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       第11話 「 師とその弟子 (中編) 」 (3)


    「プツ、プツ、ピチピチ、プツプチ……」
    厚手の土鍋から、何かが爆(は)ぜるような音が聞こえてくるようになった。ついさっき
   までは「グツグツグツ……」と煮える音をたてて盛んに蒸気を吹き上げていたのが、今は
   もっと乾いた音に変わっている。
    「いい匂いしてきたね」
    土鍋の傍で鼻をうごめかし、たまらないという様子でマヤが言う。確かに、甘さと香ば
   しさがない混ぜになった匂い――熱加工された穀物の発する香りがかまどが据えられた土間
   いっぱいに広がっている。
    「その音がしだしたらね、鍋のフタぁ開けて飯の上に水を打つんだよ。ほれ、見てな」
    マヤと並んで鍋を見ていたジャクチェが土鍋のフタに手を伸ばし、開けた。「パアッ」と
   白い湯気が湧く。そしていっそうの甘く熱い匂いが。
    「わぁ」
    湯気を胸いっぱいに吸う少女。
    「さあ、打つよ」
    娘は土鍋の上に水を入れた手桶を持ち上げた。そしてプツプツ、蒸気の穴が見える中身
   目掛けてひと息に水を差した。
    「ピチピチピチッ……」
    爆ぜる音が高くなった。娘はすぐに鍋のフタを閉め、じっと聞き耳をたてる。しばらく
   して、音が小さくなった頃を見計らい火から下ろした。フタは取らない、そのまま余熱で
   蒸らしておく。
    こうして飯が蒸れるのを待つ間にも、娘は手早く働いた。軽く塩もみしておいた間引き
   大根の水気を切り、刻んだ香草をまぶす。かと思えば干した川魚をかまどの火で軽く炙る。
   『山猫にしては良い手際だ』などとゼネスが感心する間にも、さっさと四人分の朝餉の支度
   は整ってしまった。ウェイ老も囲炉裏の火に掛けた鍋で、豆腐と芋の汁を作っている。
    「飯もそろそろいい頃だ、マヤ、ちょっとフタ取ってみな」
    年下の娘のざっくばらんな口調も、マヤにはかえって嬉しい様子だ。彼女は重いフタを
   そうっと取って開けた。
    「あ、いい感じ。おいしそう」
    ゼネスものぞき込んだ。もうもうと上がる湯気の中、淡い茶色の飯がほこほこと盛り上
   がっている。
    「これが炊きたての玄米飯さ。どうだい、白い飯と比べて……匂いとか違うかい?」
    ジャクチェが再び鍋の横にやってきた。少々心配そうにして遠来の少女に訊ねる。
    ――実は、この村に来るまでマヤは米と言えば白米しか知らなかったのだった。
    朝稽古を終え、老爺と師弟とジャクチェの四人(チェンフは自宅に帰った)が小屋に戻り、
   老爺とジャクチェが飯の支度を始めたのを見てマヤが首を傾げた。
    「このお米……茶色い。白いお米とは違うの?」
    なるほど、丈夫な麻袋から計り出された米粒は半透明の薄茶色をしている。少女の疑念
   はしかし、山猫娘にも別の疑念となって跳ね返った。
    「白い米じゃないって……あんた、白米しか知らんの? 玄米見るの初めてなん?」
    『しまった……』とゼネスも気がついた。マヤは格式ある遊里に育った少女だ。生活の
   環境そのものは上流であったはずで、米と言えば白米しか見知らぬのも無理はない。
    果たして、
    「マヤさん、この茶色の粒は"玄米"と申しましてな、収穫した籾(もみ)から一番外側
    の殻を剥いただけの品にござる。白米はこやつをさらに薄く削ってやって白う仕上げた
    ものにて」
    「だけど白い米っつったらさ、仕上げんのに手間ァかかっから祭りかお祝い事の時でも
    なきゃぁ、あたしらの口には入んないよ」
    老爺と娘がこもごも説明する。ゼネスはハラハラした、マヤは顔中を赤く染めている。
   これは羞恥の赤だ、己れの出自を気取られたくない思いでいっぱいであるに違いない。
    「すいません、もの知らずで……。前に国で何度か食べた時には、珍しい外国の食べ物
    だってことしか聞いてなくて……」
    身をすくめ小さな声で言う。その彼女に助け舟を出してくれたのはウェイ老であった。
    「いやいや、異国の方であればむしろ、下々の用の物よりも上つ方向けの品にお詳しい
    事情はありましょう。そう恐縮なさらず、まずは玄米を召し上がってごらんなされ。
    これはこれでなかなかにうまいものでござれば」
    やさしく取りなしてくれる。それを聞いてジャクチェも表情を和らげた。
    「ごめんごめん、そだね、先生の言う通り、わざわざ外国まで持ってって売るなら高く
    売れる白米にするよね、普通。
     じゃあさ、あたしがこれから玄米の炊き方をマヤに教えてあげるよ。白い飯に負けな
    いぐらいにうまい、玄米飯の炊き方をね!」
    ――そんなやりとりを経ての、今回の朝餉の支度だったのである。
    「匂いはね……」
    白い湯気を大きく吸い込み、少女は目を閉じた。ゆっくり、鼻喉で匂いを味わっている。
   やがて、
    「うん、玄米のご飯の方が香ばしい感じかな」
    はっきりと目を開けて答えた。
    「とってもおいしそう、早く食べてみたい!」
    山猫娘もうなずき、ずいぶんと嬉しそうな顔になる。
    「だったら良かった! じゃあ早いとこお膳を出しちまおうか」
    そう言うと、他人の家ながら勝手は知り尽くした風情で狭い部屋の中をくるくると行き
   来した。あっと言う間に囲炉裏の周囲には四人分の四角い木の箱(膳)が並び、その上に
   食器と箸も整えられた。


    「ごちそうさまでした」
    「ごっそさん、ああうまかった」
    飯を食べ終え、少女二人は膳の上に箸を置いた。ウェイ老はひと足早く食べ終え、空に
   なった茶碗に囲炉裏にかけた鉄瓶から白湯を注いでゆっくりと飲んでいる。ジャクチェも
   老爺と同じように鉄瓶を取り、マヤと自分の茶碗に湯を注いだ。
    「残さずきれいに食べてくれたな、玄米飯はうまかったか?」
    食事中はずっと静かに、食べることにだけ使っていた口から言葉が出た。相変わらずに
   ざっくばらんな口ぶりだ、マヤも笑みを返した。
    「ありがと。玄米って白いお米と違って噛みごたえがしっかりあるんだね、でもそれが
    おいしかった。自然とよく噛むようにもなるし、お腹いっぱいになった感じ。
     それと、こっちの大きいお椀のお豆腐とお芋のお汁もおいしかった。ウェイさん、
    どうもごちそうさまでした」
    汁を作った老爺も、若い客人の満足を見て顔をほころばせた。
    ――が、三人の会話をよそにゼネスは未だ食事の半ばなのであった。目下のところ
   悪戦苦闘中である。
    とにかく、「箸」というこの二本の棒状の食用器具が上手く使えない。ウェイ老たちの
   手元を見るに、本来は二本を片手の指の間にはさみ持ち、飯粒や惣菜をつまんだり
   すくい取ったりして口まで運ぶ――ようである。
    のであるが、この作業が彼にとっては極めて難しいものだった。
    見よう見真似で箸を手に取り、指にはさんではみたものの、上手く使いこなすコツが
   まるでつかめない。おかげで食べるスピードが全くはかどらないのだった。特にマヤが
   「おいしい」と評した汁の芋などはいやにツルツルとぬめりに富み、こんな代物はとても
   ではないが永久につまみ上げることなど不可能と思われる。
    「ゼネス……」
    白湯を飲み終わったマヤがそっと顔を寄せ、耳打ちした。
    「お箸使うのそんなに苦手だったの? 良かったら私が食べさせてあげるけど」
    (ちなみに彼女の箸使いは美しかった。大方、遊里時代に主要諸国の食事マナーはひと
   通り厳しく仕込まれたのだろう)
    「余計なお世話だ、黙ってろ」
    大の男が口を開けて弟子の少女に食べさせてもらう? どんでもない!
    ウェイ老の手前小声で、しかし不興の意は露わにして返答した。熱い、あまりの恥ずか
   しさに顔ばかりか耳までもが熱くなる。
    「ゼネス殿」
    その耳に囲炉裏の向かいから老爺の声が届いた。
    「飯は落ち着いて食したほうが腹持ちがようござる、どうぞごゆっくりとお召しあがり
    くだされ」
    かの人は気を使ってくれたのであろうが……ゼネスはますますつのる羞恥にひとり身を
   揉んだ。


    そうこうするうち、ゼネスの食事もなんとか終盤を迎えた頃、
    「ねぇ、先生」
    ジャクチェが、先に食べ終えた三名の食器と膳の片付けを済ませて囲炉裏の傍に戻って
   きた。
    「お父ったらあたしには何にも教えてくんないんだけど、やっぱ天子さまのお山参りが
    お済みになるまではあっちに行ったきりなのかな」
    やや寂しそうな様子で問うともなく言う。もしかして、彼女は父一人娘一人の境遇なの
   だろうか――と、ふと思った。
    「ふむ、お主の父はこの一帯を根城とする山の民を束ねる男、つまりは山の事情に最も
    通じた者でござる。されば、都を離れ数日をお山にてお過ごしなされる天子さまのご身
    辺警護のため、お上からのお声がかりがあったとしても不思議ではあるまい」
    淡々として老爺は答えた。話題とは関係もなくその両手は藁を揉み、縄を生み出す。
    「"天子さま"って、それはタイハン国の皇帝さまのことですか?」
    師弟の会話に口をはさんだ者がいた。マヤだ。
    「それと……すいません、"お山参り"っていうのもよくわからないんですけど……」
    なにやら遠慮をしいしい問うている。いつもの好奇心丸出しとはいささか違うな、と
   ゼネスはいぶかしんだ。
    「おお、確かに説明不足にございましたな」
    縄をなう手を止め、ウェイ老は少女に向き直った。
    「マヤさんがお察しの通り、"天子さま"とはこのタイハン国皇帝陛下のこと。我ら下々
    は一般に『天子さま』とお呼びしておりまする。
     実はこのタイハンでは先年、先帝さまが崩御され申した。五十有余年という長きに渡
    って帝位に就かれ、西征・北征を行のうて国土を拡充なされた御方でござる。それから
    一年の喪が明けたこの春、今上の皇帝陛下がご即位を果たされ申した。
     陛下のご職務は政治向きのみならず、天下鎮護の祭事もございましてな。中でも即位
    された後に国の霊場であるシェン山の頂きに登られ、天地を祭る『封禅(ほうぜん)』の
    儀式は最も重いお役目にござる。『お山参り』とはこの封禅を庶人風に言いなしたもので
    ありますよ。
     シェン山とは、昨日お二人に都の方角をお教えした折に示しました、ひと際高い三角
    のお山。山頂の雪もようよう少のうなったこの時期、即位された新帝さまがいよいよ
    封禅の儀を執り行われるご予定でござる」
    「それは、あの……もうすぐのことなんでしょうか?」
    またマヤが訊いた、先ほどと変わりない遠慮がちな面持ちで。答えたのは、対照的に
    ハキハキと元気の良い声だった。
    「うん、あともう二十日ぐらいのうちには天子さまがお出でになって、お山参りを
    されるんじゃないかな。
     お父が言うにはね、お山参りがある時にはシェンのお山の上に広〜く雲がかかって、
    しかもその雲の中には青い鱗の竜神さまがお降りなさるんだってさ、すごいだろ」
    『青い鱗の竜神――それはもしや「神竜」のカードか』
    ゼネスの耳がピクリ動いた。空になった椀を膳の上に置き、想像をめぐらせる。皇帝の
   祭事に現われ、青い鱗をきらめかせて雲に乗る「竜」。それはカードによって招来される
   クリーチャーのひとつ、「神竜」と見て間違いない。
    『神竜か……あれは遣い手と環境によっては魔王をもしのぐ力を発揮するクリーチャーで
    あったな。なるほど、それを皇帝の警護と権威づけを兼ねて重要な祭事に遣ってみせる
    というわけか』
    (もちろん、実際にカードを使うのは随行する高位のセプターなのだろうが)
    密かに得心する。しかしその目の前で急に山猫娘が真顔になった。
    「でもさ、先生。あたし一つだけ心配なことある。
     お山参りを済ませれば、新しい天子さまも一人前の皇帝陛下なんだろ? それで……
    前の天子さまみたいにまた戦を始められたら困る」
    その声はこれまでになく低かった。だが言葉ははっきりとして話者の意識を示す。
    「戦って……?」
    その彼女にマヤが確かめた。おずおずと、恐れを含んで。
    「お亡くなりなさった先の天子さまはね、遠い西や北の土地に軍隊を出させてずうっと
    戦を続けてこられたんだよ。そりゃもう、あたしのお父が生まれるよりも前からさ。
     お亡くなりになってようやっと戦は止んだ。けど、新しい天子さまはどうなさるんだ
    ろう? もし『続きをやる』ってことになって、この村からも米だけじゃなくて人も出さ
    なきゃなんなくなったら……」
    「ジャクチェよ」
    静かな、だが強い声があらわれた。娘の言葉を断った。
    「それを言うことは慎まねばならぬ」
    その人の手は変わらずに縄をない、視線は手元にのみ注がれている。
    「先帝さまは先には西征、後には北征を大いに興され、おかげでタイハン国の版図は広
    がり申した。商人らの交易の路も確保され、今では国中に東西南北の文物が自在に行き
    交うてござる。その恩恵は我ら末端の庶民にも届いておるではないか、だからこそ言う
    てはならん」
    「でも」
    山猫が顔を上げた。彼女は師匠に負けてはいなかった。
    「だったらもう十分だよ、今のままでも。これ以上戦なんてして大きくなんなくたって
    いいじゃないか。
     西の地も北の地も、聞けば都からだって数月もかかるような遠い場所で、何にもない
    だだっ広い砂漠やら草地だって。そんなとこ、あたしには想い描けもしない。何でそんな
    見も知らない土地のためにあたしらまで振り回されなくちゃなんないのさ、ホントに
    バカみたいだよ!」
    こぶしを振り上げんばかりの剣幕で言い募る。その不満は、常日頃から彼女の内に押し
   固められてあったものかもしれない。
    「もうお日さまも高いや、あたし行くね。お客さんたち、先生んとこで剣の修行をする
    なら畑仕事も手伝ってやっとくれよ。それじゃ、また」
    言うだけ言って、パッと席を立った。そのまま風のように小屋から外へと駆けて行って
   しまった。
    「やれやれ……」
    残された老師匠はため息を吐いた。苦笑混じりの吐息だった。そして驚いている客人二人
   に顔を向けた。
    「これはとんだ場面をお目にかけてしまいましたな、相すみませぬ。が……実はあの娘
    の叔父がひとり、北の戦には兵として取られておりましてな。強壮な山の民ゆえ五年の
    兵役が明けて何とか戻っては参ったのでありますが、以前は陽気な男であったものが
    すっかりと人が変わってしまいまして。
     今では全く人付き合いを断ち、独り山奥に引きこもって暮らしております。彼女はその
    痛手が忘れられないのでしょう」
    ゼネスも、マヤも無言だった。彼らにこの件で返すべき言葉は無い。ゼネスはもちろん
   戦の実際は知りすぎるほど知っているし、マヤもそれなりには見知っている。二人とも、
   よく承知しているのだ。戦争で貧乏クジを引かされるのはいつでも、最も力の弱い庶民で
   あるのだ、ということを。
    「さて、私もそろそろ参りますかな」
    さっと腰を伸ばし、老爺も炉辺から動き出した。それを合図に、マヤも残っていた師の
   膳を片付け始める。
    ゼネスもウェイ老に続いて小屋を出、戸外に立った。カードの士も、すでに招来されて
   物置から農具を取り出している。
    「ん?」
    そこでふと、気がついた。
    「ところで、あの山の娘はどこへ行ったんだ?」
    ひとりごちた。彼女は「行くね」と告げて出て行ったきりだ。
    「彼女なら、杖の男の子のチェンフ君のとこに行ったんだと思うよ。仕事のお手伝いに」
    背中の後ろから声がした。片付けを終えて出てきた弟子の少女である。
    「何だと?」
    わけがわからず、ゼネスは問い返していた。山猫娘と田畑仕事とが、頭の中で結びつかない。
    「さよう、ジャクチェはチェンフの家に参ったのでありましょう。あの二人は幼馴染み
    でございましてな、口ではケンカばかりしておっても実際の仲はよろしうござる」
    視界の下方にニンマリと笑んだ老爺の顔があった。そのままヒラリと身を返し、士を伴
   ないサッサッと山の斜面の道を下りて行く。
    しかし、それでもまだゼネスは突っ立っていた。
    「どういうことだ? あの娘、『畑仕事など性に合わない』とか何とか言っていたろうに?」
    強い剣幕で「ご免こうむるね!」と言い放った姿が目に浮かぶ。その彼女がなぜ? 
   全くもって見当もつかない。
    「ゼネス……」
    疑問だらけの彼の横にマヤが立った(彼女は大きな竹カゴを手にしていた)。師を見上げ
   て肩をすくめ、いささか大げさにため息まで吐いてみせる。
    「あなたって本当、全然ニブいんだね、こういう話になると」
    「何だと!! あ……」
    「ニブい」と言われた怒りはしかし、「こういう話」ですぐさま消沈した。少女はつく
   づく『呆れた』という顔をしている。ゼネスの背にドッと汗が噴き出し、またしても顔は
   火と化した。
    「もういい、わかった――行くぞ」
    弟子にはこんな顔を見せたくない、できるだけの早足でウェイ老と士を追った。彼の後ろ
   から、駆けるようにして少女がついてきた。


                                                        ――  第11話 (中編) 了 ――

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