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      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (1)


    驟雨が上がった。
    細やかな雨がひとしきりしぶき、止んだと思ったらすぐに雲が切れた。ジリジリ、息つく
   暇もなく強い陽射しが照りつけてくる、雨脚が去るのを待ち構えていたかのように。周囲
   を取り巻く細長い草緑から一斉に青臭い"いきれ"が昇った。
    「ムッ」と立ち込めてくる、息苦しいほどに蒸気が肌を圧す。しかしここは田の中だった。
   ちょうど草取り作業の途中で、どこにも逃れようがなくしゃがんでいる。稲の葉には無数
   の水滴が光って見えていた。だが、それらもいずれ"いきれ"に変わると思えば涼しげと
   いうよりかえって鬱陶しい。
    ゼネスは草の中から立ち上がり、背すじを伸ばした。ついでに頭上の笠を被り直した。
   さらに、雨よけに着ていた蓑(みの:藁製雨コート)も取ってニ、三度振ってみる。パッパッ、
   水の粒が飛んだ。
    そのままザブザブ、ザブリと泥の中を歩いて行って畦の一角に蓑を置いた。
    「暑い……雨降るとかえって蒸すね、稲は嬉しそうだけど」
    後ろからマヤもやって来た。同じように畦に蓑を置く。そして、彼女も被っていた笠を
   取って、こちらはハタハタと笠で顔から首元をあおいだ。
    少女の首には今、いつものスカーフが巻かれていない。(この村では、特に彼女が「女」だ
   という事実を隠す必要もなかったので)暑さをしのぐため少しはだけた襟元から、薄く汗
   したのど首の肌がのぞいている。常には目にすることのできない部位が露わになっている
   ――ことに気後れを感じて、ゼネスはどぎまぎした。答えるにも自ずと視線は逸らし加減に
   なってしまう。
    「日は照っていてもしょっちゅう、通り雨が来るんだからなここは。もう少しは風でも
    吹いてくれねばやりきれん」
    今、田の上は無風だった。ぐるりを見回してみても一面の草の葉はそよともせず、いずれ
   びっしり天を指して突っ立っている。"いきれ"はムンムン、濃度を増す一方だ。
    彼はもう、田の仕事にはすっかり閉口しきっていた。本音はすぐさま、泥の中からこの
   足を引き抜きたい。
    「あ、ジャクチェもチェンフくんも頑張って草取りしてる。私たちもやらなくっちゃ、ねぇ」
    隣りの田をうかがい見て弟子の少女は言い、ザブザブと再び他の中に戻りはじめた。こう
   なればゼネスも知らぬ顔を決め込むわけにもゆかず、内心『やれやれ』と思いながらも後を
   追うことになる。そしてチラリ、隣りの田(チェンフ少年の家の持ち物である)を見やった。
    緑に埋もれて黙々、動く影が二つ。どちらも中腰になって稲の株の間に泥を探っている。
   そのため、草の上にちらちらと背中ばかりが見えた。二人とも師弟と同じく日よけの笠を
   被っているはずだったが、そちらはいっこうに見える気配がない。
    「蒸す」条件はあちらの田も此方も同じはずだ。しかし、若い二人の仕事ぶりはいたって
   熱心にも真面目である。ほとんど立ち上がることもせず、草の海に浮かぶ背はただ静かに
   淡々と移動してゆく。これを目にして、ゼネスもさすがに己れの「うんざり」が恥ずかしく
   なった。彼も腰を曲げ、稲の株の間に雑草を探る作業を再開した。

    ウェイ老のもと、剣の修行と農事に明け暮れる日々はすでに十日あまりを数えていた。
   おかげで、ゼネスも畑と水田の作業はひと通り経験した。
    鍬を使う技についてはだいぶ身についた。手のひらにできたマメがつぶれ、新しい皮が
   できる頃には土を耕したり石や木の根を掘り出して片付ける仕事は造作もなくできるよう
   になっていた。
    しかし、何度やっても大変なのは田の草取りだ。ムッとこもる草いきれの中、足首の上
   まで泥土に浸からせて雑草を見出しては、抜く。水田という場所柄、頭の笠の他に日光を
   遮るものは無く、背中いっぱいに容赦なく夏の強い日差しが照りつける。ものの数分で全身
   から汗が噴き出し、アゴの先からしずくがたれた。
    だが、汗以上にこたえるのが腰の負担だ。上半身をかがませた姿勢を続けるため、とに
   かく腰が疲れる。最初の日など、一刻も草を取ったら腰が張って夜眠れなくなった(マヤが
   さすってくれてようやく少し楽になった)。カードの修行ならばどれほど厳しかろうと苦
   とも思わぬゼネスだが、田の草取りに関してはこれまでの生涯で一、ニを争う難事である
   と心底から知れた。これを黙々とこなす農民たちには、素直に頭を下げざるを得ない。
    こうして午前中いっぱいを田い這いつくばって過ごし、
    「そろそろ昼ですな、飯にいたしましょうか」
    ウェイ老から声がかかった時には頭の中がぼうっとするほどにホッとした。


    昼飯はいつも通り、四人うち揃って田の傍で食べた。玄米の握り飯に豆を発酵させた
   調味料(「味噌」という)を塗りつけて焼いた品と、例の歯ざわりの良い漬物。さらに熱い
   茶も四人分並んだ。
    「いただきます!」
    「では、いただく」
    あいさつするのももどかしく、各々握り飯にかぶりつく。こんがり焼き目のついた飯と
   味噌を口いっぱいに頬ばれば、香ばしさがノドの奥から鼻にまで抜ける。舌に沁みる味噌
   の塩気がまた実にありがたい、『うまい』とただ思う。腹はかなり減ってはいたが、ゼネス
   は飯粒のひとつひとつを噛み味わい、ゆっくりと咀嚼してから呑み込んだ。ほんの一端と
   はいえ作物を育てる作業を経験した身だ、食し方も自ずと丁寧になってくる。
    「おにぎやかですなァ」
    不意に背後から声をかけられた。太く明るい声だ。一同が振り向くと、それは川沿いの
   道をやってきた四十がらみの農夫であった。
    彼は鍬を肩にかついだままウェイ老に会釈した。次いで、ゼネス師弟にも軽く目礼する。
    実は、この男とはすでに顔見知りだ。彼もチェンフ少年と同じく、ウェイ老から棒術を
   習う「門下生」のひとりなのである。そして早朝の稽古では他にも、数人の村の男たちと
   行き合わせては手合わせする機会を持った。いずれも平凡な外見を裏切るなかなかの
   遣い手揃いである。
    この村でゼネスは、己れが接する村人たちに敬意を持って対していた。ウェイ老と士の
   生活態度に触れ、また農民の仕事を体験する中で自然とそうなった。すると村人たちの
   方でも、敬意と共にいくぶんの親しみを表わしてくれるようになった。彼らもまた、真摯に
   修行し汗と土にまみれて働く竜眼の男を自分たちの「仲間」と認めてくれたようである。
    声をかけてくれた農夫は、簡単なあいさつだけですぐにその場を後にした。きびきびと
   して軽い足運び、それでいてピタリ腰の決まった後ろ姿をゼネスもマヤもしばらく見送った。
    サヤサヤサヤサヤ――――
    ようやく、待望の風が来た。川の方から吹き渡ってきて稲の葉をそよがせる。
    「ああ……気持ちいい……」
    思わず、という風情でマヤがつぶやいた。食事は中途に目を細めて揺れ騒ぐ水田を
   見ている、栗色の髪をゆるやかに風になぶらせて。ゼネスもしみじみと大きく風を吸った。
    「ウェイ先生」
    ひとしきり田を眺めると、少女は老爺に顔を振り向けた。
    「稲、だいぶ伸びましたね。私たちがここに来た時にはまだやっとヒザを過ぎたぐらい
    だったのに、今はもう腰の辺まで届きそう。株もひと回りは大きくなった感じです。
    そろそろ穂が出ますか?」
    「左様ですな」
    飯の合間に茶をひと口すすり、老爺は目の前の稲を指差して答える。
    「これ、このように株が太って根方からいくつもの茎が枝分かれしております。これは
    稲が十二分に生長しつつあるという証し。暑い日も続いておりますし、出穂はほど近い
    でしょうな」
    それを聞いて、とび色の瞳は期待の喜びに満ちた。マヤは稲の穂が見たくてたまらない
   のである。だがその一方で、花の色した唇はごく控えめに笑んだだけだった。質問を終え
   ると彼女は再び握り飯を食べはじめた。
    『…………』
    二人のやりとりを見聞きしていて、ゼネスは急に飯の味がどうでもよくなった。弟子の
   様子が相変わらずどこか違う。そして、彼はいまだその原因を知らされずにいる。
    この村に来てウェイ老の話を聞いて以来ずっと、彼が感じて止まない"翳り"はマヤの内
   に留まってある。日中の仕事ぶりや他人との会話こそは彼女らしくそつなくこなしている
   ものの、ゼネスにすれば弟子が仮面を被り続けているように見えてしかたがない。
    『何を思い悩んでいる、なぜ俺に明かさない?』
    もどかしい。「仮面」など取り払い、せめて自分にだけは素顔をさらしてくれたって良い
   ではないか――そう、焦れて乾くような思いがつのる。
    しかしその反面、
    『それとも……まだ俺は全幅の信頼を寄せるには足りぬ男と見られているのだろうか?』
    認めたくはない。だが、己れの卑小さを知るゆえにそんな疑念もまたうっそりと影を差す。
    サワサワ……ザワ、ザザザザ……
    目の前の稲の群れが大きく波を打った。風がひときわ強く吹き通ったのだ。
    ゼネスは手にした握り飯の残りを口に放り込んだ。さらにグッと茶をあおって全てをひと
   息に飲み下した。


    「ごっそさん!」
    ゼネスの次に昼食を食べ終えたのはジャクチェだった。
    『さて、またうるさくなるぞ……』
    風の音に傾けていた耳を戻し、少し身構える。この娘、食事の際はいつも静かで食べる
   ことの他に口を使おうとはしない。だがいったん食事を済ませてしまえば、途端にいつもの
   言いたい放題を取り戻す。このたびもさっそく、農作業の合間に仕入れた村の噂話など
   始めるのではないか、そう覚悟をした。だが、
    「ちょっと……行ってくるね」
    なにやら妙にしなしなした挙措で立ち上がり、畦の上を山の側に向けてさっさと走って
   行ってしまった。
    「?」
    意外に思い、試みに娘の行く方を眺めてみれば山際の道に独り立つ人影がある。
    「あ、あれはチェンフくん、だよね?」
    弟子に問われるまでもなく、ゼネスの左の竜の眼は見知った少年の姿を映し出していた。
   彼は片手にカゴのような何かを携えている。駆け寄る娘が手を振り、すると少年のたたず
   まいが"ふわり"和らぐ。
    二人は道の途中でしばらく何事か言葉を交わし、やがて少年は山の上に、娘はこちらの
   側に戻ってきた。
    「はい、これもらってきたよ!」
    とびきり元気な声と一緒に、三人の前に小ぶりの笊(ザル)が差し出された。その中には
   暗紫色によく熟れた李(すもも)が七つ、八つばかり盛られている。
    「わぁ、嬉しい! これチェンフくんとこの畑の実なの?」
    マヤがにこやかに確かめる。すかさずジャクチェはさらに一層の明るさをもって答えた。
    「そうさ! あいつ、ああ見えて果物や花の世話が上手いんだ、この李もよそのよりずっと
    甘くっていい味だぞ!」
    胸を張り、まるで自分のことのように得意げだ。ゼネスは半ば呆気に取られつつ見ていた。
    「初李――もうそんな時節でござったか。ジャクチェよ、それは笊ごと清水に浸けておき
    なされ。さすれば茶のみ刻までにはちょうど食べ頃に冷えましょう」
    目を細め、老爺が提案した。聞くなり甘酸っぱく冷たい果汁が口中にあふれる様を想像
   し、他三人が三人ともに生唾を呑む。
    こうして三時の休憩に格別の"楽しみ"も得て、皆々水田を後に山の畑仕事へと向かった
   のだった。



    大きな、紅い夕陽が山の端に沈もうとしていた。夕刻であった。夏の落日は西の空いっ
   ぱいに黄味がかった朱の色を放ち、さらには村の周囲に黒々と続く山の稜線をも黄金の光
   で縁取っている。傾いたとはいえ、太陽の方を見ればなお射すような陽射しが目に沁みる。
   まぶしさに、ゼネスは視線を北東に転じた。辺りの山々より抜きん出て高い霊峰の山影が
   目に入る。その頂きには今、灰色の雲の笠が掛かっていた。
    『またひと雨くるな』
    ひとり、合点した。霊山に雲がかかれば遠からずこの一帯に雨が降る。稲が伸びるこの
   時期、そうして一日に何度かは細かくしぶく雨が過ぎるのだ。特有の気候も彼にはすでに
   なじみのものである。
    ならば、そろそろ切り上げ時か。
    ゼネスは士と共に鍬を小川に浸し、泥を洗い落とした。ウェイ老は今、彼らの近くには
   いない。少女たちと共にひと足早く小屋に引きあげている。だから畑に留まっているのは
   今、ゼネスと士の二人だけだ。せんせん、しぶきをあげて流れる水に藁を握った手を突っ
   込み、ザブザブと鍬の刃をこする。さっぱりと洗い上げて鍬の刃に白い輝きが戻ると此方
   の気分まですっきりした。
    軽く鍬の柄を握り、振ってしずくを切る。そうしてから彼はゆっくり頭を回し、畑から
   水田までぐるりと一帯を見渡した。
    畑でも田でも、強い陽射しを浴びてたっぷりの水を吸い、作物の勢いは日々すこぶる旺
   盛である。稲は丈を伸ばし、豆はサヤを太らせ、茄子や青唐辛子はつやつやと皮の張った
   実をいくたりも枝からぶら下げている。
    「弾けるようだ」そう思った。生命が漲っている、どこにもかしこにも。光と水と大気と
   土、全ての力を取り込み吸い上げて彼らは己が形を、色を、匂いを作り出してゆく。
    これまでも「知らなかった」わけではない。しかし、身体に響く実感として知っていた
   のではなかった、と今にして気がつく。額に汗して作物のために環境を整え、注意深く生育
   を見守る。この農という労働に従事することによって初めて、彼は体感としての「知」を
   獲得したのかも知れない。
    ――『見えるものを見ることだ』
    突然、頭の中で誰かがささやいた。誰か――否、他ならぬ自身の声そのものであったよう
   にも思われる。
    「見えるものを見ることだ」
    口に出して繰り返してみた。意味はよくわからない。が、それでいて納得できるという
   感覚だけはある。忘れずにいればいつか、理解できる日が来るかも知れない。そう思い、
   彼はそっと己が心中に刻んだ。
    鍬をかつぎ、小川から道に上がった。すると、先に上がりゼネスを待っていた士とふと
   目が合った。
    どちらからともなく、微笑した。
    そのまま「スッ」と踵を返し、士が坂道を登り始めた。釣り込まれるように続いて足を
   出しかけ、しかし苦笑いを浮かべて動作を停める。
    『この"手"にやられるわけだ、俺は』
    ウェイ老の士に対していると時おり、このようなことが起こる。それはゼネスが自身から
   進んで士の呼吸の中に入り込んでしまう、としか説明のしようのない現象だ。さらに朝の
   稽古の際に注意して見ていると、チェンフ少年をはじめとしたウェイ老の弟子たちもまた、
   ゼネスと全く同じようにして士の間合いの中に自ら飛び込んでしまう例が散見された。
    ――「"活人の剣"でござる」
    "これ"は一体いかなることなのか? と彼が問うと、老爺はゆるりと笑って答えたもの
   である。
    「対する相手の欲するところを察し、かれの望む動きを誘(いざな)うことでその機先を
    制する剣にて」
    聞いて、得心した。「なるほど」と腑に落ちた。
    要するに、相手が動きたいように動かしておいて自身の間合いの中に誘い入れてしまう。
   気を見て次の動作を予測するだけでなく、他者の意識の流れそのものを「活かした」上で、
   それを利用してしまう技なのだ。
    今も、仕事を終えて家路を想う気持ち――マヤたちが夕餉の支度に励んでいるはずの
   小屋へと向かう心持ちを、ごく自然のうちに引き出されてしまった。つまりは相手本位に
   対応すること、「活人」とは言い得て妙である。
    (もちろんこの剣をぬかりなく遂行するためには、相手のどのような動きにも沿って応
   ずることのできる、広範かつ柔軟な剣技を必要とするのだろうが)
    顔を上げた、坂道を登ってゆく背中が見える。端然とした背だ。力も強さも、慎ましく
   内に秘めてあえて表に出すことはしない。この士の姿は、ゼネスより他の者の眼には
   剣士というよりただ一介の農民としか映らないであろう。しかし、
    ――「それで"良い"ではありませんか」
    ウェイ老はそのように心得ている、そう思った。
    「俺とは、違うな」
    知らず、つぶやいていた。彼もまた足を前に出して小屋への道をたどりはじめる。
    だが老爺への尊敬の念が高まるほどに、ひとつの不可思議もまた胸の内に立ち上がって
   くることを禁じえない。
    『ならばあのヒザは、何故』
    両のヒザから下を失う。そのような境遇は、もし事故でないとすれば何らかの罪に問わ
   れたあげくの刑罰の徴(しるし)ではないのか。しかして、あれほど「活人の剣」に長けた
   剣士がこともあろうに「膝斬りの刑」に処されるほどの罪を犯す、などということがある
   ものだろうか?
    「影」が二つ、胸板の奥まったあたりにわだかまっている。弟子がなかなか明かしてくれ
   ない悩みの理由。そして、ウェイ老人の過去。
    どんよりというほど重くはない。が、ややもすれば鼻の先にうっすら漂い出てくるよう
   で視界を曇らせる。
    「いや、俺がオタオタしてどうする」
    頭を振り、自らを叱咤した。気を取り直して坂道を登る脚に力を込める。いずれ「影」は
   自ずとその形を表わしてくれるのではないか。そう、今は信じようと努めた。

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