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       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (4)


    数日が経った。
    ――カンッ!
    林間に澄んだ高音が飛んだ。薄い朝靄を突き切って響く。
    顔面に伸びてきた杖を打ち払い、ゼネスは石火のうちに体をひねった。木刀をすぐさま
   脇に引きつけ、「次」に備える。迅速、正確な身ごなしだった。相手の少年は杖を反転させ、
   下段から再度突く構えを見せる。が、これは"釣り"だ。足捌きだけで左にかわし、いなす。
   隙はない。互いの動きが止まった。刀を取る者と杖を握る者、相対した二人はそのまま
   しばらくにらみあった。
    刀は中段正面に、杖は下段左に、それぞれ微動だにしない。だが打ち合っていた、精神
   が打ち合っている。竜眼の男と猪首の少年、視線と視線がぶつかり合い、得物よりも先に
   発散される闘志が激しく切り結ぶ。
    対戦の前、今朝も李(すもも)を持参してくれたチェンフに、
    「ありがたいな、お前の李はことの他甘くてうまい」
    ゼネスはそう礼を言った。とたんに、少年はニキビ面を朱に染めてはにかんだものだ。
   が、今は両者ともにそのような柔和は影を潜めている。ギラギラ光る竜の眼、その視線を
   黒い目が鋭く弾き返す。対する気迫が突出し、肩を競ってせめぎ合う。
    ジリ、ジリ、ジリ。
    どちらも引かなかった、拮抗したまま粘つくような時が移る。臆したら負け、焦れても
   負け。足元に力を込め、「出る」瞬間を計る。
    「――だァッ!」
    刀と杖が上がった。ほとんど同時、否、瞬きの半分ほど速く先にゼネスが打ち込んだ。
   真っ向から来る木刀を迎え、少年も杖を合わせる。
    カーンッ
    「うわっ!」
    少年の姿勢が崩れた。木刀に押し飛ばされ、手にした杖ごと構えもろともに崩された。
   「ドンッ」と土の上に尻餅をついて仰向いた顔には驚愕が浮いている。
    「どうして……チェンフ、昨日まではちゃんと打ち込み受けてられたのに」
    傍らで見守っていたジャクチェも驚きを露わにした。
    実際、これまでに何度も手合わせをしてきて、少年はすでにゼネスの腕力のほどはよく
   承知している。と言うか、昨日までは相手の打ち込みを自分の杖でいくたりも止めてきた。
   ただ今のように力負けして崩されたことは一度も無い。それなのになぜ? と、チェンフも
   ジャクチェも狐につままれたような気分でいるのだった。わけがわからない。
    「お見事」
    パンパンと手を打ち、ウェイ老が声を掛けてきた。応じてゼネスもニヤリ笑う。
    「何ですか、今のは」
    少年が立ち上がり、竜眼の男に問うた。答えたのは彼の師匠だった。
    「全身の力を集め、溜めて打ち合う一点に当てられましたな。
     チェンフよ、このような打ち込みに合わせるならば己れもまた同じように力を溜めて
    当たらねばならぬ。よく憶えておきなされ」
    こくり、黒い頭がうなずいた。
    「チェンフ、次は負けられないね、頑張って!」
    山猫娘も励ましの声を飛ばした。少年はやや苦笑ぎみに口元をゆるめ、杖を握り直して
   下がった。
    「ゼネス殿」
    老爺はさらに客人を振り仰いだ。
    「ただ今のお手並み、まことに鮮やかでござった」
    「なんの」
    もう一度微笑し、ゼネスは姿勢をあらためた。
    「これは貴兄とお弟子らの剣の賜物にて、こちらこそ貴重な経験をいただけた事に感謝
    を申し上げる」
    爽やかな声が出た。まことその通り、と心底から思っている。
    『刀を遣うならば、力は打つ瞬間に集中して込める』――ことを、彼はこの節の修行を
   通じて学んだ。いや、思い知った。今は無駄な力みを削ぎ落とし、身体の内部に生ずる力
   を一本化するようにと心掛けている。
    とは言え、ウェイ老から「そのように」との指導を受けたわけではない。ただ、老爺の
   士が繰り出す剣の速さと重さ(まったく、立ち会ってまともに木刀を打ち合わせると「ジン」
   と腕がしびれることさえある)を間近に見て感じて、自分なりに工夫を重ねたあげくに得た
   回答である。
    『ひとつ、掴めた』
    確信があった。胸の内に弾むような喜びが灯る。
    「次、お願いします」
    急に別の声が割り込んできた。その主はつかつかと歩いて来ると彼の前に立った。
    『マヤ』
    彼の弟子である少女だ、ゼネスと同じく木刀を手にしている。彼女は、今は翳りの去った
   白い顔を真っ直ぐ師に向けていた。
    彼も見返した。
    「よし」
    応える。二人同時に刀を上げ、構えに入った。
    「来い!」
    合図を発した瞬間、だが弟子の印象はガラリ変わった。
    『……気配が』
    正眼に構えた姿勢は端正にも美しい。しかしてその内に漲ってくるものがまるで無いの
   だった、いやに影が薄く、異常に静かだ。
    「さや、さやさやさやさや……」
    風が梢を渡る音が耳に入った。涼やかだ。そして相対する少女の姿も、この風になびいて
   かすかに揺らめくように見える。
    常のマヤの立ち合い、鋭い視線と闘志で押してくる姿とはまるで様子が違う――と驚き、
   あえて足を進め強く目を据えた。
    『行くぞ!』
    闘気を込め、打ちかかる気配をぶつけた。来ないのであればこちらから出る、と。
    それでも「応え」はなかった、ただ静かに軽い、霧に向かって刀を構えているようだ。
   彼が期待しているのは「反発」の動きだった。だが現実には、此方の視線も闘志も少女の
   影の中にずぶりずぶり吸い込まれ消え失せてゆく。
    『――や、これは』
    想定の外だった。急激に焦りが生じる。このような対戦はかつて経験がない、対応の仕方
   がわからない。
    「むむ……」
    進退に窮し、弟子の目を見つめようとした。せめてマヤの表情から彼女の意図を汲み取
   ってつかみたい。そう思ったのだ。が、無駄だった。とび色の瞳にはぼうっと霞むような
   白い闇がただよっている。
    打ち込む決め手を欠き、ゼネスはジリジリと歩を横に送った。少しずつ少しずつ、円を
   描くようにして移動を試みる。それでも少女の目線は彼を追わず、虚空に漂い続ける。
    『どういうつもりだ……?』
    やがて、ついに彼は相手の死角にまで達した。ここから踏み込めば先手が取れる。
    『今だ――』
    出た。大きく歩を踏み打って出た。木刀が「ひょう」と風切り、一気に間合いが縮む。
    『よし!』
    捕らえた、と確信した。その目の内で「フッ」と影が消えた、忽然と掻き消えた。
    「あっ!」
    驚愕し、刀を振りかぶったまま足を止め横に跳ばんとした。が、遅い。「ひやり」首筋の
   後ろの側に硬く細い何かが当たっている。木刀だ。
    『俺の死角に……』
    ゼネスが突進し到達しようとしたまさにその時、マヤは身をひるがえして逆に彼の死角
   へと飛び込んだのだった。そのまま背後に回り、師の首に木刀の刃を押し当てたのだ。
    「やられた、な。俺の負けだ」
    潔く負けを認め、木刀を下ろした。彼の後ろから「ふわり」弟子の少女が現われ出る。
    「わざと殺気を引っ込めて動静を消したとは、恐れ入ったぞ」
    飾りなく本音を口にする。マヤは顔を赤らめてはにかんだ。
    「マヤさん」
    ウェイ老もやってきた。気分が高揚しているのか、皺の寄った面に晴れやかな艶を刷いた
   笑みがにじんでいる。
    「打ち気に満ちた相手に対し、あえて自らの打ち気を引くことでいなし、出る勢いを散じ
   させましたな。こちらもお見事でござった」
    的確な講評を述べる。さらに、
    「と申しますか、貴女の本領をようやくお見せいただけました。ご懸念が晴れお気持ち
    を固められましたこと、この私も祝着と存じます」
    そう付け加えた。師も弟子もハッと息を止めた。
    『この人は感づいていたのだ』
    村がタイハン領内だと知ってよりこの方、マヤが自分のカードの処遇について考えあぐ
   ねていた心の内。それを(やはり、というか)ウェイ老は薄々感じ取っていたのだろう。
    ただ、察知はしても差し出がましい口挟みは控え、密かに見守っていてくれたのだ。そ
   れはいかにも、この端正な老剣士らしい配慮と言えた。
    (ことによると、先日手習いにかこつけて二人に一日の時間をくれたのも心遣いの一端
   だったかも知れない)
    「それで、マヤさん」
    師弟の驚きには見て見ぬふりをし、老爺はさらに言葉を継いだ。
    「剣は己が内のみならず、対する相手との間にこそ最も多くを実現させ得るものにて。
    貴女は人を見、人を知ることに力を傾けることのできるお方。今のように決心を据えて
    おいでならば、"その先"は必ずや見えてまいりましょう」
    声音穏やかにも表情は柔らかく、しかしてその口から出だされる言葉はいちいちが肝に
   沁みる。
    「剣は人との間にあり」
    それはつまり、吾と彼との「関係」の表出が剣である、ということ。またそれを知るから
   こそ、この老剣士は行きずりでしかないはずのゼネス師弟にも、望まれるまま誠実に応じ
   てくれたのだろう。そうと気づき、ゼネスは胸に熱い湯が湧き満ちるように感じた。
    「はい、私もウェイ先生にご指導いただけましたことに心よりの感謝を申し上げます」
    マヤもさっと頭を下げて礼を述べた。彼女をにこやかに見やってから、老爺は改めて師
   の顔を見た。強い眼差しだった。
    「ゼネス殿」
    呼びかけた途端、ふとその眼が笑みを含んだ。どこかいたずら気を帯びた笑みを。
    「剛剣は岩をも断ち斬る技。なれど、かえって中空に舞う鵞毛(がもう:白鳥の羽毛)の
    如きを斬るは難きことにてござる」
    聞いてゼネスも笑った。こちらは苦みの染みた笑みだった。
    「仰せの通り」
    宙に舞う鵞毛。薄く、軽く、柔らかな鳥の羽毛。それはほんのわずかな空気の流れにも
   乗り、いたずらに所を移す。ただ強く打って出る剣では、自らの刃風が羽毛を押し流して
   しまい、しかと捕らえることは難しい。
    『俺はいつも、力を入れる方にばかり気が向いてしまう』
    それがマズいと見えてはいる。後は己れを変えることができるか否か、だ。
    「貴兄のご指摘、この肝に銘じておこう」
    言って、目礼した。身の芯に清々しさが通った。


    「それで……あの、ウェイ先生」
    少しの間を置いて、マヤが遠慮がちに口をはさんだ。
    「何でしょう」
    「でしたら、その……鵞毛を斬る技を一度、お見せいただけませんでしょうか?
     鶏さんの腋の下の羽毛でも、後でちょっともらってきますから」
    鵞毛を斬る剣技を見たい。「岩を断つより難しい」との話を聞いた以上、それは彼女が
   当然抱きそうな願いである。ウェイ老もほほ笑んだ。
    「私の側はいつにても――」
    が、その時。
    「誰か来る、大勢だ!」
    老爺の言をさえぎってゼネスは稽古場を飛び出した。山の林の中を上方に向かい、透か
   し見る。雑木の下生えの彼方から、非常に多くの人の気配が湧き出しては此方に近づいて
   来る。彼は樹間の闇をにらんで立った。
    "それ"はしかし、規模は大きいものの不思議にも「殺気」を孕んではいないようであった。
   ただ多勢の脚が広範囲に渡り、山肌を縫うように移動してくる――ことは間違いない。
    『攻撃はしてこないつもりか……山の民に気取られなかったとすれば、いったい何奴?』
    相手の正体だけでなくその意図がわからない。そして「わからない」だけに、危険が全く
   無いとは言えない。緊張が背すじを走った。彼は唯一の得物である木刀を左脇に引きつけ、
   構えて待ち受けた。
    しばし後、
    「……ガサガサ、ザザッ……バキッ」
    突如、彼が見つめていたヤブが二つに割れた。そこから次々、人が飛び出してくる。いず
   れも立派な鎧兜に身を固めた武人だった。十五〜六人はいるか、玲瓏と輝きを放つ装備の
   質――これは呪文攻撃を弾く効果を備えた防具だ――から見て、かなり上級の騎士に相違ない。
    「何者だ、名乗れ!」
    現れた騎士らの面前に立ち、ゼネスは大喝した。すぐさま相手方から最も良い鎧を付けた
   一人が進み出て来て兜を取った。
    「ご安心めされよ、村のお人。我らは怪しき者には非ず、皇帝陛下の親兵、近衛騎士団
    にてござる。本日は突然に参上してお騒がせしましたことまことに申し訳なく。が、これ
    もお忍びの御幸のためなれば、平にご容赦をいただきたい」
    一団の統率者らしきその騎士はよく通る声で澱みなく口上を述べた。とはいえ、そのまま
   に信用するゼネスではない。
    「お忍びの御幸だと? それは一体誰のことだ。貴様らの後方でさらに大人数が展開中
    だということぐらい、俺が気づかずにいると思ってか。さあ、ここにやってきた魂胆を
    はっきりと聞かせてもら――」
    「ゼネス殿、大丈夫でござるよ」
    左のヒジを引かれ、彼は言を途切れさせた。いつの間にかウェイ老がここまで上がって
   きている。
    「彼の者らが持つ盾には、五爪の竜の紋章が刻まれてござる。あれは確かに皇帝陛下の
    近衛兵団の御印にて間違いありませぬ」
    落ち着いた様子で指を差す。老爺を見て、先ほど口上を述べた騎士が一歩、二歩とさら
   に歩み出た。大層に慎重な足取りであった。
    「これは……ご老人、不躾ではありますが、どうぞあなた様のお名前をお訊ねいたす無礼
    をお許しくだされ。
     もしやご貴殿は元の大将軍、ウェイ・ウーさまとお見受けしますが、いかが?」
    "元の大将軍"――あまりにも唐突な問いであった。だが老爺はまぶた一つ動かさぬまま
   返答した。
    「大将軍は存じませぬ。私はウェイ・ランと申す田舎者でございますれば」
    低く、静かな声だった。「知らぬ」と聞こえたがしかし、騎士たちは一斉に背すじを正し、
   敬礼した。「シャンッ」と鎧が鳴った。
    そして、素顔の騎士は後ろのヤブを振り返った。
    「陛下、こちらにおわします。お出ましを」
    騎士たちがサッと散開して陣形を整えた。ヤブの周囲に盾を連ねて壁を作り、手に手に
   剣を天に向けて真っ直ぐ捧げ持つ。
    ガシャ、ガシャリ……。
    やがて、ヤブの薄暗がりから白銀の輝きが歩み出て来て立った。華麗な装飾鎧を着けた
   三十半ばの青年、その人はウェイ老を認めるやその場にひれ伏した。
    「先生…………お久しゅうございます!」
    タイハン皇帝。この国で「陛下」と呼ばれる男は実にただ一人しかいない。最上の貴人の
   登場に、チェンフ、ジャクチェにマヤも相次いで膝を折って頭を垂れた(だがゼネスは片膝
   を折った礼の姿勢を取っただけである)。
    そよそよ、微風が動く。林間にかすかなすすり泣きの声が響く。ひれ伏した青年の背が
   震えていた、泣いているのは彼なのだ。老爺が青年の前にゆっくり、ひたとにじり寄った。
    「もったいのうございます。どうぞお顔はお上げになってください。
     まことにお久しゅうございます、殿下。いや、陛下」
    温もりを込めた声がすすり泣きに被さった。



    ふつふつ……かまどにかけた瓶に湯がたぎる。ほの暗い小屋の中、薄い敷べりに座して
   青年と老爺は相対していた。青年は濡れた眼で穴の開くほど老いた顔を見つめ、老爺はそ
   の見つめてくる眼をじっと静かに受け止めていた。
    稽古場での突然の対面の後、ウェイ老は青年=タイハン現皇帝を自らの小屋に招いた。
   青年も"先生"の言に従い、いったんは涙を抑えて今、こうして差し向かいに座っている。
    二人と同じ室内に居るのは、青年の近侍である五十がらみの品の良い男が一人だけだった。
   ゼネスたちは土間に控え、近衛兵たちは小屋の周囲ぐるりを固めて警護している。そして
   ゼネスがヤブの後方に感じた大勢の気配は、近衛師団の本隊との話だった。村人の仕事の
   妨げとならぬよう――との皇帝の意に従い、わざと姿を隠してやや離れた位置に控えている
   そうである。
    皇帝をはじめ、彼らは「封禅の儀」を執り行うため昨日シェン山の麓にある駐屯地に到着。
   一晩の休憩の後、今日の微行とあいなったのだった。
    というわけで、師弟の会見を邪魔する者はいない。
    (さらに言えば、この小屋には現在"領地守護"の呪文がかけられていた。騎士団の中に
   一名セプターがおり、彼がカードを使って処置を施したのである)
    さて、差し向かったまま師弟はずっと黙していた。ただひしひしと見つめ合っている。
   感慨のあまり、どちらも言葉を発せられずにいる様子であった。
    「お茶が入りました」
    沈黙を破り、男装の少女が土間から部屋に上がった。優雅な手つきで湯気の立つ茶碗を
   まず青年に、老爺に、近侍の前に次々と置いてすすめる(――「帝さまにお茶をお出しする
   なんて」とジャクチェが尻込みしたため、マヤに役目が回ったのだ)。
    茶が出て、ウェイ老がようやく口を開いた。
    「そばの実の茶にてございます、陛下。都ではなかなかお目にかかれませぬ品なれば、
    どうぞ熱いうちにお召し上がりをくださいませ」
    「お気遣いありがとうございます、先生」
    青年もいく分か表情を和らげた。
    「こうして久方ぶりにお顔を拝見しておりますと、昔日のことどもが次から次へと思い
    出されます。その中でも、早くに父を亡くした私のためにと、この近侍のシェイ=ヤン
    が先生を剣技の師として推挙し引き合わせてくれたあの日のことが……ことにも懐かしく
    甦ってまいりますようで。
     当時の朕(わたくし)のことを、先生はまだ憶えてくださっておいででしょうか?」
    「憶えておりますとも」
    ウェイ老はすぐさま答えた。皺の寄った目尻を懐かしげにゆるませて。
    「陛下は確か、御歳七つであらせられましたな。
     とても呑み込みの良い、お教えがいのある御子にございました」
    「なんの」
    青年は苦笑し頭を横に振った。
    「意欲ばかりはあるものの、どうも体が付いてゆかない不甲斐ない弟子でありました。
    先生のお言葉の言わんとするところこそ理解できますものの、己れの手が思うようには
    働いてくれませず。まこと、下手の横好きとは朕の剣を云うのでございましょう」
    はっはっはっ……とひとしきり笑い、だが急に容(かたち)をあらためた。
    「なれど、『剣は己れの内のみならず、自と他の間にも成就されるものである』――との
    お言葉は、今も我が胸に根付いております。先生が西征大将軍の位に就かれ、お会いでき
    ます時が年に数回と限られましても、都にもたらされる軍功と共に、たまさかにはお顔を
    見てお話をうかがえますことが朕には何よりの楽しみでございました。
     それを……」
    青年の声が変わった。
    「十八年、にもなります、先生」
    低く、絞り出すような声音だった。
    「先帝が都よりあなたを、西征の大功あった元の大将軍を、よりにもよって逆賊の汚名を
    着せて追放されてしまうとは……」
    土間に息を呑む気配が満ちた。チェンフが、ジャクチェが目を丸くしている。常に親しん
   でいるウェイ老の前身が西征大将軍であり、しかも汚名を着せられて追放された身である
   ――などとは、彼らにとっては全く思いもよらない話であるに違いない。
    「陛下」
    しかし、ひとりウェイ老のみは相も変わらず落ち着き払っていた。
    「私はたまさか、先帝さまのご厚遇を賜りましたがために布衣(ふい:無官の一般人の意)
    の身より大将軍にまで成り上がりました者。それが、先帝さまのお手により再び布衣に
    戻りましたまでのこと、ひと回りして元に還っただけにございます」
    「ですが先生」
    口早に言葉を継ぎ、青年はまた目をうるませた。
    「本来でしたらば今頃は、都の邸宅で悠々自適の日々をお過ごしでありましたものを。
    ただ不正義を見過ごせなかったがためにこのような……。
     あなたは、北征の戦で捕虜となった将兵らの家族を、先帝がお怒りのあまり捕らえて
    打ち首に処されようとなさった際、宮殿に駆けつけられて彼らの弁護を、命乞いをなさ
    れました。
     だけでなく、北征の愚をも先帝に説かれました。『北征の戦は国の益にはなりませぬ、
    どうか即刻お止めください』と。
     その忠義への返答が『敵対国の内通者』という汚名と膝斬りの上国外追放の断罪だった
    とは……無念にございます」
    言って、青年は再び目頭を押さえた。すすり泣きの声が漏れる――と思ったらばこの度は
   泣き声が二重だった。青年の右後ろに控える近侍の男も、白髪混じりの頭を垂れて肩を震
   わせている。
    ここまでのやり取りを聞いて、ゼネスはようやく『謎が解けた』思いだった。
    タイハン国西征時代の大将軍、それがウェイ老の(云わば)正体である。そして、最初に
   近衛騎士団の長が口にした名「ウェイ・ウー」こそは、この人の本名なのだろう。驚くべき
   事実だ。が、その反面『なるほど』と大いに得心のゆくところもある。
    武官の中でも「大将軍」ともなれば、軍全体を把握し指令する統率力、及び戦争の大局
   を見る戦略の才は不可欠だ。決して武辺だけでは務まらない。人を見、人を知る老剣士は
   やはり、マヤの言う通り剣だけに生きてきた人ではなかった。
    「陛下、どうぞお嘆きくださいますな」
    涙にくれる青年に、老師はあくまで温かい声をかけた。
    「膝斬りの刑に処されました私に、剣士としての新たな命をお与えくださいましたのは
    他ならぬあなたさまではございませんか。
     追放を受け、寄る辺なき身でさすらいおりました折、あなたさまが密かにお遣わしに
    なったダリオ・ウム・ハーンが現れて、あなたさまよりのご伝言と士のカードとを託され
    ました。『この国を見限らないでください』とのお言葉、あれ以来片時も忘れたことは
    ございませぬ。
     先帝のご意志にあえて背かれてまで、あなたさまがこの私におかけくださいましたご
    厚意。それがただただありがたくもかたじけなく、これは身を賭してもお応えしたい、否、
    お応えせねばならない、あなたさまがご即位されて国を立て直すまでを目にしなければ
    ――と、そう決心をばいたしました。その心を胸に、私は今日まで生き永らえてまいった
    のでございます」
    そう言うと老爺は座していた席をはずし、青年に向かって深く深く頭を下げた。
    剣士としての新たな命、それが士のカードを差すとはすぐと知れた。ウェイ老の士、そ
   れは自ら剣を取ることの叶わなくなった師に、弟子――当時は皇太子であった現皇帝――
   が与えた、絆の一枚だったのである。
    ゼネスは、自分の横に居る士をあらためて見直した。土間に端座したクリーチャーは、
   皇帝を前にしても常と変わらず静かに呼吸(いき)して背筋を伸ばしている。
    「先生、今そちらに座っておいでの……“彼”がそうなのですね」
    眺める耳に青年の声も流れて入った。
    「ひと目でわかりました。かつて剣を取られたお姿そのままですね、お懐かしい。ただし、
    いく分かお若くなられたようですが」
    「ふふっ」と弟子が笑い、姿勢を戻した師もまた「ふっ」と笑んで返す。笑顔が行き交って
   座はゆるやかに和んだ。が、
    「先生」
    一度は和らいだ場を引き締めて、青年は切迫した声をあげた。
    「本日朕がこちらに参りました理由は他でもありません、先生に先帝の誤ちのお詫びを
    申し上げるためでございます。
     先帝は、元の大将軍をあらぬ罪に問うたばかりか斬刑と追放に処するという、大きな
    誤りを犯してしまいました。先帝亡き後、この誤りを正す役目は当然、後を継いだ朕が
    果たさねばなりません。
     お探ししておりました、即位しました時よりずっと。士のカードをお渡しできた、と
    かつてダリオから受けた報告だけを頼みに、先生はきっとどこかでタイハンをを見守っ
    ていてくださるはず――だと、そう信じてまいりましたから。それが、こたびの封禅の
    儀の直前になってようやく、お所を掴むことができました」
    そこまで述べると、彼もまた座から膝をはずした。
    「先生、いえ、元の西征大将軍ウェイ・ウー殿よ。朕はタイハン現皇帝として貴殿に正
    式に詫びを申し渡します。
     先帝のご裁断は誤りでした。功臣にあたら十八年もの永きに渡る苦痛を与えてしまい
    ましたこと、まことにもって遺憾の限りです」
    告げて、深々と頭を垂れた。後方の近侍も平伏した。
    「陛下」
    ウェイ老も応じた。その声は珍しく湿っている。
    「もったいのうございます。この老いぼれのために御みずからわざわざのご足労をいた
    だきました上に、ありがたきお言葉までをも賜りますとは。まことに恐縮と存じます。
     なれど陛下、この十八年というもの私にとりましては決して苦難のみではございま
    せんでした。むしろ、新たな剣の道を模索することのできた歳月とさえ思うております。
    甘き水が豊かに流れる地にたどりつき、多くの良き弟子をも得て、喜びと感謝のうちに
    日々を過ごさせていただいてまいりました。いずれも、陛下よりお授けいただきました
    カードの縁(えにし)でございます。
     私の方こそ、陛下のお心尽くしに心よりの御礼を申し上げます」
    白髪の頭がグッと下げられた。床につくばかりだった。弟子も師もしばらく、互いへの
   礼の姿勢を保ったまま微動だにしなかった。
    そして、ひと時を経て。
    二人が共に、ほぼ同時に頭を上げた。目を合わせ、また「ふふっ」と笑みをこぼした。
    「“甘き水が豊かに流れる地”でございますか。
     これはどうやら、先生には朕の目論見をはずす先手を打たれてしまいましたような」
    眉宇と口元に微苦笑をさざめかせ、青年はまた弟子の口調に戻っていた。
    「実はこの後先生にはシェン山の山城にご同道を願い、封禅の儀を執り行いました暁に
    は都にお連れするつもりでございました。
     されど……先生はこの地にお留まりになることをご希望なされておられるのですね」
    独りつぶやくように口にした。声の響きの内に、名残り惜しさが揺れている。
    「お気遣いは大変ありがたく存じます。なれどこの老体はすでに時代遅れの代物、新し
    き皮袋には新しき酒をこそ盛られるのがふさわしゅうございましょう。
     私といたしましては、引き続きこの地より陛下のご政道をお見守りさせていただきたく」
    返答し、老爺はもう一度深く頭を垂れた。極めて丁重な礼であった。
    「ホッ」と背後に吐息する気配を感じて、ゼネスもふと微笑した。これはジャクチェの
   ものだ。思いもかけない事の成り行きを見せられ、さらに時に親代わりでもあった(はずの)
   師が昔の弟子の元に去ってしまうのではないか――と、彼女なりの心配をしていたと見える。
    『慕われる師と慕う弟子、か』
    微笑ましく、同時に羨ましくもある。さまざまな記憶が行き来し揺さぶられて止まない。
   鼻の奥がツンとして酸くなった。
    居間では、師の返答を受けた弟子がさらに居ずまいを正した。
    「それでは朕はせめて先生にひとつのお約束をしまして後、こちらを辞することといた
    しましょう。
     そのお約束と申します事柄は二つございます」
    彼は顔を上げ、眉を引き締めて両の手を膝の上に置いた。
    「封禅の儀を執り行うて都に戻りましたらば、朕はまず先生の、元の大将軍ウェイ・ウー
    氏の名誉の回復をいたします。タイハン国皇帝の政道は過ちを正すことをはばからぬ――
    ことを、この身と言葉をもって天下に示してみせましょう。
     そしてもう一つ。北征の戦は正式に中止とし、軍を順次撤退させる旨の詔勅を発します」
    「なぁ……なぁ・……チェンフ」
    また後ろでモゾモゾと小声が聞こえた。ジャクチェがチェンフに何やら訊ねている。
    「今、帝さまがおっしゃったのって……北征の戦はもう止めるってことでいいんか? 
    なんかムツかしい言い方で、あたしにはよくわかんなかったんだけど……」
    「そうだ」
    少年も小声で短く返事した。さらに、
    「北との戦は止めて、軍も引き揚げるって言われてる。大事な話なんだからお前も少し
    黙って聞け――」
    話の中途、ゼネスの背後で誰かが立ち、そのまま横を駆け抜けた。ジャクチェだった。
    「帝さま!」
    居間への上がり口に齧りつき、叫んだ。先には尻込みした田舎娘が、今は必死の形相で
   雲上人に対している。
    「北との戦をお止めになるって、本当ですか? それ、本当に信じていいお話ですか?」
    「こら、失礼だぞ……止めろ」
    慌てて続いた少年が後ろから少女の衣服をつかんで引っ張る。それでもぐらぐら揺さぶ
   られるまま、山猫娘はまるで意に介そうともせずなおも問うた。
    「もう誰も見も知らない遠くになんて連れてかれなくっていいんですね? 行ったきり
    帰って来なかったり、帰ってきても同じ顔した人の中身がまるきり変わっちゃってるとか、
    そんなこともうなくなるんですね? そうなんですね?」
    彼女の声も、様相も、常とは全く違っていた。まさしく食らいつくような切迫そのもの
   だ、命懸けで思いのたけを訴えている――ことは手に取るようにわかる。
    青年の顔が悲しげに曇った。
    「貴女の言葉……その言葉が、わが領民の多くの正直な心中なのですね。ああ、朕は皆に
    あやまらなければなりません。北征はもともと、西征とは目的を異にした戦だったのです。
     西征は、古くより西方の領民を苦しめてきた異民族を打ち払い、また交易路を確保して
    国中に富をもたらすための戦でした。なれど北征は」
    「陛下、それは」
    青年の背後より近侍が心配そうな声を掛けた。
    「ここでそのようなお話をなさいますのは……」
    国の機密に関わる事柄を庶人の前で口にするのはどうか? と、彼は制したかったのだろう。
   だが、当の皇帝はその首を横に振った。
    「いえ、領民にも早晩明らかにせねばならないことです、このままお話を続けましょう。
     北征は国のごく一部の者……はっきり申さば先帝の寵臣たちの懐を潤すために企てら
    れた戦でした。
     『西征で追い立てられた異民族が北と結び、わが国をうかがっている。今度こそ彼ら
     を叩き潰し、ひいては北の地をわが国の植民地とすべきである』
     ――当時、一部の重臣たちが主張し先帝がお取り上げになった建白には、しかし実際
    には裏がありました。
     北の草原地帯を越えたさらに先にある山地、そこには希少な鉱物を産する鉱脈が眠っ
    ています。建白をしたためた重臣たちは彼らを支援する商人らと結託して、その鉱脈を
    我が物とすることを最終の目的としておりました。
     つまり彼らは、自分たちの私腹を肥やすために国の軍を使ったのです」
    「そんな、ひどい……」
    ぶるぶる、背を震わせてジャクチェが声を吐いた。絞り出したような声だった。
    国の力を濫用する寵臣たち――とは、さして珍しくもない。ゼネスならばそう聞く。だが
   若い二人にとってはそうではない、少年の背もまた震えていた。だけでなく、後ろから見
   える首すじまでが紅潮している、強い憤りの情によって。
    「あなたがたの怒りは正統です」
    苦く顔をゆがめながら、それでも青年は自らに向けられた視線を確かに受け止めていた。
    「先帝は北征の真の目的を見抜けぬまま、いたずらに十八年にも及ぶ永い歳月に渡って
    多くの領民を苦しめてしまいました。後継である朕は、その責を負わねばなりません。
    だからこそ北征は完全に終結させ、それと同時に国を無益な戦に駆り立てた者どもには、
    相応の罰を課する心積もりでおります」
    「陛下」
    じりり、膝行(しっこう:膝でにじり寄ること)しつつウェイ老が身を乗り出した。彼の
   皺寄った顔にも赤味が差している。
    「よくぞ難しいご決心をなされました。なれど先帝のご意向に反対することができませ
    なんだ責は、当時朝(ちょう:朝廷のこと)の末席におりましたこの私にもございます。
    どうかお一人でお苦しみにはなりませぬよう」
    「お心遣い痛み入ります、先生」
    見上げる師に、弟子は静かに微笑した。
    「思えば先帝は……長く皇帝位に就き過ぎました。たとえ朕の父が、先の皇太子が早逝して
    しまったからとはいえ、直系の朕の成長を待たれずとも、傍系のどなたかに位を譲られ
    てしかるべきだったのです。さあれば、寵臣たちの専横も避けられたはずですから。
     とはいえ、過ぎてしまった以上は何人も過去を直すことはできません。だからこそ、
    朕はあえて今を正します。
     朕も、この十八年の月日をただに手をこまぬいていたわけではありません。必要な証
    拠はすでに揃えました、あとは決断を公の形とするのみです。必ず成し遂げてみせましょう、
    この命を賭しまして、朕は先生にお約束を申し上げます」
    狭い屋に力強い言葉が響いた。と――
    「何だあの光は!」
    「本隊が控える方向だぞ!」
    「急ぎ合図の狼煙(のろし)を上げよ!」
    急に屋外が騒がしくなった、戸越しに近衛兵たちが口々に叫ぶ声が聞こえてくる。
    『何だ……!』
    ゼネスは急いで飛び出した。後ろに士とマヤも続く。
    果たして、優秀な騎士たちは護衛の陣形こそ崩さないものの、皆々緊迫した顔で背後の
   森を眺めていた。うち一人が手に持った紙筒に点火し、高く掲げる。すぐに紙筒からもく
   もく、濃い色の煙が上がって空にたなびいた。
    そこへ颯々とウェイ老の士が近づいた。
    「隊長どの、何ぞございましたか」
    肚に力を据えた、落ち着いた声で問う。最初に口上を述べた騎士がハッとして振り返った。
    「これは元大将軍閣下、お騒がせしまして申し訳もございませぬ。
     実は……つい先ほど後方の森で怪しい発光現象が認められました。それが、我らの本隊
    が控え居るあたりでございまして。そのため何事が起こったのか、ただ今本隊に確認を……」
    ――コォォォォォォォッ!
    突然の出来事だった。石でも打つような音と共に"力"の気配が満ちる。途端に足元の
   草から小屋の壁から屋根から「ゆらゆら」、煙に似た何かが立ち昇ってきた。
    「いかん、『除去(リムーブカース)』だ!」
    ゼネスは叫んだ。『除去』とは、場を支配するタイプの"力"を取り除く効果を持つ呪文だ。
   たった今煙となって去ろうとしているのは、つい先ほどまで小屋とその付近を守っていた
   『領地守護(ランドプロテクト)』の効果ではないか。このままでは、呪文攻撃の前に丸裸も
   同然となる。
    士が身をひるがえして小屋の戸口に走った、まずは"本丸(大将のいる場所)"を守らねば
   ならない。騎士たちも次々に小屋に駆け寄り、互いに盾を連ねる。さらにセプターの騎士
   が再びカードを取り出した、領地守護の呪を張りなおすために。
    「マヤ、敵だ、俺の傍に付いていろ!」
    思わず振り向き、弟子に呼びかけた。マントの下から彼もカードを一枚探り出す。が、
   弟子の顔を確認した挙動の分だけわずかに遅い。
    ――バシュゥゥゥッ!!
    一面が真っ白になった。誰もが意表を突かれた、強い光線が炸裂したのだ。一瞬目を覆い、
   そして開いた時には"異変"が生じていた。

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