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       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (3)


    バシャッ。
    「うわっ」
    前に出した足は思い切り水を踏んでいた。細い川がある、二人がここまでたどってきた
   「魚釣りの渓流」に注ぐ、それは支流の一本だった。混み合った藪の下を流れているため、
   すぐにはそれと気づき難い川ではあったが。
    水の深さはくるぶしを隠すほどで、ごく浅い。とはいえ、足は盛大に濡れた。ただ幸い、
   今彼が履いているのはウェイ老が作ってくれた草鞋(わらじ)だ、濡れたといってもさほど
   気になるものではない。
    小川の中から足を引き上げ、前方をうかがい見た。この辺り、あまり背の高くない木々
   が密に生い繁って川沿いにトンネルを作っている。
    「マヤ」
    藪を透かし見て、呼んだ。支流は暗い。細い枝が葉が絡みあい、重なりあって日を遮る。
   森の中よりもさらに一段と緑陰が深い。その暗いトンネルの底をひたひた、水が流れている。
   かすかに白く光る面が、川の在り処を示す。
    それでも、暗さを厭わないゼネスの左眼はすぐに捜す相手を見つけ出した。弟子の少女
   は小川に沿いながら二間ほどの先を歩いている。急ぎ追いついた。
    彼女の足が止まった。
    「どうした」
    師は近づいた。だが、弟子は沈黙していた。首をかしげ、足元の暗い流れを見ている。
   ゼネスは彼女にあまり重圧をかけぬよう、静かに問うた。
    「どうした、マヤ」
    それでもまだ、少女の顔は師の方に向こうという気配を見せなかった。行く水ばかりを
   見つめている。それほど話せない、隠したいことがまだ他にあるのだろうか? ――という
   疑念はしかし、強いて追い払う。ゼネスは待った。微動だにせずじっと待った。彼はいつ
   の間にか「待つ」という行為を心に身に刻み込んでいる。
    周囲は深閑としていた。厚く繁る枝葉が光だけでなく音までをも遮っている。ひたひた、
   流れ動く水のかすかな気配だけが耳に響く。時おり頬(ほほ)に空気の「そよぎ」を感じは
   した。が、それも「風」と呼べるほどの強さではない。今、ここに一枚の葉が「はら」と散り
   かかったならば、地面に落ちるその音がはっきりと耳に届くだろう。それほどの静寂だった。
    「あのね」
    ようやく、マヤの唇が動いた。
    「ジャクチェから聞いてるの、今、山の人たちはこの近所にはいないって。だから……
    今なら、今だったら話せる」
    "話せる"とは言ったもののしかし、彼女の口はそこで再びつぐまれてしまった。静寂が
   戻ってきた。暗さが二人を押しつつみ、薄い闇の底を水が行く。ゼネスは再度待った。ここ
   で焦れてはいけない。
    「私が持ってるカード」
    不意に(何の前触れもなく)声が聞こえた。
    「ほとんどはもともと、タイハン国のものだったの」
    ピクリ、ゼネスの耳が動いた。驚きだ、つい反射的に口が出た。
    「どういうことだ、それは」
    いささか性急な問い返しだった――と言ってから気がついた。これでは詰問だ、彼は声を
   落としてもう一度言い直した。
    「それはどういうことなのか、話してくれ、俺に」
    三たびの沈黙が流れた。が、ややあって栗色の頭はゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。
    ただし、それはとび色の眼が師の顔を見るまでには上がらず、マヤは彼の胸のあたりを
   見ながら話し始めた。
    「もう一年と半分ぐらいは前のことなんだけど――
     私がまだ街にいた時、タイハン国の公認セプターのチームが妓楼に上がったことが
    あったの。貸し切りで宴会を開くために。
     すごく……大きな宴会だった。何でも、稀少なカードの権利を賭けたセプターの大会
    で優勝したとかで、その大会が開かれたのが街のある都市の近くだったから、せっかく
    だから有名な遊里で遊んでお祝いしたいんだって」
    ゼネスの顔を見ないとび色の瞳を眺めやりながら、彼は弟子の語りの内容を想像すべく
   努めていた。目の前にあるこの瞳がかつて映したのは、いかなる光景だったのだろうか。
    「前に一度言ったことあるよね? 公認セプターはカードで戦う大会にも出られるって。
    そういう大会はね、大体は数の少ないカードや皆が欲しがるカードを手に入れた商人が
    胴元になって開催するものなの。それで、参加したいセプターは高いお金を払って登録
    してもらって、指定された闘技場でカードの技を競い合う。そういう仕組み」
    なるほど、とうなずきながら聞いていた。つまり、「大会」は一種の安全弁だ。稀少な
   強カード(四属の魔王やドラゴン、地形変化、地震の呪文など)がもし闇市場に出回れば、
   売値は釣り上がるし非公認セプターの手に渡る可能性も高くなる。さらに、以前見たよう
   に一般の市民を巻き込んでの凄惨な争いに発展しないとも限らない。
    それを、いっそ「大会」の名のもとに流通の経路を囲い込んでしまえば透明性は増す。
   また、開催元の商人は胴元にもなって、参加料の他に誰が優勝するかを賭けた賭博をも
   手がけるのだろう。さすれば、裏社会に流す以上の巨額の富を得ることができるはずだ。
    「それで……その宴会のために妓楼の妓女はみんな宴(うたげ)に出たの。もちろん、
    私も。でも母さんは、私が十歳の年に病気で亡くなってしまったから、その時にはもう
    いなかったけど。
     私たちが宴会に出てすることっていったら、お酌をして歌って踊っておもてなしするの。
    セプターの人は……三人だったはず。そこにお目付け役が二人付き添って、全部で五人
    のチーム。
     私、その人たちが何のカードをどれだけ持ってるかさえ、全然知らなかった。て言うか、
    自分がセプターかも知れない――なんてことも、これっぽっちも考えたことなんて無かっ
    たし。ただ、呼ばれたから宴席に出ただけ。
     とにかくその晩は、お客さんたちは五人ともすごく上機嫌だし、大会の武勇伝なんか
    得意そうに話しては夜が遅くなっても宴は盛り上がるばかりで、朝まで騒ぎが続きそう
    なほど賑やかだったの。妓女だけじゃない、太鼓持ち(宴席で面白おかしく客人を持ち
    上げる芸人)や楽師も大勢上がって、皆んなして酔っ払っていい気分でおしゃべりして。
     私は……でも私はそういう雰囲気はあんまり好きじゃなかったから、なるべく隅っこ
    で目立たないようにしてたんだけど。でも、そのうちにとんでもないものが回って来て
    手渡されたの。カードが」
    「タイハンのセプターチームの、だな」
    ゼネスが念を押し、少女はかすかにうなずいた。
    「本当は、カードはもちろん小さい匕首だって、武器になるようなものは宴席には持ち
    込めない。全部いったん妓楼に預けてから登楼するのが昔からの決まり事――のはず
    だったんだけど。
     なのに、酔っ払った妓女か誰かが『カードを見てみたい』って言い出したらしくて。
     確かに、街にいる限り私たちはカルドセプトのカードなんて、話に聞くばかりで見たり
    触れたりする機会はないから。セプターチームの武勇伝に刺激されて、一度は見てみた
    いっていう気にもなったんだろうけれど。
     でも、いつもだったら『決まりがあるからダメ』だって誰かが止めるはずなのに」
    「その晩に限っては、通ってしまったんだな何故か」
    確かめる。少女は再度うなずいた。彼女の両の手は持ち上げられ、カードを持つような
   形で指を組んでいた。
    辺りは暗い。そして相変わらず静かだ、ひそひそと水が流れる。だが今、彼の耳は遠く
   管弦のさんざめきを聞き取っていた。それがマヤの運命の音だった。
    「『おい、見てくれ、これがカードだぞ』
     ――そう言って、宴席の人たちの間にカードが配られたの。街の人たちは、酔っては
    いてもこんなこと初めてだからさすがに驚いて、おっかなびっくりそうっとつまみあげ
    るみたいにしてたけど、みんな。
     それで、私のところにも回ってきたの、二枚が」
    そこでマヤはいったん言葉を切った。呼吸が切迫している、二度、三度と大きく息を吸っ
   ては吐いた。
    「私が……カードを手にしたら途端に何か、弾けるような強い、激しい光が走って、目が
    眩みそうになったの。
     ――これは何? そう思った時にはでも、もう黒い大きな犬が目の前に」
    『ヘルハウンドか……』
    息を呑んで聞いていた。触れた途端、念ずるよりも先に"力"が顕現するとは、
    『何という激しい感応、俺の時と……似ている』
    一瞬、忌まわしい記憶が甦ってきてゾッと肌が粟立つ。しかし今は弟子の話を聞かねば
   ならない、ゼネスは密かに己れの胸を撫して気をしずめた。
    「起こったことが何なのかわからなかった、誰も、すぐには。でもタイハンの人たちが
    走って来て――
     『セプターがいたのか、こんなところに!』
     『オレは見たぞ、この娘、触れた途端にカードからクリーチャーを出しやがった!』
     とか何とか、皆してわけのわからないことばかり言って、五人とも怒ったような恐い
     顔して『ちょっと来い、娘』って。
     捕まりそうになって、怖くてたまらなくって私……」
    声がうるんだ。見開かれた瞳孔もまたうるみ、震える。
    「『いや、助けて!!』そう叫んだの、何も考えずに。そしたら――
     ザザーッとたくさん、一斉に宙に舞い上がったものがあったの。ひらひらひらひら、木の
    葉が乱れ飛ぶみたいに。ちょうどあの、オズマさんからネズミのカードをもらった時み
    たいに。それがカードだった、タイハンのチームが持ってきたカード」
    「それで、その全てのカードがお前の身体に吸い込まれて"消えて"しまったんだな」
    最後の部分を引き取り、ゼネスは自ら口にした。よく憶えている、マヤを中心に旋風と
   なって舞い狂ったカードの群れ。あの驚愕は忘れられようはずがない。
    「わからない……」
    しかし弟子の少女はかぶりを振った。力の無い声だった。
    「それから後のことはほとんど憶えてないの……気がついたら、黒い犬の背中にしがみ
    ついて夜の街を駆けてた。
     カードが舞い上がった時誰かが、何かが私の手を引いて犬につかまらせてくれた……
    ような気もする、あやふやだけど。
     街と外とを隔ててる壁も、黒犬が跳んだらあっさり越えちゃって、そのまま外の都市
    の街並みも駆け抜けて、近くの山の中に逃げ込んだの。そこまで来たらやっと人心地が
    ついて、左の肩の上がなんだか明るいから見てみたら――」
    「"風の妖精"がいたんだな?」
    栗色の髪に顔を寄せ、静かに聞いた。マヤは返事の代わりにうなずいた。
    黒魔犬と風の妖精。今ではゼネスにもすっかりなじみとなった二体のクリーチャーこそ
   は、彼女が生まれて初めて触れ、力を現わしたカードだったのだ。
    見つめる師の眼の下で弟子はひとつため息を吐き、さらに話を続けた。
    「あんまり怖くて街から逃げ出してしまったけど、でもこれからどうしたら、どうすればいい
    のか途方に暮れて。魔犬や妖精の仕舞い方だってその時はまだ見当もつかなかったし、
    ずっと藪の深いところに隠れて震えてた……。心細くて、黒い犬の首にすがりついてる
    ばかりだったの、私。
     そのうちには朝がきて明るくなったんだけど、でも今度は人が来て見つけられたらどう
    しようって心配で。だって、もう黒い犬と妖精のカードは勝手に持ってきちゃってるんだ
    もの。カードを見るのは初めてでも、カードがどれだけ貴重で大切にされてるものかは
    知ってるから。
     だから自分はもう罪人で、うっかり街に帰ったり人に見つかったりしたらどんな目に
    遭うか……それを思えば恐くなるばかりで。
     でも、ぐるぐるそんなこと考えてるうちに、ふと『あの時舞い上がった他のカード、
    あれは何だったんだろう?』そう思い出したら……出てきたの、突然。座り込んでる周り
    に、ドサッと、たくさん」
    「例によって、宙から取り出されたんだな、カードが」
    相づちを打つ代わりに確かめる。少女の髪が揺れた。
    「そう……『何で? どうして?!』って悲鳴あげてた、あんまりにもあんまりなことが
    起きるから。
     夢だったら良かったのに、でも夢じゃない、目の前にあるカードの山が現実。その時に
    なって初めて私は、自分がしてしまったこと、タイハン国のセプターチームのカードを
    全部取り上げてしまった――ことを知ったの。
     それで、これはもう私だけの事件じゃ済まないかもしれない。街の人たちもみんな、
    タイハンの国から罪に問われるかもしれないって、そう」
    「心配になったわけだな、俄然」
    「うん…………」
    ゼネスの問いかけに素直に応え、マヤは目をこすった。
    弟子の語りを聞いて、彼の脳裏に一人の少女の姿が浮かんできた。薄暗い藪の奥に座り
   込み、驚きと絶望に震えてヒザを抱え、しゃくりあげながら泣いている。一年半前のマヤ
   ――と言えば、歳は十六ばかりか。生まれてこの方、街とその周辺より他は知らなかった
   彼女はその時、どんな気持ちで山中の時間を過ごしていたのだろうか。
    『望んでもいない力を突然に得てしまう、それは人にとって一種の災難だ』
    思えば哀れがにじむ。そして彼の感慨はさらに、同じように"力"の発現に悩まされた
   少年、公子・アドルフォの上にも及んだ。
    あの少年公子にマヤが深い同情を寄せたのは、彼女もまた"力"に振り回されて悩み
   苦しむ経験を持っていたゆえかも知れない。少なくともそのように理解はできる、と。
    しばしの間、マヤは眼を閉じて黙していた。それでも、やや時を置いて気が落ち着いた
   のか、続きの話を始めた。
    「カードが無くなったことで、街も今頃大騒ぎになってるんじゃないか――そう思って
    心配でたまらなくなって、様子を見に行ったほうがいいかしら……と。もしかして、すぐ
    に返せばタイハンの人たちも許してくれるかも知れないし。
     ただ、だったらここに散らかってるカードもひとまずはどうにかして隠しておかなく
    ちゃいけない。いっそ土を掘って埋めておいたら、とも考えたの最初は。
     だけど、誰の手に渡るかわからないようなやり方じゃ危ないでしょう、やっぱり。
    それで困ったあげくに『お願い消えて、今出て来ちゃダメ!』って思わず言ったら、すぐ
    にみんな見えなくなってしまったの。出てきた時の逆。
     それを見て私、『ああ、カードってもしかして念じることでどうにかなるのかも?』
    って思って。それから黒犬や妖精でちょっとずつ試しながらなんとか、出したり引っ込め
    たり動かすぐらいの遣い方はできるようになったの。
     ――そうこうするうちにまた夜が来て暗くなってくれたから、思い切って山の下の方
    まで降りたの。そこから街まで妖精を飛ばせてみたのね、こっそり様子を見ようと」
    「街はどうだった? 騒ぎになっていたか?」
    ゼネスは問うたが、マヤは複雑な表情で首を振った。
    「ううん……それが、まるでいつもと変わらなかった。明るくて賑やかで、男の人が大勢
    街路に繰り出して、妓女たちは飾り窓に並んでて、取り澄ましたり目配せし合ったり。
     つい昨日、一国の貴重品が失われたなんて信じられないぐらい、全然いつもと同じ眺め。
     だけど、私見つけたの、空から。私がいた妓楼の私の部屋だった窓からぼんやり外を
    見てる男の人、ハンスの顔を」
    「ハンス?」
    それは誰だったか――といぶかしむ師に、弟子はもどかしそうに眉をしかめて説明した。
    「前にも一度言ったことあるよ、あなたには。ほら、楽師でリュートが一番の得意で、
    私の母さんの大事なお友達だった。私のことも、赤ん坊の頃から可愛がってよく面倒を
    見てくれた、私にとってはお父さんみたいなお兄さんみたいな人。思い出してくれた?」
    「む……あ、ああ、そうだったな」
    言われてみれば、とゼネスも記憶をたぐり出した。「ロメロに似た雰囲気の男」だという
   話も聞いた憶えがある。
    「そのハンスがね、私がいた部屋の窓辺で頬杖ついてたの、寂しそうな悲しそうな顔して。
    だから私、妖精でそぉっと近づいてヒジを引っ張って、自分の髪の毛を一本抜いて持た
    せておいたのを見せてあげたの。
     そしたら……ハンスはすぐにわかってくれた。周りの人たちには気づかれないように
    さりげなく妖精の後に付いて来て、街の門も都市の門も越えて山で待ってる私のところ
    まで彼はやって来てくれたの。
     ハンスはね、私の顔見て「ケガはないか?」ってまず訊いて、「大丈夫」って言ったら
    「良かった!」って泣きながら抱きしめてくれた。私も……私も心の底から懐かしくて
    本当にホッとして、お互いしばらくは抱き合ったまま泣いてるばかりでなんにも言えな
    かったの」
    マヤは語りを止め、また目元をぬぐった。二度、三度とぬぐう顔はしかし、これまでに
   比べていくらか和らいで見える。
    『ハンスという男……』
    少女のこの表情は、その男に寄せる信頼の厚さを示している。そうゼネスは見て取った
   (ただし、彼の想像の中ではロメロの顔をした男がマヤを抱きしめており、それが何やら
   割り切れない気分を彼にもたらしてもいたのだが)。
    「それで……」
    涙をぬぐい終えたマヤが続きを始めたので、再び耳をそばだてた。
    「教えてもらったの、ハンスから。私がいなくなった後の街のことを」
    そう言ったもののしかし、少女の唇はまたしても動くことを止めてしまった。目線さえ
   ゼネスの胸元から逸らし、藪の暗がりを見ている。強い「ためらい」がありありと浮いている。
    「マヤ」
    できるだけ穏やかな口調で、師は弟子に話しかけた。
    「もし口にすることそのものに不都合のある話だとすれば、無理はしなくていい」
    栗色の頭が動いた。
    「ありがと、ゼネス。――うん、確かにそういう話、本当は街に関係のない人に知られて
    はいけない話。でも、あなたにはやっぱりきちんと話しておかなくちゃ。私とカードの
    すごく大事な話なんだもの」
    とび色の眼が上がった。それは藪も森も山々さえも突き抜けた、遥かな彼方に向けられ
   ているようであった。
    「私が宴会の席から黒い犬に乗って逃げて行ってしまった後、騒ぎが少しおさまってきて
    やっと、他の人たちはカードが一枚残らず消えていることに気がついたんですって。
     もちろん、セプターチームの人たちは青くなって『捜してくれ!』って頼むし、大変な
    ことだから皆で妓楼の建物中を残らずひっくり返す勢いで見つけようとした――んだ
    けど、一枚も、かけらも出てこない。
     ひどく困ってしまって、街の顔役たちが集まって対策を相談しようとしたら、今度は
    セプターチームの五人までが『居なくなりました』っていう報せが。
     どうも、カードを無くした責任を本国から問われることの恐さに、雲隠れしてしまった
    らしいって」
    『それは無理もないことだ』
    と、ゼネスは肚の内でつぶやいた。国のカードを失った以上、どのみち厳罰はまぬがれ
   得ない。しかもそれは、遊里の禁を犯した自分らのミスが原因なのだ。ばかりか、失った
   理由として『年端もゆかぬ少女がカードの全てを巻き上げ、身体に吸い込んで逃げました』
   などと申し立てたところでそのような非常識な話、誰が信じるものか。かえって怪しまれ
   るのが落ちではないか。
    「そういうことで」
    言って、マヤはひとつ深く息を吸った。
    「街の人たちは、逃げたセプターチームにカード紛失の罪を被せることに決めたんです
    って。彼らがカードを持ち去った――ことにして、口裏を合わせようって。
     そうしておいて、私のことは街から全ての記録を消して『居ない』人にした――って。
    "『マヤ』なんて娘はこの街に居たためしは無い、十五代のゼフィリースは子どもなんて
    産んでなかった。タイハン国のセプターチームがここで豪勢な宴会を開いたのは事実。
    だけど彼らは管弦の音にまぎれ支払いも踏み倒して逃げました、私たちは何も存じあげ
    ません"――って、そう。
     驚いたよ、聞いて。びっくりした、すごく。だって私、消されちゃったんだもの。元から
    『居ない人』にされちゃったんだもの」
    無言のまま、ゼネスは少女の顔を見つめていた。とび色の瞳に闇が映っている、底にひと
    すじの水を流す闇が。そこに浮かぶ表情を、だが彼はしかとつかむことができずにいた。
     長いまつ毛が伏せられた。
    「だからね、私にはもう帰るところはないの。根無し草、ぷかぷか浮いて流れてくだけ。
     街から出たいとは、子どもの頃からずっと思ってた。華やかだけど狭くて、いつも噂話
    や中傷や嫉妬にまみれている場所。女は見られる者、買われる者だと思い知らされる
    場所。
     だけど、生まれた場所だった。私の故郷はあそこしかなかった」
    残酷な話ではあった。マヤが得たもの、失ったもの、どちらにも茨(いばら)の棘が仕込
   まれている。刺されて生きるより他に方途(みち)は無い。
    いつしか、少女の声からは感情のうねりが消えていた。
    「でもね、ハンスはこうも言ったの。
     『いいかいマヤちゃん、ひどい話と思うかもしれない、けど物は考えようだ、こいつは
     チャンスなんだよ、お前さんにとっちゃ。
      だってお前さんはもう妓女じゃない。お前さんがあの街で生まれたことや、妓女だっ
     たことをスッパ抜くヤツもいない。何より、お前さんの身体は妓楼の持ち物じゃなく
     なった、今はもう頭の先から足の先まで全部お前さん自身のものだ、自由なんだよ。
      さあ、このまま逃げるんだ。自分の経歴は好きなように自分で作りゃいい、これから
     は新しい自分になるんだ』――って、そう。
     それから、ハンスは『オイラも一緒に付いていくよ』とも言ってくれた……けど、私は
    断わって一人で行くことにしたの。
     だって、私はたくさんのカードを持ってしまっているんだもの、万が一のことがあっ
    たら彼まで巻き込んじゃう、それはダメだよ。それと、ハンスは妓女の気持ちのわかる
    数少ない男(ひと)なの。彼のこと頼りにしてる女は街に何人もいる、私が独り占めする
    わけにはゆかないの。
     だから、『私には黒い犬と妖精がいるから大丈夫。時々は手紙も書くから心配しないで、
    母さんのお墓を頼むね』――そう言って、男の子の服を買ってきてもらって、それから……
    ハンスとは別れたの。ずっと腰まで伸ばしてた髪を切って、新しい自分になって」

    ――語り終え、マヤの眼は今一度川の水を眺めた。口を結び、暗い色の流れを見ている。
   薄皮一枚の下に言葉にならぬ何ものかが充満していた。ゆるゆると巡り、揺れては微細に
   震える。
    不意に少女の顔が仰向いた。弟子は、支流に入って初めてまともに師の顔を見た。
    「他の人には言えない、ゼネスだから話したんだよ。
     だからお願い、このこと言わないで。誰にも何にも決して言わないで、これから他所
    の世界に行っても言わないで、お願い、私からの一生のお願い」
    口早な言葉だった。「言わないで」と三度も言った。ゼネスが他人に余計な話などしない
   男だとは、マヤもよく承知のはずのこと。しかしそれでもなお懇願せずにはおれないのだ
   ――と思い知った。緑陰の下、仰向いた顔がほのかに白い。その中でとび色の瞳がいかにも
   真剣だった。
    熱くなった。ゼネスの身中に熱く血潮が沸き立ち駆けった。
    『俺しかいない。こいつには今、俺だけしかいないんだ』
    故郷に棄てられ、後ろ盾も頼る先もない。この少女を支え、守ってやれる者はただ一人
   (いちにん)のみ。
    「大丈夫だ、マヤ」
    我知らず、口にしていた。
    「約束しよう、今の話は俺の胸ひとつに納めておく。そしてお前のことは必ず、俺が守る」
    少女の瞳孔が大きく広がった。頬に赤い血の色が差し、濃く染め上げられる。
    彼も両手を持ち上げた。そのまま、手のひらを彼女の肩に置くつもりだった。が――
   「するり」かわされてしまった。
    『何故?』と見れば、栗色の眉は強くひそめられ口元も斜めにへしゃげている。
    「違うよ」
    硬い声が耳を突いた。
    「そんなんじゃない、ゼネスに守って欲しくて言ったんじゃないよ。私のことなんて
    いいの、どうでも。街の人たちやハンスに迷惑かけたくないから頼んでるのに、もう!」
    身をひるがえした、ハタハタッ……と駆けてゆく。川の流れに沿って、細い背がみるみる
   遠ざかる。
    「待て!」
    叫び、後を追うべく足を踏み出した。その目の前を「ひらひら」舞い上がった何ものかが
   よぎり、さえぎった。
    大きな、あでやかな羽色をした蝶々だった。
    「待ってくれ、マヤ!」
    手のひらを振って蝶を追い払い、彼もまた藪のトンネルを川に沿って駆けた。



    ザザッ――
    トンネルのはずれ、こんもり繁った枝葉の固まりを突き抜けた。急に目の前が明るく開けた。
    「お……?」
    真っ先に視界に飛び込んできたのは、黒い岩の肌だった。目の先三間という所に、人の
   背丈よりも高い岩壁がある。その真中と右側の二ヵ所から、糸を引いて水が流れ落ちていた。
   「シャバシャバシャバ……」涼しい音がする。岩を囲む鮮やかな緑の中に反響する。
    爪先立ち、岩壁の上を望み見た。さらに上の奥の方にも岩肌がある。山の一角を占める
   岩盤が、大きな段々となっているのだった。水はその段の上を順繰りに流れてくる。段差
   の高いところでは滝となり、その滝の下では落ちてくる水の勢いが岩を穿(うが)って流れ
   の淀(よど)む窪みを作る。段ごとに清冽な水をたたえた岩の水盤がある格好だった。
    眺めていると、上の水盤から下の水盤へ、白い糸を掛け流したように絶えず水が流れて
   は落ちる。「岩の棚田」とはこれかと思い当たった。
    ゆっくり、歩を進めて目の前の岩盤を流れ落ちる小さな滝に近づいた。真中の滝の前に
   少女が立っていた。
    彼女は、滝つぼの深みを見つめていた。
    「マヤ」
    そっと呼んだ。「ピクリ」肩が動いた。が、白い顔は振り向かない、変わらずに滝つぼを
   眺めている。
    「済まなかった、お前の気持ちも知らずに」
    「ううん、いいの」
    師の詫びの言葉を中途でさえぎり、弟子はすぐに返事した。
    「私こそ……ごめんなさい。ゼネスは私のこと元気づけてくれようとしたんでしょう?
    なのに跳ねつけるようなことばっかり言っちゃって」
    言いながら、振り向いた。
    「自分の気持ちにばかり頭が行っててあなたの気持ちを考えてませんでした、ごめんなさい」
    ぺこりと頭まで下げた。ずいぶんと素直だ、ゼネスは意外さに少なからず慌てた。
    「いや……あやまるまでもない、さっきの話でお前が困難な状況の下にあることはわかった。
     ここ数日、お前の様子がどこかおかしいと感じていたんだが、それはここがタイハンだと
    知ったからだったんだな」
    「そう……」
    少女はうつむいた。
    「ずっと……気になってたの、いつも。私がこのカードたちを持ち続けていてもいいんだ
    ろうか? って。
     何ていうか、カードが『自分のものだ』なんて思えない。たまたま私のところに来て
    しまったから預かってる、そういう感じで。
     けど、今は偶然でもタイハンに来てるんだよね、私たち。だから……カードは元々あった
    ところに返した方がいいんじゃないか、なんて思ったり。
     もちろん、今さら『ごめんなさい、ワザとじゃなかったんです許してください』なんて
    言って通るわけない。だから何とかコッソリでも返せないかしら? とか考えたりしてたの。
     でも……」
    ぐねぐねと折れ曲がる言葉が続いていた。それはそっくりそのまま、ここ数日マヤが考え
   あぐねてきた思考の道程をなぞってもいた。彼女に言ってやりたいことどもは山ほどもある。
   だが、ゼネスはそれらを胸の内に畳んだまま広げずにいた。
    彼は今、もう少し弟子の悩みに付き合ってやりたいと思っていた。
    「でも……」
    少女の視線はずっと、滝つぼからあふれ出しては流れてゆく水の上に留まっていた。岩
   の段の最下方にあたるそこは、揺れる水面を通して汀(みぎわ)近い浅瀬に大粒の砂礫が
   敷きつめられている様子がうかがえる。だが、彼女の眼はそれらではなくもっと別のもの
   を見ているようだ。
    「ジャクチェが言ってたでしょ? 『戦はもうたくさんだ』って。私も街にいた頃に聞いた
    ことがある、タイハンは長いこと戦争を続けてきた国だって。
     その戦がようやく止まった。それは先の皇帝さまがお亡くなりになったから――だと
    ウェイさんもジャクチェも言ってた。けど、止まった時期はね、ちょうど私がタイハンの
    カードを持って逃げた時分とも重なるの。
    そこでいったん言葉を切り、マヤは眼を閉じた。一度、二度と深呼吸をしてまた開く。
    「今カードを返したら、タイハン国はまた戦を始めるかも知れない。そんなふうに思うと
    ……やっぱりこのカードたちはこのまま私が持ってなきゃいけない、世間から隠し続け
    ていた方がいい、そういう気持ちにもなってくるの」
    言って、長く息を吐いた。ゼネスはようやく『わかった』と思った。
    マヤは、己れがセプターの力に目覚めカードを手にした経緯(いきさつ)が「正当ではない」
   と受け取っている。彼女の悩みはそこにあり、また、これまでカードを使うことにあまり
   積極的ではなかった理由も(一部は)この「不当」の感覚に根ざしていたのだろう。
    ならば、とあらためて弟子の顔を見る。
    彼が彼女に言うべき事柄は、実にはっきりと脳裏に描かれていた。師として、経験豊か
   な先輩セプターとして、何より覇者の試し人たる亜神として、伝えるべきは一つと自ずか
   ら定まっている。
    「マヤ」
    居住まいを正し、厳かに告げた。
    「よく正直に話してくれた。聞けば確かに、街や国の浮沈がかかる扱いの難しい一件だ
    と俺も思う。それを、お前はずっと一人で背負って悩んできたのだな。そばにいながら、
    今の今まで気がつけずにいて悪かった」
    詫びの言を織り交ぜながら、一歩を進めて弟子の傍らに寄った。
    「ただ、一つだけお前は思い違いをしている。俺は師としてそのことを正さねばならん」
    「思い違い……って?」
    弟子の少女は師の顔を振り仰いだ。どこかまぶしげな眼をしている。
    「カードのことだ」
    さらにもう一歩、近づいた。彼はすぐ眼の下にあるとび色の瞳をのぞき込んだ。
    「カルドセプトのカードは、人が『所有』できるようなものではない」
    あえてゆっくり、「所有」と「ない」に特に力を込めて言った。利発そうな顔に疑念の
   さざなみが立つ。
    「『所有』できるようなものでは……ない?」
    ぽつりぽつり、師の言葉を繰り返す。
    「そうだ」
    うなずき、さらに少女の眼を見つめた。とび色の奥に広がる惑いに、腕を差し伸べたい。
    「お前はさっき、自らの手持ちカードを"預かりもの"と言ったな。その通りだ、全ての
    セプターにとってカードは"預かりもの"以外の何物でもない。
     考えてもみろ、この世界はおろか宇宙の全てを創った"力"の欠片(かけら)、それが
    カードだ。人の時間を遥かに超えて在り続けるものを、どうして有限の身が『所有』など
    できる? 仮にカードから見れば、セプターなどは所詮「通り過ぎる者」でしかない。
    『所持』はできても『所有』はできない、それがカードの正体だと思い知れ。
     それに、お前も憶えているはずだぞ、あの竜遣いのカードが飛んで『来た』時のことを。
     あれでわかるように、人がカードを取るのではない、カードが人を取るのだ。やって
    来たものを受け入れるしかない、『運命』と同じだ。だからカードがやって来てしまった
    以上、お前の意志とも正義感とも関係なくそれらはお前が預かって所持すべきカード、
    セプターであるならば皆、その事実を認めて"力"の選択に応えなければならん。
     わかるな? 俺の言うことが」
    弟子の眼を見つめた。己れの一言一句をこのとび色の瞳に、その持ち主の身体に挿入
   したい。「お前は正しい、正当なカードの所持者だ。自信を持て、胸を張れ」――この思いを
   注ぎ込みたい、地上の、人界の価値観からマヤを解き放つために。セプターとしてより高く、
   大らかに飛翔させるために。
    しかしそんな師の願いを知ってか知らずか、弟子は視線を逸らし目を伏せてしまった。
    「わかるけど……ゼネスの言うことはわかるんだけど……」
    語尾をにごし、とつおいつ声が震える。
    「まだ、そんなすぐには呑み込めない。だって……私がタイハンのセプターチームの人
    たちにひどい迷惑をかけちゃったことは確かなんだもの。あの人たち、国に帰れなくな
    ってどこへ行ったんだろう? 家族だっていたはずなのに、その人たちはどうなっちゃ
    ったんだろう?
     そういうこと思うとね、どうしても辛い。痛くなるの、ここが」
    胸に手を当て、唇をゆがめた。
    ああ、"そこ"だったのか――と、ゼネスは嘆息しかけた。マヤの苦悩の根元、それは
   タイハンの五人とその縁者たちの人生を狂わせたという懸念にこそあったのだ。
    何と話せばいいのだろう、言葉に詰まる。ここで「元はといえば、決まりを破った彼らの
   側に責任がある」などと理屈を並べたところで、何も解決されはしない。事件は起こり、
   運命の歯車は回ってもはや何人の日常も旧に復することは不可能なのだ。
    ゼネスにはわかる。それは、彼には身に沁みて理解できる苦悩だ。

    ひととき、黙していた。二人を滝の音だけが包んでいた。

    「ならば、背負うがいい」
    声が聞こえた。『誰だ?』と驚いたが、それは彼自身の声だった。
    「それを"罪"だと思うならば、負い続けるがいい。片時も忘れず、罪を踏まえて進む。
    それがお前の成すべきことだろう、マヤ」
    少女の顔が上がった。見開かれた瞳の上に竜の眼を持つ男の顔が映っている。その顔は
   すぐにぼやけてにじんだ。
    長いまつ毛に囲まれて、涙が盛り上がった。
    「はい」
    マヤはうなずき、眼をぬぐった。しかしてあふれ出るものは止まらず、なおも流れては
   こぼれ落ちようとする。唇からも嗚咽がもれた。
    ゼネスはそっと手を上げ、静かに目の下の肩にそれを置こうとした。その時急に、胸元に
   弟子が飛び込んできた。
    師にすがりつき、額を押し当て声を殺してすすり泣く。

    彼は片腕を彼女の肩に回して抱き、もう片方の手で栗色の髪を、震える背を撫でた。
    清らかな水の面(おもて)で、一つに重なった影が細やかに揺れていた。

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