「読み物の部屋」に戻る
続きを読む


      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第11話 「 師とその弟子 (中編) 」 (1)


    シャッ――
    空を「斬る」音がした。「キラッ」ひとすじ流れる金属光、朝まだきの薄闇の中に靄(もや)
   を裂く。
    シャッ
    再び音、光が走る。上から下に半円の弧を描く。
    稽古場の踏み締められた土の上だった。分厚く繁る雑木の枝葉の下だった。少女は裸足
   で立ち、今しも振り下ろしたばかりの白刃を「すうっ」と持ち上げた。顔の前で刃を正面に
   立て、「中段の構え」を取る。
    そのまま、しばらく呼吸を整える。ゆっくりと大きく息を吸い、いったん止めてから次
   には少しずつ、少しずつ吐き出してゆく。肚に力を込める。
    腕が上がった、頭の上までしっかりと刀を押し上げた。足が出た、と同時に振った。
    ――シャッ
    これでもう何度目になるだろう、だが振る者は数えているわけではない。始めた時には
   まだ紺青だった空に、今は東の方から紅々とした陽の光がにじみつつある。木立ちの間を
   ゆく靄の動きも目に見えるようになった、それだけだ。振っている間に時が流れただけだ。
    「構えと足の運びはどちらもよろしいですな。振りも、刃すじを立てた一拍子の打突を
    すでに身につけておられる。
     私がこの上にさらに付け足してさしあげるとすれば、刀を取る上での気構えのお話に
    なりますが」
    ほんのりと射し初める朝の光の中、ほつほつと人の声が流れた。ウェイ老だ。稽古場の
   土の円の端にしゃがみ、老爺は並んで立つゼネスと共に刀を振る少女を見守っている。
    「そう、剣士という者の持つべき心構え、まさにそれをご教示願わんがためにこそ、
    貴兄にお頼みした」
    目の前の少女=マヤの「素振り」をじっと見つめたまま、ゼネスもつぶやくように言葉を
   返した。
    ――昨日の夕方、マヤへの剣の指導を快く引き受けてくれたウェイ老は、一夜明けた今朝
   よりさっそく彼女を稽古場に連れ出した。
    「まずはこの刀を振ってごらんなされ」
    彼は士(サムライ)が使う大刀より短く(約50センチ)軽い刀を少女に渡し、素振りを
   促した。当然、刃付きの真剣である。
    「素振り」というと、刀を振るだけのごく簡単な動作に思われるかもしれない。しかし、
   鋭い刃と重量とを持つ真剣でこれを行えば、剣を扱う技量のほどはその姿勢にありありと
   表れてしまうものだ。つまりここで素振りを見せるとは、ウェイ老がマヤの剣士として
   の現状を推し測るための試験なのである。
    ――シャッ……!
    また振った、白々と大気を斬った。刃を掲げ、歩を踏み、ひと息に振り下ろす。動作の
   「起こり」から「締め」まで心を入れ、瞬時も停滞することなく端正に移る。老剣士が見抜
   いた通り、マヤの剣技はすでに形こそは申し分なくできあがっている。
    『だが、問題はこの先だ』
    形は整った。ゼネスが教えた。マヤ本人の学ぶ意志と向上心はもとより固い。だが、さら
   なる飛躍をはかるためにはまだ足りないものがある。
    『あいつは、セプターとしての最高の境地を知る必要がある』
    そのことだった。
    剣士もセプターも、生まれた時から完璧な者などいない。人は全て「学ぶ」ことによって
   己れを高めてゆく。そしてその際の「手本」は、各々の段階に応じてより高度なそれを参照
   することが望ましい。
    ゼネスの見るところ、マヤのセプターとしての技量はすでにかなりの高い段階に達して
   いた。技術的な面では、彼にはもう新たに提示できるものはない(ゼネスの所持するカード
   群の質的限界も含めて)。だからこれからの彼女に必要なのは、現在の師であるゼネスを
   上回る優秀なセプターの技にできるだけ多く接することなのだ。
    「それまで」
    林間に老爺の声が通った。ぴたり、白い鋼の弧が停止する。
    少女の顔がこちらを向いた。彼女の頭上から、靄を透かして朝の光が射してくる。真っ
   直ぐな薄い光線はほのかに紅潮し汗ばむ顔を淡い闇の中に浮き立たせた。
    「良い素振りでござった。マヤさんは剣を扱う形はすでに整えておられる、お師匠のお仕
    込みの筋金がうかがわれますな」
    老剣士はまず少女の技量を褒め、そして間接的にその師をも褒めた。彼女の目元が微か
   に赤らむ。
    「それでは、次は得物を木刀に替えて、この士に打ち掛かってごらんなされ」
    スッ――と老爺の傍らに控えていた士が立ち上がった。両手に一本ずつ木刀を持っている。
   彼はそのうち短い方の一本をマヤに差し出し、入れ替わりに刀を受け取って己れの腰に収めた。
    そして"二人"は一間半ほど離れ、互いに木刀を構えて対峙した。
    「マヤさん」
    稽古場の円陣の端に立ち、老爺が呼びかけた。
    「相手はクリーチャー、どうぞご遠慮なく打ち込まれよ。ただし此方は"寸止め"にて対
    しますがゆえ、何ごとも恐れなく存分に参られい」
    ――クリーチャーが相手なのだから、木刀でしっかり打ってきてかまわない。そして自分
   は打ち据える寸前で刀を止めてみせるから、あなたも打たれる痛みのことは考えずに思う
   存分に飛び込んで来なさい――そういう意味である。少女のあごがわずかに上下し「承諾」
   を伝えた。
    「いざ」
    しかし、二本の木刀はすぐには動き出さなかった。切っ先を相手に向けながらも一本は
   待ち、もう一本はうかがう。うかがう者から待つ者へ、「ぴいん」と見えない糸が張り渡さ
   れている。
    「すーっ、すーっ」
    大きく息を吸う音が聞こえた。マヤだ、下腹の辺りが微かに上下している。とはいえ、
   彼女もすでにずぶの素人ではない。だけに、呼気は大きくなってもさすがに肩までが動く
   ような乱れは見せない。が、額の色はいやに白かった。緊張している。懸命に落ち着こう
   としての腹の動きだ。黒光りする短い木刀はゼネスの目にはじっと静止していると見えた。
   だが、彼女が放つ「糸」は細かに震えていた。打ち込もうとする気迫が震えている。刀を
   握る手の内にも、じんわりと汗がにじんでいるかも知れない。
    それもそのはず。
    少女を待つ相手、士のたたずまいはまことに充実しきっていた。
    総髪の浅黒い青年=士は、稽古場の裸地の上に整然として立っていた。否、どっしりと
   根を下ろしていた。
    それは立ち昇り、聳える精神の樹だった。地に付けた足の裏より吸い上げるようにして
   澄んだ「力」が伸び上がってゆく。膝を腰を背すじを駆け、流れ昇って逆しまの滝と化す。
   両の腕にも絶えず流れ込み、ぐんぐんと木刀の切っ先を押し上げる。
    地から天へ、絶えず湧きあがる気力。それでいて、青年の表情はしごく落ち着きはらっ
   ていた。大きく構えてゆったりと立ち、そのまま「押し」も「引き」もしない。ユウリィの
   騎士が針の如き闘気を放射していたのとは対象的に、ウェイ老の士は一つの大きな「調和」
   と見えた。闘志を芯にして天地の間をしなやかに還流する、力の調和に。
    表側はあくまで静かに色を変えず、しかしてその内には高い「動」の熱がある。その姿は、
   百年成長し続けてなおも豊かに繁る古木に最もよく似ていると言えた。
    「見事だ」
    覚えず、ゼネスは嘆声を漏らしていた。剛を包み込んだ柔の形、これぞ真実の「正眼の構え」
   に相違ない。彼に弟子を託したことは正解だった、とあらためて思う。
    『この調和の精神……敵わないはずだ』
    そうも思い知った、自覚した。昨日の対戦時とは違い、今日のウェイ老は最初から己れ
   の持てる全てを晒している。それはもっぱらマヤへの指導のためだ。が、そうして露わに
   された士の力量はゼネスに敗北感をもたらすに十分だった。
    『俺は……ああはできん』
    噛みしめた、胆汁のように苦い認識を。それは口中から喉を通って胃の腑まで沁みた。
    『あの老人には、俺には足りないものがある。マヤが手本とすべき、だが俺には欠けて
    いる何かが』
    今わかるのはしかし、"そこ"までだ。足りないもの、その不足を補う方法はこれから己
   自身で見出してゆくしかない。
    『マヤ、お前にはつかめるか、それが』
    彼は弟子の顔を見た。払暁の中に白っぽく浮く少女の顔、眉を立てきりきりと引き絞られ、
   しかして真っ直ぐと士に対した顔。とび色の瞳が強く鋭く前を見据えていた。呼吸音もいつ
   しかおさまり、振動も止んで気迫がキンと収斂されてゆく、彼女の手の内の刀の中に。
    闘志が見つめている。少女の形を取って。
    『よし、これなら打ち込めるな』
    ひとまずはホッと安堵し、ゼネスも肚に力を据えた。彼はこれから、弟子が自分以外の
   セプターから何を学び取るのかを細大もらさず見守るつもりだ。
    『あいつには、もう言っておいたからな』
    昨日の暮れ方、稽古場からウェイ老の小屋まで戻る道すがらの彼女とのやりとりを、
   思い浮かべた。


    「本当にいいの? 私、カードのことウェイさんに教わっても」
    山道を下る途中、マヤは師の傍らに寄ると密めた声でそっと訊ねてきたものだ。
    これまで、彼女にカードと魔術の技を教えてきた者はゼネス一人に限られていた。それは
   もともとがマヤ本人の選択であり、またその事情があったゆえか、彼女も旅の途上で他の
   優れたセプターや魔術師にに出遭う機会があっても、カードを扱う術に関してはゼネス以外
   のセプターに自分から師事を仰いだことはなかった(そしてゼネスもまた、他者への師事を
   奨めたことはない)。
    そのマヤに、ゼネスは初めて「ウェイ老に剣を学べ」と命じたのだ。彼女もさすがに師の
   真意を確かめたくなったらしい。
    「何かと思えばそんな話か、俺のことなら気にするな」
    坂の道を行く足取りをゆるめ、彼は自分の顔を弟子に振り向けた。さらに(少し無理を
   して)笑顔を作ってみせた。
    「結局のところ、俺は覇者には勝てない男だ。いろいろと、その……足りないところが
    ある。だからお前は、俺以上の力量を持つセプターを見つけた時には遠慮なく師事する
    がいい、俺が許す。己れの向上を目指すならば、つまらんことは気にかけるな」
    告げた。それは彼の本心からの言葉だった。が、少女はしばらくさぐるような眼をして
   師を見上げていた。そうしてしばらくの後、
    「わかりました、ありがとうございます」
    言って、深く頭を下げたのだった。
    「――ヤッ!」
    突如、気合声が飛んだ。しじまが破れた。少女が出た、「ツツッ」間合いが縮んだ、踏み
   込んだ。木刀が風を巻いて右から士の腕を襲う。が、"古木"はすぃと軽やかに根元から
   動いた、かわされた。
    「たっ!」
    だが少女は足を止めなかった。瞬時に相手がかわした方向に横移動し、さらに刀を伸ば
   して払う。しかしこれもすんでのところで空を切った。
    「えいっ! たぁっ!」
    それでも次から次へ、マヤは果敢に攻めて打ち込んだ。次第に刀の動きが速さを増し、
   剣風も鋭さを帯びてゆく。相手に「先読み」をされぬよう、動きの「起こり(打突動作の
   開始)」は可能な限り小さく抑えて足も腕も一瞬に出る。士はかわし続けてはいるが、
   呼吸は紙一重だ。あと少しで「届く」だろうか。
    『――いや、"まだ"だな』
    ゼネスの目はしかし、一連のやり取りを「惜しい」と見てはいなかった。士は足さばき
   だけで少女をいなし、間合いを保っている。マヤが動けば動き、止まれば止まる。さじ加減
   は常に士の側にあり、なかなか少女のものにはならない。ギリギリに見えても、終始きち
   んとコントロールされた動きなのだ。彼に乱れはない。
    『どうする?』
    このままでは、たとえ百万回打ち込もうともマヤの木刀が士の体躯を捉える望みは薄い
   と言わねばならない。格上の相手を制するためには、虚を突くなり手数を繰り出して疲弊
   させるなり、いずれにしろ何らかの手段を講じて「乱れ」を生じさせる必要がある。かつて
   ユウリィがロォワンを破った時のように。
    だが、にもかかわらずマヤは今、あくまで正攻法のみでゆくと決めている様子だった。
   策略というものは弄(ろう)せず、打ち込みの速度と鋭さだけで真正面から、士に文字通り
   ぶつかっていっている。バカ正直、いやそれを通り越していっそ潔いとさえ言うべきか。
   見ていると、以前彼女がゼネスのマジックボルトを受けることを通じて己れの特殊な力を
   封じた一件が思い出される。
    『その意気だ』
    そっとうなずいた、時。
    初めて、士の足が前に出た。
    ――それはわずかな、ほんの爪先分ほどの踏み込みだった。しかし、ピタリと少女の打ち
   込みは止まってしまった。
    そのまま動かない。木刀を顔の正面に立て、士をにらみつけている。急激に額に汗がにじむ。
    ゼネスも、見た。わずか一瞬だが「出た」動きはザックリと間合いを斬っていた。士の方
   から「縮めた」のだ、「撃つ」という意識を込めて。鋭く重い、それは石斧の如き意志の
   一撃だった。
    音が途絶えた。木刀を構えた影が二つ、立ち止まったまま「そよ」とも揺らがない。漲る
   ものがある。風さえも止めて張り詰め、拮抗する。士の一撃も、出掛かったところで止まっ
   ていた。いや、止められたのだ、マヤの正眼の構えによって。
    身体の正面に真っ直ぐ剣を立てた、この姿勢こそは攻めに攻めで返す攻防一体の構え。
   少女は己れに向けられた「撃つ」意志に対し、同じく剣一本に込めた「攻め」の意志で押し
   返しているのだ。下手に退がったり、あるいは無様に刀を上げて頭をかばってしまう弱さ
   に逃れることなく。
    ふと、微風が動いた。大気がゆるんだ。士が木刀を下ろした。
    「耐えられましたな、その呼吸です」
    目尻の皺を深くして、老剣士は少女に声をかけた。
    彼女もまた、構えを解いた。「ふーーっ……」大きく息を吐く。
    「ありがとうございました」
    さっと腰を折り、鮮やかな身ごなしで低頭した。だが、いったん下がった頭はすぐまた
   上がった。
    「あの、ひとつお尋ねしたいことが」
    「どうぞ、何なりと」
    少女の言葉が終わらぬ先に老爺は促していた。彼は、マヤの問いの内容をすでに知って
   いるようであった。
    「今、先生とお手合わせをさせていただく間に気がついたのですが……先生は私が動く
    よりも先、右から出るか左から出るかを決心した時に、すでにそのことを見抜いてしま
    われているように感じました。でも私の方は、先生がいつ打って出てこられるのか、その
    進退をどうしてもつかむことができませんでした。
     いったい、何がどう違ってこうした差が生じるものなのでしょうか?」
    あくまで礼儀は正しく、だが思う疑問は真っ正直に彼女は問うた。老爺の、次いで士の
   口元までもがやわりと角を上げる。
    「よい眼をお持ちですな。ならば私も単刀直入に申し上げましょう。
     私は貴女の、身体よりも先に動く"気"を見ておるのです」
    「"気"を……ですか?」
    とび色の目がひときわ大きくなった。
    「それはどうやって? "気配"とはまた別のものなのですか?」
    唇から口早に問いが発せられた。内心の驚きを少しも隠さず、彼女は自分にわからぬ理
   を老剣士にぶつけて確かめようとする。その目の前で、士がゆるりと背すじを伸ばした。
    「そう、気配とは少々違うものでござるな。私がここで言う"気"とは心の之(ゆ)く所、
    すなわち人が何事かを為そうとする志(こころざし)やあるいは、やり遂げようとする
    精神の力を指すものにて。一般に言う『意志』や『意識』にほど近うござる。
     人の体は先ず内に気が動き、しかる後に応じて身体の各所が働きまする。ゆえに相手
    の気の之くところを察することができれば、自ずと次の動作もわかるとの道理でござる」
    「それでは、先ほどのお手合わせでは……」
    見開いた瞳の中に老爺と士の姿を半々に映し、マヤはさらに質した。彼女は今の説明で
   何事か気づきを得た様子である。
    「お察しの通り」
    口元に微笑を含み、老爺は答えた。
    「私が見るところ、マヤさんは気に情が添って先走る傾向にありますな。いや、しかし
    それは決して傷ではござらぬ。気の働きが盛んで常に前に出る性(しょう)をお持ちの
    方にはままある傾向なれば、むしろ良き剣士の素質を証し立てするものと言えましょう。
    貴女のそのご気性のありよう」
    そこでいったん言葉を切り、ウェイ老はふっと首を回してゼネスの方を見た。
    「そら、そちらで見守っておいでのお師匠どのとよう似ておらるる」
    言って、莞爾とした。
    『……』
    言葉が出なかった。ゼネスだけではない、マヤもまた。少女の頬がパァッとばかり真っ赤
   に染まる。何も正視できずに目を伏せ、恥ずかしさとも困惑ともつかないとまどいを露わ
   に見せる。
    ゼネスの顔も胸も、我にもなく熱くなった。
    『あいつが、俺に似ている――』
    信じられない。つい昨日、マヤ自身の口から『あなたとは違う』と告げられたばかりで
   あるのに。その言葉を、自分は納得せざるをえなかったというのに。
    ただし、彼の内には一点ズンと冷えて沈む感触もまたあった。
    『見抜かれていたのか……』
    ウェイ老は彼と弟子が"似ている"と言った。それも戦いの場において「気が先走る」――
   すなわち意志や意識が前に出過ぎる気性が似ている、と。ならば昨日の対戦でも、老剣士
   は騎士の「突き」の気配をゼネスの表に出た気の動きから読み取っていたことになるでは
   ないか。
    『それだ、ひとつは』
    ひらめいた。いや、射抜かれた。熱く突き通ったのはしかし剣士の言葉ではない、ゼネス
   自身の自覚だ。
    『俺に足りないもの――』
    「気」とは彼の場合「戦いへの希求」だろう。「先走る」と言えば聞こえはいいが、要は
   戦いを求めて激し、猛る心を抑えることができないということだ。さらにはそうした己れ
   の状態を認識してもいない。達者はそこを見透かすのである、これでは勝てる道理がない。
    その間にも、皺を刻んだ顔は向き直って再び少女の面の上に戻っていた。
    「気の働きが盛んであることそのものは、剣の上達に欠かせぬ条件の一つ。なにしろ、
    気が小さく不活発であれば人は剣を取ることはおろか、進退を決することさえままなり
    ませぬゆえ。
     その点人並み以上に気が活発な剣士であれば、己れより気の劣る相手に対してはあえて
    強い気を放ち、気をぶつけて戦意をくじくことで剣を交えずして勝つことさえでき申す」
    枯れてはいるが、はっきりと太やかな声であった。彼は少女の紅潮をなだめる如く諄々
   と説く。
    「とはいえ、己れと同等以上の相手との真剣勝負においては、気から動きを悟られること
    は極力避けねばなりませぬ」
    「わかります、おっしゃること」
    ようやく口を開き、マヤが言葉をはさんだ。頬の赤味は薄れ、やや落ち着きを取り戻し
    つつある。
    「自分が戦いの場で気が前に出過ぎていた――だなんて、思ってもいないことでした。
    すごく恥ずかしい……」
    「なんの」
    老爺はほほ笑んだ。
    「貴女は『その先』を目指すお気持ちが強いのです。それがための気の先走り、決して
    恥ずべきことではござらぬ」
    目を細め、温かなまなざしをもって託された者を見る。
    「でも先生はあんなに強い、鋭い気をお持ちなのに、ご自身であえて表に出されるまで
    は私にはほとんどつかめませんでした。ただ、うんと充実した力が目の前にある、そう
    いうことが何とか計れただけで」
    マヤの声にも、今は本来の芯が込められていた。「先」を目指すというその心が。彼女は
   すっくりと顔を上げた。
    「お尋ねします。私が先生のような立会いをするために、これから心掛けねばならない
    ことは何でしょうか」
    問い掛ける。少女は今度は「問い」によって打ち込んでいるのだった、老剣士の技の真髄
   を引き出すために。
    「勉強熱心な方ですな」
    ウェイ老の頬がまたゆるんだ。が、彼の唇の端はすぐに引き締められた。
    「察しのよい貴女のことだ、大事は真っ直ぐと申し上げましょう。
     ならば、気と剣と体の一致を心掛けなされ」
    短く、きっぱりと告げた。とび色の瞳が見開かれた。ゼネスの眼も、ウェイ老の顔の上に
   釘付けされた。
    「『気』は精神、『体』は身体、そして『剣』とは相手を見定めた上での打突。気を総身
    に充実させ、気が動くと同時に身体を働かせて己れを剣と為す。この三才の一致に至れ
    ば、気の動きを悟られぬまま瞬時に、ひと息に進退を行うことが可となりましょう。
     『気』が先に立てば達者はそれを見抜き、しかして『気』の入らぬ動作は有効とはなり
    得ませぬ。ゆえに『気』は先ず体内に巡らせるを旨とし、動作は気の充実した全身を一
    斉に働かせて行いまする。
     しかし、私が言葉にてご説明できるのはここまでにて。剣の道に『気・剣・体の一致』
    という目標は一つなれど、それへ近づくための方法は各人の個性によりさまざまに分か
    たれ申す。されば、マヤさんはマヤさんなりのやり方を編み出されて三才の一致を目指
    されるのがよろしいでしょう」
    さらさらと爽やかな弁舌であった。老いた剣士の淀みない精神が、そのままに言葉の形
   を取っていた。
    ――「気を総身に充実させ」――
    耳の奥で、強く響く一節がある。知っている、俺は知っている……ゼネスの肌膚(はだえ)
   がざわめき騒ぐ、真新しい感覚の記憶を手繰り寄せる。
    『昨日の、士の構え』
    呼び出された記憶はすぐに鮮やかな像を結んだ。騎士で対した彼の前で、ウェイ老の士
   が見せた構えの不思議な印象。
    『動きの中心が見えない、と思った、あの時は。だが中心なぞ無かったのだ、始めから』
    大きく包み込んでくるような、とも感じた。その通り、士は全身で対応していたのだ。
   鋭く突っ込んで来ようとする飛礫(つぶて)=ゼネスを、気を充実させた身体という網で
   からめ捕るために。
    『そうだ、そうだったのか』
    さっと目の前が明るくなった。「ざざざざ……・」風が吹き抜け、頭上の梢がなびいて
   陽光が射し込んでいた。
    いや、それだけではなかった。熱かった。彼の胸の内が熱くなっていた、たった今生じた
   輝かしい光によって。
    「ご指導、ありがとうございます」
    弟子の声が耳に入ってきた。溌剌と弾む声が。彼は眼を上げて少女を見た。
    「気と剣と体の一致――確かに、うかがってみればその通りですね。何しろ先生の剣が
    そのものです。
     それで、あの……私、もう少し、もうしばらくの間お傍で勉強をさせていただきたいん
    ですけど……先生のこと、見させてください、もっと」
    言って、パッと振り向いた。彼女はカードの師の方を見た。
    「ゼネス」
    『お願い、許して』マヤの顔はそう告げている。
    「異存はない」
    即座に応じた。
    「お前の剣の指導についてはウェイ老に一任してある。師のお許しさえあれば、俺には
    否やはない」
    返答し、彼は老爺を見返した。皺だらけの面は例によってほんのりと上気し、少しはに
   かんでいる様子である。だが、同時に晴れやかな喜色もまたうっすらと漏れ出してあること
   を、ゼネスは目ざとく認めていた。
    老剣士はぐっと背すじを伸ばした。
    「それが貴君らのお望みとあらば、どうぞお好きなだけ留まられてこの老体をいかよう
    にもお使いくだされ。私にとりましても、この交流は得難い修行の機会でありますれば」
    嬉しくもまぶしげに、かの人は木漏れ日の下目を細くしてしばたたかせた。

続きを読む
「読み物の部屋」に戻る