったのでしょう、ミリアさんのお心が」
    ずいと歩を進め、少女は老人のすぐ脇に立った。
    「他にも、受け取った方はいるんじゃないでしょうか。ロメロさんも、初めてミリアさん
    に会われた時に『ずっとお前を待っていたよ』と言われたそうですし。
     私も、私も受け継ぎます。ロメロさんと老先生と、お二人からミリアさんのお話しを
    うかがえたのも、もしかするとお導きなのかもしれない。……ううん、そうだと思いたい。
    信じます、私は。だってずっと考えてきたんですもの、"人がカードを使う本当のこと"
    って何だろう?って。
     新しい目標ができました。私はカードの力を"ことば"として、他の誰かに伝えるため
    の自分の"ことば"として使えるようになりたい。それと、もっと何人ものセプターに
    会って、ミリアさんの志を継いでる人を捜したり、自分でも伝えたりしたい。
     皆で力を合わせたり考えを出し合えば、カードやセプターが恐れられてる今のあり方
    を変えることもできるんじゃないかって思います。
     それと――アドルフォのお国の人たちを思う気持ちも、そのうちには伝わって受け取る
    人が出てきてくれるかもしれない。……うん、そう思うと元気が出る感じがします」
    張りのある声、力を込めた眼差し、決意の微笑を作る唇。弟子がまたひと回り成長した
   ことを、ゼネスは認めた。――キリリ、痛みが胸を噛む。
    だが、マヤは彼には少しも注意を払わずに魔術師の方にばかり向いているのだった。
    「私、サンダービークなら一枚持ってるんです。今の自分の力を込められるだけ込めて
    遣ってみますから、老先生、どうか私の覚悟をご覧になってくださいませんか」
    その言葉は魔術師を動かした。ギョーム老は椅子を引いて立ち上がり、うなずいた。
    「あなたには"骨"があるね。うむ、面白いな、どんな骨なのかひとつ見せてもらうと
    しようか」
    そのまま、二人共にスタスタと部屋を出て行ってしまおうとする。ゼネスも慌てて後を
   追った。

前のページに戻る 続きを読む
 「読み物の部屋」に戻る