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       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (2)


    「ザァザァザァザァ………」
    水の匂いがする。行く手の先、緑陰の奥で川の流れの音がかすかに響く。まだ遠く、目
   には見えないが聞こえてくる。それだけこの山中が静かなのだ。
    深い森の中を歩いていた。周囲はほの暗さに満たされていた。名も知れぬ雑木が無数に
   立ち並び、てんでに枝葉を伸ばして空の下に屋根を作っている。村の田や畑ではあれほど
   強烈に降り注いだ日の光も、木々の葉の厚い屋根を通しては大分に威力を削がれて炎熱を
   示すことはない。木の下闇は涼しく、快適だ。
    「このとこね、私、ジャクチェからこの山に生えてる木の名前や鳥の名前を教わってる
    の。ね、これはクスの木であっちはホウの木。あ、今奥の方から飛んで来た鳥はコゲラ、
    小さいキツツキだよ。樹の幹の上をほら、ぐるぐる斜めに回りながら登ってく。それで
    ――えっと、あの木はコナラだったかな、ミズナラだったかな……忘れちゃった、後でまた
    聞いておかないと」
    すぐ目の前には栗色の頭があった。ほとんどこちらを振り向かず、ひたすら川の音に向
   かって進む。下草の合間にぼんやり浮かぶ小道のような跡(人が通るより獣が通る頻度の
   方が高いのではないか?)をたどり、弟子=マヤは師=ゼネスの先に立って歩いていた。


    本日はウェイ老が村の子どもたちに手習いを教える日だった。文字の読み書きに簡単な
   算術など、商人や役人、町の者らと付き合う上で欠かせない知識を伝えるのである。子ども
   たちは昼飯持参でやってきて、年長の子どもであるジャクチェとチェンフも手伝い、朝飯の
   後から午後の茶の時間ぐらいまではみっちりと勉強に励むのだという。
    そのため、
    「ゼネス殿、マヤさんも、明日はどうぞ畑仕事はお休みくだされ。一日身体を休ませられる
    なりこの近辺の山でも散策なされるなり、お好きにお過ごしいただくが良うござる」
    すでに昨日のうちに、ウェイ老からは仕事を休むことを奨めてもらっていた。それで、この
   度の山歩きとあいなったのである。
    久しぶりの自由な一日――だったがしかし、ゼネスには当初、どこへ行く、何をするという
   あてが無かった。早朝の剣の稽古(これは仕事とは違うので連日行っている)が済んだ後は、
   たまには日頃遣っていないカードのクリーチャーでも出してみるか……などと、漠然と考え
   ていた。そこへ、
    「ねぇ、ゼネス。私、おとついジャクチェに山の中へお魚釣りに連れてってもらったでしょ。
    その時にね、とってもきれいな場所に案内してもらったの。
     "岩の棚田"だよ。今日はもう一度そこ行きたい、良かったらゼネスも一緒に来てくれる?」
    マヤが打診をしてきたのである。
    山中に、師弟二人行。
    聞いて、内心密かに色めきたった。
    『ようやく、打ち明ける気になってくれたか』
    何よりもまず、そう受け取った。マヤの苦悩――この村に来てウェイ老の優れた剣技に
   唸らされる一方で、しかし日に日にもどかしさ、気遣わしさがつのるばかりだった弟子の
   翳り。その正体をついに明かしてもらえるのではないか、と思えば武者震いに似た高ぶり
   さえ覚えてしまう。
    そこで、
    「そうだな……確かにお前ひとりで山中を行かせるわけにもゆかんし、そういうことなら
    付いていってやらんでもない」
    表面的には平静を装いながら、同行の承諾をしたのだった。

    こうして今、ゼネスはマヤの案内で山中を歩いている。彼女はいつも使っている稽古場
   の奥(つまり、ジャクチェが最初に現われた場所)から、かすかな道をたどって山ふところ
   に入り込んだ。
    「道」はもちろん、ジャクチェたち山の民が普段から使っているものだろう。涼やかな
   葉陰の下、風に揺れる枝葉のそよぎと足下に踏む落ち葉や下草の音ばかりが耳に入る。
    最初のうちは二人とも黙って歩いていた。やがて、マヤが話を始めた。が、その内容は
   山猫娘のことばかりだった。それでも、ゼネスは聞き役に徹して黙々と脚を進ませた。
    「ザァザァザァザァ…………」
    川が見えてきた。木立ちの中、そこだけ光に照らされて水が走っていた。浅く清い流れ
   だ、差し渡し一間ばかりの幅で滔々(とうとう)とほとばしる。山中の川だけに、岸にも川
   の底にも人の頭より大きな石がごろごろ転がり、流れに高低をつけていた。そこここ、白い
   布を掛け渡したように小さな滝がある。川幅の分だけ枝葉の屋根はとぎれ、射し込む光に
   岩に弾けた飛沫が水晶のきらめきを放つ。
    「バシャバシャ、パシャパシャパシャ……」
    水の気が立ち込める、清しい。流れがしぶくたび細かな水煙が生まれ、舞い上がって緑
   の大気の中に拡散される、水の力が満ちる。大きく息を吸った、肺の中にまで澄んだ飛沫
   が行き渡って水の色に染まるようだ。川べりの岩や川沿いの木々の枝はいずれも、濃い緑
   の苔に覆われていた。肺腑のみならず目から肌から、しんしんと深山の気配が沁みてくる。
    「おとついはね、この川で魚釣りしたの。私、ジャクチェが四〜五匹釣る間にやっとこ
    一匹て感じだったけど、でも面白かった! 私たちが釣ってきた魚、ゼネスも『いける』
    って食べてくれたよね」
    そう、彼女たちが漁ってきた川魚は塩を振ってから炭火で炙って食したのだった。淡い
   茶褐色の斑紋のある淡白な魚と、黒くてゴツゴツした、だが身肉は白くて旨みの濃い魚。
   舌の記憶をさぐっていると、少女が再び歩きはじめた。川沿いに、さらに上流を目指す。
    「"岩の棚田"はね、この上のほうにあるの。すごくきれいで静かな場所――」
    川の端の道なき道を踏みつつ、マヤがつぶやく。だがそれは、師に対して話しかけると
   いうよりもほとんど、独り言に近い様子に聞こえる。
    ゼネスは相変わらず、黙って弟子の後を付いて歩いていた。横目に川の流れをうかがう。
   すると、「つーい」大きな蜻蛉(トンボ)が水の上を彼らと同じ上流に向けて飛んでいった。
    かと思えばしばらく行った先で「くるり」反転した。透明な羽をふるわせ、「つーーッ」
   宙を滑ってこちらとすれ違う。首を回して大きな目玉を動かす仕草がはっきり見て取れた。
    「ドラゴン・フライ」
    ぽつり、マヤが口にした。
    「あれ、ウェイさんは"勝虫(かつむし)"って呼んでたね」
    言われてみれば、村の水田の上にもこれと似通った蜻蛉たちが盛んに行き交っていたな
   と思い出す。
    ――「勝虫はうるさい蚊(カ)やブユを退治してくれる、頼もしい兵士(つわもの)ども
    でござるよ」
    かの老人は目を細くして、草色の波に飛ぶ勇ましげな姿を眺めていたものだ。
    マヤもまた蜻蛉の飛行を眼で追っていた。が、
    「あ」
    急に対岸を注視した。だけでなく、そのまま川を飛び越えて向こう岸に渡ってしまった。
   当然ゼネスも続く。
    「きれい」
    首を伸ばし、見上げている。森の中でもここの対岸だけは切り立った崖になっており、
   垂直に近い岩場の中ほどに一輪、すくっと立ち上がって百合の花が咲いていた。
    夏の明るい陽光を照り返す、純白の花だった。
    「おとつい来た時にはあの花なかった。きっと、昨日か今日咲いたばかりなんだろうね」
    少女は言って、
    「きれい……」
    再び見惚れた。確かに、ゼネスの手のひらにもあまるほどの大輪の花だ。白い花びらが
   六枚、くっきり優美な曲線を描いて後ろに反り返っている。岩の間から背を伸ばし、宙に
   浮く花の形が夏の青空を鮮やかに切り取っていた。凛として静謐な香気がただよう。
    弟子も師も、ひとときものも言わず花を見つめた。
    「ウェイさんて言えば」
    急に思い出したように、マヤが話しはじめた。
    「私ちょっと不思議なんだけど……あの人、どうしてあの村にいるんだろう?」
    「それは俺も同感だ」
    応えた。花を眺めたまま言った。
    「あそこに来て十数年になる、という話だったな、村の者によれば」
    朝稽古に訪れた村人らを通じて、師弟はウェイ老が元からの村の住人ではない――という
   事実をすでに聞き知っていた。何でも、ジャクチェの父親が『優れた術者だ、山中で出会った』
   と言って連れてきたのが始まりだったそうだ。
    村人たちにしてみれば山の民の長の口添えはあり、またウェイ老自身の人品卑しからぬ
   端然とした風貌もありで、当初から尊敬の念をもって遇してきたらしい。今では、村の準
   公認セプター(村と山の民の領分内でのみ、自由にカードを使用できる)であるという。
    「剣の修行だけしてきた人じゃないよね、ウェイさん。だって、とても幅の広い感じが
    するんだもの。人のことを深く見てるっていうか。
     それと……あの人と剣をはさんで向かい合ってるとね、すごく細い一本の糸の上に立っ
    てるように見えるの。一本きりの糸の上に、きりっと、でもふわっとして立ってる。その
    くせ……どっしりしてるの、懐深ぁく構えてる。あの人と対してるといつも、ウェイさん
    と私の間(あいだ)を意識してしまう。間合いとかじゃなくて、お互いの間にあるものを。
     どうして、あんなふうにできるんだろう? 何をしてきた人なんだろう? ――て、
    不思議。やっぱりあの人のこともっと知りたくなる」
    「うむ」
    口数少なに、彼は弟子の言を肯定した。彼女の言うことはわかる、ウェイ老のあの独特
   の在りようは、彼の人の過去のさまざまな経験と切り離すことはできないはずだ。
    ゆるぎない観察眼を持ちながら、なお他者への温もりを失わない。マヤが言う「ウェイ
   さんと私との間にあるもの」とは、剣を介した気の交流と呼ぶべきかも知れない。
    「百合の花の花ことばはね、『高潔』なんだよ」
    話を再び花に戻して、マヤは白い大輪をさらに仰ぎ見た。
    「……ああ、もっと見てたいけど、もう行かなくちゃね。お天気急に変わったら困るし」
    名残惜しげに後ずさりしながら、言う。
    「欲しかったら、取ってやるぞ」
    「飛翔(フライ)」のカードを懐に探りながら、ゼネスは返した。しかし、
    「ううん、いいの」
    弟子は左右に首を振った。
    「だって、チェンフくんの畑で今、ジャクチェの百合の花の世話をしてるから」
    「山猫娘の百合だと?」
    意外さに思わず、こっそりつけたアダ名を口に出してしまった。マヤの眼が丸くなる。
    「"山猫"って……ゼネスったらひど〜い」
    "ひどい"と言いながらも、弟子の少女はケラケラ笑った。
    「あのね、去年の秋にジャクチェが山から採ってきた百合の根をね、チェンフくんが
    自分の畑に植えて、ずっと大事に育ててくれてるんだってさ。
     その百合が最近つぼみをつけて、もうすぐ咲きそうなの。彼女、すごく楽しみにしてる。
    だから……今他の百合の花なんて持って帰りたくない、悪いよ」
    「そうか」
    そういうものなのだろうか? と、やや腑に落ちきらない気分が残る。が、「飛翔」を探る
   手は止めて、彼もまた崖の花を見上げた。
    ややあって、師弟二人は渡ってきた川を今一度飛び越し、歩いてきた川の端に戻った。


    渓流に沿ってふたたび進む、二人の行く手、上流の方からまた蜻蛉がやって来た。長い
   尺を「つーーい、つーーーい」ひと息に飛び切って来る。黄と黒のまだら模様に緑の眼を
   した、ひと際大きな蜻蛉だった。
    マヤが指さした。
    「そうそう、ジャクチェったら蜻蛉捕りするのも上手なんだよ。
     豆つぶぐらいの小石二つに糸つけたの投げて、からめて捕るの。蜻蛉は自分の縄張り
    を行ったり来たりしてる虫だから、飛ぶ道すじがわかれば狙いはつけやすいんだって。
    小さい頃はそんな遊びばっかりだったって言ってた、あの娘(こ)」
    おやおやまたしても――と、ゼネスはついにうんざりしてしまった。どうやらこのまま
   黙って聞く限りでは、いつまでたっても弟子の口からは山猫娘の話しか出てこないのでは
   ないか。
    『いい加減、お前の話をしろ』
    もうはっきりと意思表示をしておくべきだ。聞くべき話を、自分は今ここで聞いておきたい
   のだ、と。
    立ち止まり、彼は目の前を行く栗色の後ろ頭に向かって押し殺した声を放った。
    「マヤ」
    弟子の少女は振り返った。足を止め、たたずんで少し困ったような「バツが悪い」ような
   顔をして師を見上げる。
    『こいつ、俺が言いたいことはわかっているじゃないか』
    そうと察した。だがことさらに強く告げておく。
    「お前は、そんな話ばかりを聞かせるために俺をここまで連れてきたのか?」
    マヤは黙って、そしてうつむいた。足元の草の上に目を落としている(そこを「見て」
   いるのか否かは知れなかったが)。何か言いかけては口をつぐんだ。「ためらい」が揺れて
   いる、彼女の内に。ゼネスは弟子のまつ毛を見つめて待った。その震えがおさまるのを、
   落ち着きを保って待った。
    やがて、
    「あなたにはもう、わかっちゃうんだね、私のことは。
     ――来て、こっち」
    そう言うと身をひるがえして「ザザッ」、左手の藪(やぶ)の下側に飛び込んでしまった。
    「おい!」
    慌てて追いかけ、彼も藪の中に自身の体を押し込んだ。

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