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       第11話 「 師とその弟子 (中編) 」 (2)


    ガサ、ガサ、ザザ……
    その時だった、稽古場の下側の藪あたりより落ち葉と下草を踏みしだく音が上がってきた。
   それは通常の人の足音よりずっと微かであった。が、ゼネスの耳は敏感に聞きつけた。何者
   かが此方に着々と近づきつつある。
    『誰だ?』
    二、三歩ばかり出て首を伸べ、棚地から見下ろした。すると、木々の間に黙々と動く影
   がある。
    「一人か……」
    覚えず、つぶやいた。師の挙動を見て取って、弟子の少女もやってきて同じ方向を眺める。
   しかしウェイ老は動かなかった。老爺はこの足音についてはとうに了承済みのようで、人
   待ち顔に待ちもうけている。
    やがて、その者は山道を登り切り稽古場に姿を現した。「杖」を手にした少年だった。
    「お早う、チェンフ」
    棚地に足を踏み出した"彼"に、すかさずウェイ老から声がかかった。と、ポツリポツリ
   二キビの出た顔が無言の会釈を返す。
    そして、そのまま驚く様子なくゼネスとマヤにもひと刷け目線を走らせ、軽く目礼した。
   (どうやら、昨日来た子どもたちの口を通じて旅の師弟がウェイ老の元に居る――という
   情報はすでに村中に知れ渡っているもようである)
    ゼネスはこの歳若い闖入者を観察した。かれは中背の、ずんぐりした体型であった。日
   に焼けた顔、太い眉毛、猪のように太く短い首にがっしりと張り出しつつある肩と腰――
   どこからどう見ても日々農事に励む家の者である。歳は16、7ほどか。
    昨日畑仕事の手伝いに来た子らの中に、彼の姿は無かった。それでも、この少年もまた
   ウェイ老の手習いの生徒であろう。そうと見て取った。
    老爺が少年にさらに言葉を掛けた。
    「チェンフよ、そろそろお主が来てくれる頃と待っておった」
    そうしてからゼネスの顔をうかがい見る。
    「お客人、彼はこの村の子弟にて名を『チェンフ』と申す者。私からは読み書きの他、
    ご覧の通り杖(じょう)術も習うております。言わば、私の弟子でございますな」
    「なるほど」
    ゆったりと落ち着いて、あくまで余裕ある口調を心掛けながらゼネスも応じた。
    「今ここで、そのお弟子が上がってくる様子をずっと眺めさせてもらった。若い割には
    体の使い方も足の運びもなかなか堂に入ったものだ、さすがは貴兄が手ほどきを受けた
    者だけのことはある。――おい、少年よ」
    彼はぐいと首を曲げ、「チェンフ」と呼ばれた少年の顔を正面から捉えた。
    「俺の名はゼネス、そしてこの横の者は弟子のマヤ、いずれもウェイ師と同じくカード
    術師の修行に明け暮れる身だ。此処には師の優れた士の操作を学ぶため、しばし留まら
    せてもらうことになった。そこで――」
    相手の目、茶がかった黒い目をのぞき込んで彼は挑むように笑んだ。
    「できれば、師の弟子である君(※注1)の杖術も見せてもらいたいのだが」
    ズバリと言った。少年の面にサッと血が上った。
    『若さの割には体の使い方が上手い』とは世辞でも何でもない。(というか、ゼネスはもと
   から世辞など口にする男ではない)山道を登ってきた少年の足取り、身ごなしを見て得た
   正直な感想だ。『できるヤツだ』と思ったから腕前を見たくなった。いや、戦いたくなった。
   彼にとってはまことに自然な感情の流れである。
    「おお、これはありがたいお申し出」
    果たして、ウェイ老の目元も細められた。
    「他流との立ち合いは、己れを見極める上でひときわの力となる経験でござる。チェンフ
    よ、実は私の方こそこのゼネス殿にはお主との手合わせをお願いしたいと思うておった。
    さあ、ありがたくお受けして存分に立ち合いをなされよ」
    促されて、しかし少年はすぐには足を踏み出せずに突っ立っていた。額も頬も、顔中を
   紅潮させ、息を弾ませている。
    ずいぶんな緊張ぶりだな……と、ゼネスは苦笑いしたくなった。だが考えてみれば、この
   ような山奥の村に住み暮らす彼にとり、常日頃の手合わせの相手と言えば師匠のウェイ老
   やその手ほどきを受けた村人(他にもいれば、だが)、つまりは知人ばかりのはず。生ま
   れて初めて見知らぬ他人と勝負の立ち合いをする――のであれば、これは緊張をしてしまう
   のが理の当然というものだろう。
    『ならば、少しハッパをかけてやるか』
    たくらみを胸に、彼は再度笑顔を作った。ただし片頬だけをゆがめた、やや意地の悪い
   ような笑顔を。
    「とは言え、もしも俺のことが"恐い"のならばムリにとは言わんぞ」
    「やります!」
    すぐさま返事は返ってきた。少年は初めて声を発した。もちろん、少しく気負いの入っ
   た声であった。さらに彼の顔にも、ついさっきまでとはまた別の種類の赤味が差している。
    ツカツカ……と、そのまま稽古場に進み出た。入れ替わって、ウェイ老とマヤはさりげ
   なく場から外に出てゼネスの脇に並んで立つ。
    「ゼネス殿、どうぞこれを」
    士が差し出した木刀を受け取り、ゼネスもまた円の中心に進んだ。杖と木刀、各々別の
   得物を手にした少年と男とが対峙する。
    「お願いします!」
    きちんと一度頭を下げ、その直後少年の身体は構えに入った。杖の中ほどを間隔を十分
   に開けて両の手で握り込み、先端を右側下段の位置に決める。地の上に足裏をピタリ吸い
   付け、体はやや斜(はす)に腰を入れて微動だにしない。「決まって」いる。よく鍛錬され、
   すでに身に沁みきったと思しい姿勢だ。
    『ほう、やるな』
    ぐいぐい、少年の目から鋭い視線が押してくる。ゼネスの身中に怫然と悦びが湧いた。
   この手応えの確かさ、こいつは本物だ、と口角がまた上がる。彼も木刀を持ち上げ中段に
   構えた。
    「得物は木だが心意気は真剣勝負でやる。行くぞ」
    相手に隙はない。しかしそれはゼネスにとり打ち込みを控える理由にはならない。
    ――「だあっ!」
    一気に出た、真っ直ぐに打ち込んだ。瞬間、少年が反転しかわされた、速い。かわしざま
   下から杖が出る――と見せかけて「シュッ……!」飛んで来た、顔に。
    『うっっ!!』
    不意を突かれ、首を振りざま後方に跳び退がった。いったん体勢を立て直す。
    「飛んで」来たのは杖の先端だった。少年は杖を槍のようにしごいて手元から素早く繰り
   出したのだ。
    『これが杖術か』
    全体の大半が刃である刀とは違い、杖は端から端までを素手で持って扱う。それゆえ、
   刀の動きと槍の動き、二通りの攻撃が可能であるのだ。実はゼネス、杖と対するのは初で
   あった。それでも、この相手の間合いは勝手が違うと一瞬で理解した。
    「面白い、気に入ったぞ」
    また笑った。くつくつと肚から嬉しさが込み上げる。手強い相手だ、しかし何よりその
   手強さに掻き立てられる、刹那の燃焼を目指すために。この凝縮、この濃密、これぞ戦い
   の愉悦。
    ツッ――と前に出た。いや出ようとした、その動きの出かかりに「飛来」した、再び。
   反射的に払い、さらに足を踏み出す――はずが、木刀は空を切った。杖が切り返すように
   反転し、その勢いに乗ってゼネスの踏み出した大腿を襲う。
    『こいつ!』
    すでに動き出した、避ける余裕はない。そして先に払いをかけた腕はまだ肘が伸びている、
   これを戻して今一度払う時間もない。だが『やらせるか!』脳中に火花が走った、闘志が
   弾けた。踏み出した脚にそのまま全体重をかけ、彼はとっさに肩から突進しぶち当たった。
    「あっ!」
    少年はまともに食らい、二人は共にバランスを失して地の上に転がった。
    その次の瞬間、先に飛び起きたのはゼネスだった。彼は倒れるにもあらかじめ用意して
   受け身の姿勢をとっていたのだ。しかし少年の方はまともにあお向けに倒れてしまった。
   完全に想定外の攻撃を食ったのだ、それで起き上がるにも後手となった。気がついた時に
   はすでに、得物の杖はゼネスの手でガッチリと押さえつけられている。
    「ハッハッハ……勝負ありましたな」
    林間に晴れやかな笑い声が響いた。
    「チェンフ、これが他流試合の厳しさというもの、しかと憶えておきなされ。
     そしてゼネス殿、遠慮のうようご教示下さった、弟子に代わりまして礼を申し上げ
    まする」
    言って、白髪の頭を下げた。ゼネスも(立ち上がって手で服を払いながら)ニッとばかり
   笑う。
    しかし、
    「こんなん……"あり"なんですか?」
    やっと立ち上がった少年はなおも当惑の中にいるのだった。『メチャクチャだ』と顔に
   大書してある。
    『ふうむ、あのユウリィとはだいぶ違った反応だな……』
    かつて同じように対峙した娘とではずい分と受け取り方が異なる。これは戦いが日常に
   結びついていた村とそうではない村との、環境の違いから来る温度差であろうか。ゼネス
   は苦笑いをこらえて(これ以上少年の不興を買いたくはない)呼びかけた。
    「おい、少年。命のやり取りをするような場では、生き残ったヤツが勝ったヤツだ。
    きれいなお行儀のいい手しか知らんようでは実戦で使い物にならんぞ。
     戦いは生きるか死ぬかだ、遊びじゃない。己れの全知と全能を駆使してあらゆる手段
    を考え抜き、最善手に賭ける。それが本当に強い奴の振る舞いというものだろうが」
    パチパチパチパチ……
    突然、奥の清水の方角から拍手の音が鳴り渡った。次いで「サク、サク、サク」と枯葉や
   下草を踏む音も。
    「おじさん、いいこと言うじゃん! よく聞いときなチェンフ、あたしだって前から言っ
    てるじゃないか、あんたの杖術はジョードー剣法ってやつだってね!」
    明るく澄んだ、生きのいい声だった。立ち並ぶ木々の幹の間を縫い、少年とは反対に山
   の方からその声の主は姿を現した。
    見れば、少女である。歳はマヤよりいく分か幼いだろう、男子のようにズボンを穿き、
   全体に枯葉色を基調にした地味な服を着ている。だが、髪はつやのある赤毛で背中に届く
   ほど長く、紫色の布で一つに束ねられていた。
    しかし彼女について最も特筆すべきは、発散されるその印象だろう。
    少女の深い茶の瞳は髪と同じく赤味を帯び、実に生き生きと輝いていた。ゼネスに、さ
   らにマヤの上にと興味しんしんの視線を走らせる、二人へのあふれる好奇心を隠そうとも
   しない。素晴らしく軽やかな足取りで、ほとんど跳ねるようにして近づいて来る。
    彼女を見て、ゼネスはつい若い「山猫」を思い浮かべていた。きらきらと光る眼、敏捷な
   身ごなしにどこか開けっぴろげな大胆さ。それらは全て、若く自信と好奇心に満ちた山猫の
   印象そのままである。
    「おお、ジャクチェ」
    ウェイ老が破顔し、娘に声をかけた。
    「遠出から戻って来たのだね。それと"ジョードー"ではない、"道場"でござるぞ」
    やんわりと間違いを指摘する。しかし、
    「ン? そだっけか? あ、そうとも言うな、先生!」
    山猫娘は悪びれもせず、ケロリとしたものだ。そして、
    「こっちには昨日の夜に帰って来たんだ。でもお父は何だか例の用事があるとかでまだ
    顔出せない、先生によろしくって言ってたよ。だからあたし、またしばらく先生とこで
    世話ンなるね。ほい、土産」
    にゅっと腕を突き出した。そこにはウサギとキジとがぶら下げられていた。
    老爺はニッコリとして受け取り、次いでゼネスに振り向いた。
    「ゼネス殿、この娘はジャクチェと申してチェンフと同じく私の手習いの生徒にござる。
    彼女は"山の民"の一員でございましてな、この辺りの山に関しては葉の一枚を見ても、
    どの山のどの辺りの産かを言い当てられるほどに詳しうござるよ」
    山の民――とは、山間を移動しながら生活する一群の人々のことを指す。彼らは獣や鳥
   を狩ったり魚を漁るなど狩猟の技に長け、また山野草の知識も豊富で薬になる草木の採取
   やつる等を加工した細工も手がける。
    幼い頃より山野を渡り歩き、山の全てを知り尽くすと言われる"山の民"。この山猫娘の
   身ごなしの機敏さも、出自を思えば十二分にうなずける。
    「ジャクチェ」
    次いで、ウェイ老は娘に呼びかけた。
    「こちらにおいでの御仁はゼネス殿、カード術師でござる。お主もさきほど見ておった
    ように、技と胆力の双方を兼ね備えられた勇士なれば、ご無礼なきように心得なされよ。
    それと――」
    さらに頭を回し、軽く手を上げてマヤを指した。
    「そちらの方はゼネス殿のお弟子、マヤ殿でござる。お二方とも、しばらくこちらに留
    まりなされて剣の修行をなさりたいとのご意向じゃ」
    「わ〜〜い!」
    とたんに山の娘はピョンとひと跳ね、ふた跳ねして男装の少女の手を取った。
    「やっぱり女の子だったんだ、あんたって。うん、確かにこうやって近くまで来ればいい
    匂いするもんね。
     あのさ、ここんとこあたしらの間じゃあんた方の話で持ち切りだったんだよ。左に竜
    の眼を嵌めた術者と、男か女か今いち分かんない子と、珍しい二人連れが山ん中に
    いる――ってね」
    取った手を二度、三度と振りながら意外なことを話す。マヤの目が丸くなった。
    「え? ちょっとそれ……私たちのことずっと知ってたって意味なの?」
    初対面のあいさつも忘れ、聞き返す。
    「ン? だってさ」
    問われて、山猫娘はなにやら得意げに鼻をうごめかせた。
    「あたしら(山の民)は自分たちの縄張り内のことは何だって知ってんだよ、どこの山や
    林でどんな旅人がうろついてるかもね。あたしらの目を潜り抜けられるヤツなんてそう
    はいない。だって熊や猪に比べたら、人なんて気配を隠すのがずうっと下手っぴなんだもん!」
    自信たっぷりに言い放ち、カラカラと笑う。マヤもゼネスも呆気にとられた。
    「ハハハハ……確かにこの娘の言う通りでござる」
    あからさまに驚く師弟を目にして、老爺も呵々と笑った。
    「何を隠そう、我らが心安く田畑の手入れに励んでおられるのも、ジャクチェたち山の
    民が村の周囲の山中の動静に目を光らせていてくれるからこそ。不審な者や不穏な動き
    は先ず彼らが察知し、追って怪しからぬと判断すれば武士団が駐屯するいっとう近い街、
    リーシェンにつなぎをつけてくれるのでござる」
    なるほど――とゼネスも話を聞いて深く合点した。この離れ小島のような山間の村が、
   にもかかわらず山の上にまで田畑を開墾できた背景には、山の民たちの固い守りがあった
   のだ(なにしろこれだけ山や谷が深く入り組むと、手馴れた賊でも多数の馬を繰り出して
   作物の収穫を一気に奪う、などということは難しい。そもそも山中を移動する間に、容易
   すく山の民に見つかってしまう)
    農事を中心に営む民と狩猟・採集を専門に行う民、二通りの生活が一つに手を組むこと
   で、この美しい田園風景は育まれてきたのである(また、農民たちは山の民に米や酒を
   提供して守り役の返礼としているのだろう)。
    「何と、俺たちがここに来るまでの道中をずっと見張られていたとはな。全く少しも気
    がつかなかった、これは素直に兜を脱ぐしかあるまい、恐れ入った」
    竜眼を持つゼネスの感覚をさえ出し抜くとは、さすがに猟を生業とする者らの隠身の術
   は鍛え方が違う。覚えずアゴを手でひねりながら舌を巻いた。その彼の前に、山猫娘が
   また「ぴょん」と跳んで出た。そうして爪先だって顔を上げ、
    「すごぉい……」
    まいまじと左の赤い眼を見つめる。
    「なあ、おじさん、その竜の眼はいったいどこで手に入れたんだい? いいなぁ、欲しい
    なぁ、あたしも。あたしも片っぽの眼は竜の眼に取っ替えっこしたいよ」
    「……ジャクチェ!」
    ビシッと強い声が飛んだ。娘が登場してからはずっと黙っていた少年、チェンフだった。
    「お前の二つの目玉は親からもらったものだ。それを勝手に"取り替えたい"とは何だ、
    この不孝者め!」
    「ふ〜〜んだ!」
    娘もパッと振り返るなりまくしたてた。
    「なにさ、チェンフこそ山で暮らす大変さなんてぜ〜んぜんわかっちゃいないクセに。
    竜の眼があればね、山ン中に一人でいる時に狼や虎や熊に遭ったって遠慮なんかしな
    くって済むんだぞ。もしあたしが竜の眼を嵌めて帰ったら、お父は『でかした!』って
    言ってそりゃ褒めてくれるよ!」
    「こいつ!」
    減らず口を叩かれ、少年の面にまたまた朱が注がれた。さすがに杖を振り上げるような
   マネはしない(そこはウェイ老の教え子だ)ものの、鼻をふくらませて娘の顔をにらみつけ
   ている。また娘の方でも、薄い肩を精いっぱいそびやかして相手をにらみ返していた。
    一触即発である。二人とももはや客の存在などは眼中にない。
    「まあまあ、チェンフもジャクチェもそうカッカとせずに落ち着きなされ。お客人が呆
    れてござるぞよ」
    ついに老爺が割って入った。客が呆れている、そう指摘されてようやく両人ともに目を
   逸らせ、気まずげな顔つきとなる。
    「チェンフよ、ジャクチェが言うように竜の眼はお宝のひとつ。人の体力と魔力を高め、
    さらにあまたの禽獣を従える働きも持っておる。されば、猟を生業とする者にとっては
    垂涎の品と言うてよろしかろう、その点はわかってやりなされ」
    「それは……オレもわかりますが……」
    足元の地面に目を落とし、少年は小さな声で返事した。
    「でも、もし竜の眼が欲しくなるほど山の暮らしが大変だって言うなら……村に住めば
    いいんだ、いっそ」
    やはり目を上げないままにつぶやく。しかし、
    「へ〜ん、大きなお世話だよ!」
    その言葉はまたしても娘の憎まれ口を引き出してしまった。
    「あたしは山ン中の暮らしが好きなんだ、"実戦向き"ってヤツさ、お行儀のいいジョードー
    剣法のチェンフさんとは違うんだよ。
     村に住めだって? あたしに毎日トロトロ畑耕したりブチブチ草むしったりしろっての?
    冗談でしょ? ンなことまっぴらご免こうむるよ!」
    威勢良く一気に言い放つ。少年の額がいっそう赤くなり――そして黙り込んだ、何がしか
   微妙な悲しみの色を帯びて
    「だからそれを言うなら"ジョードー"ではない、"道場"でござるよ、ジャクチェ」
    またウェイ老が間に入った。そよ風のように動いて二人を分かち、やんわりと娘をたし
   なめる。山猫も師には勝てぬらしく、照れ隠しに首をすくめた。
    こうして弟子二人のいさかいを納め、賢明なる師匠は場にいる皆を見回した。
    「さあ、ひと通り動いて腹も減り申した。そろそろ飯時でござろう」
    パン、パンと二つ手を打って、朝稽古の終わりを告げたのだった。



    ※註1)ゼネスはここで、ウェイ老人に対する敬意からその弟子であるチェンフ少年に対しても
         いつもの「貴様」や「お前」ではなく、あえて「君」という代名詞を用いている。彼の使用する
         代名詞として、これは大変レアなケースである。

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