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       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (5)


    「ゼネス、体がヘン、何だかピリピリする……」
    顔をしかめてマヤが訴える。自分の手や顔に指先で触れ、「ヘンだ」と言う違和を確かめ
   ながら。
    「……やだ、薄い膜でもついてるみたいな……すごくイヤな感じ。気持ち悪い、これ何?」
    「やられた……」
    うめいた。実はゼネスもまた同じ症状を感じている。取り出しかけたカードは措いて、別
   の一枚を懐にさぐる。
    「これは"遮断"の呪だ。このピリピリは一種の結界みたいなもので、こいつが消える
    まで俺たちはしばらく、呪文の力に限って取り出すことができない。呪文カードや呪文
    言語を使っても"力"に届かないんだ、厄介な手を使われた」
    弟子に言い聞かせながら、カードを掲げようとしていた騎士の方を見た。案の定と言う
   べきか、彼は真っ赤な顔をして手の先のカードを見つめている。ありたけの気力を込めて
   念じているようだが、カードはウンでもスンでもなかった。主の呼びかけに応じようとは
   しない。
    「無駄だ」
    声をかけ、急ぎ一歩を踏み出そうとした。
    「今の光を浴びてしまった以上、一刻の間は呪文を使えない。クリーチャーか道具のカード
    でしのぐしか――」
    ――ヒュッッッッ!
    風切り音が走った。それはゼネスの背後から来て左耳の真下を突っ切った。
    ブツッ
    鈍い音がした。一本の矢、それがセプターの騎士の首元に生え出ている。鎧の継ぎ目の
   わずかな隙間に突き立っていた。目の前だ、はっきりと見て取れた。「ぐらり」騎士の上体
   が揺らぎ、傾いて沈んでゆく。夢の中のような光景だった。
    「おい!」
    素早く駆け寄り、今しも崩れ落ちようとした肩を抱えた。鮮血がしたたって鎧を濡らす、
   騎士の眼は虚(うつ)ろだった、しかしまだ呼吸(いき)はある。
    「誰か!」
    小屋の周囲を固める騎士たちに向かい助けを求めようとした、瞬間。
    「ゾクッ」背中が疼(うず)いた。
    『来る!』
    「ゼネス!!」
    彼の直感と弟子の叫び、どちらがより早かったのか。『何が?』と考える暇(いとま)
   を省いて地を蹴り、抱えた相手もろとも横に跳んだ。背中の後ろに鋭い気配が迫る。
    そして、倒れ込みながらも首を捻じ曲げて――見た。
    寸毫の刻(とき)、白く円を描いた軌跡を。袈裟懸けに斜めに切断され、血飛沫を振りまく
   二つの影を。その影がすぐに光の粒子となって消えたのを。静かに立つ総髪の男、彼の背と
   刀身をなめらかに鞘に収める腕の動きを。
    直後、男の脇に大きな黒い犬が飛び込んできた。かれはゼネスと森との間に立ちはだか
   った。先刻の「気配」は、ウェイ老の士に倒された敵方のクリーチャーのものだろう。
    「ゼネス、危ない、早く!」
    弟子の少女も駆けて来た、時おり首を後に振り向け背後に注意しながら。矢はそこから
   飛来したのだ。
    他の騎士たちも三人ばかりがやって来た。てんでに腕を伸べ、傷ついた仲間の身を起こし
   引きずるようにして小屋に急ぐ。
    「その方を早急に我が小屋へ」
    士も彼らに手を貸していた。
    「今はちょうど私の元に山の民の娘がおります、傷の治療の知識も持ち合わせる者なれ
    ば必ずお役に立ちましょう」
    「マヤ、お前も小屋に行け、ジャクチェと一緒にあの射られたセプターの手当てをする
    んだ。キュアー(治癒の呪文)が使えないだけに大変だぞ」
    ゼネスも、起き上がるより先に弟子に指示した。
    「わかった。でもゼネス、ひとつだけ。
     これって……もしかして……」
    立ち上がろうとする師の肩に手を添え、弟子は声を潜める。
    「暗殺? 帝さまの」
    「だろうな」
    即答した。
    「現皇帝は先帝の寵臣たちを一掃する気だ。その先手を打って、寵臣一派が皇帝の首を
    すげ替えようという算段だろう。これは負けられんぞ」
    立ち上がったゼネスはすぐさまカードを一枚取り出し、掲げた。光の中から飛び出した
   小さな影――はしなやかに走って行き、小屋の扉を開けた騎士たちの足元から部屋の内に
   滑り込んだ。緑色がかった灰色の毛皮をまとった妖精猫が。
    それと、ほぼ同時だった。
    ギュイイィィッッ!!
    小屋の直上に衝撃音が炸裂した。屈強の騎士たちも思わず、盾をかざしてその場にしゃ
   がみ込む。何かが壁にでもぶち当たったような音、次いで、
    ――ドドォンッ!
    やや離れた畑地で土煙が高く上がった。
    「今のはマジックボルトによる攻撃だ、だが心配ない」
    ゼネスは胸を張って声を上げた。
    「俺がカードから妖精猫を出しておいた。そいつはあらゆる呪文の攻撃を受け付けない
    クリーチャーだ、今も電光の矢を弾いたのはその猫の能力だ。そのまま小屋の天井裏に
    でも押し込んでおいてくれ、領地守護の替わりになる!」
    告げ終えた時にはすでにして次の行動に移っている。士に斬られ、消えた影が居た辺り
   に走った。彼に続こうとする騎士がいたが、
    「来るんじゃない! セプターの相手はセプターにまかせろ!」
    叱咤して退けた。魔犬だけが彼に付き従う。
    「気をつけろ」
    低く声をかけ、草の葉の間をのぞき込む。――と、やはりカードが二枚。黒魔犬が首を
   伸べて鼻先を近づけようとした。
    と、突然空間が歪んだ、犬の脇腹近くで。
    「避けろ!」
    怒鳴った。その彼も声を放った瞬間には大きく斜め前方に跳んでいる。背中が灼ける、
   宙に「孔」が空き真っ赤な炎が流れ出た。「ガオオオッ!」マントの端をかすめてよぎる。
   攻撃呪文「地獄の業火」の効果だ。
    辛くも避け得た。魔犬はどうしたか、とうかがえばかれも無事である。いつの間にか、
   脇腹に半透明の円盤型の盾を装備していた。
    「マジックシールドか。ずい分と具現化が速くなったな」
    苦笑いした。マヤは小屋の中にいながらにして、一瞬のうちに魔法盾を出して犬に付け
   させたようだ。
    だがゼネスの笑いはすぐさま引っ込められた。
    パァァッ……。
    草むらの中でカードが輝いた。主のセプターによって再び魔力を注がれ、光の中から黒っ
   ぽい人の影が立ち上がる。
    「ヒュッッッ!」
    目の先鼻の先で続々、風が唸った。矢だ、矢が飛んで来る、迂闊に出られずさらに下が
   った。この援護を受け、カードから現れた影は次々にトンボを切って後方のヤブに飛び込ん
   でゆく。夜のように黒く疾風(はやて)のように速い、軽々とした身のこなし。
    「こいつは――忍(しのび)だ、また厄介なヤツが」
    額の汗をぬぐった。「忍」はカードのクリーチャーのひとつ。人間社会の「隠密」の姿を
   象り、極めて俊敏な動きを誇る。刀剣はもちろん、手裏剣、弓矢、呪文といったありとあら
   ゆる攻撃手段に通じた、まさしく戦闘の専門部隊と呼ぶべき存在である。
    「さっきの炎も今矢を射たのも忍か、だとすれば……少なく見積もっても四〜五体はいる
    見当だな。ええくそ、俺一人の戦いならともかく、皇帝以下あの一般人の騎士どもまで
    かばい立てしながら忍と戦り合わねばならんとは、何と面倒な」
    歯噛みして忍の消えたヤブをにらんだ。忍は士と同様、高い戦闘能力を持つ代わりに
   扱いの難しいクリーチャーだ。それを皇帝の暗殺という難事業にあえて使ってくるからには、
   敵方のセプターも相応に優れた手腕を持つと見なければなるまい。しかも、カードの力は
   それを駆るセプターの魔力が続く限り、消されても何度でも現れる。表に出てくるクリー
   チャーを叩くだけでは、いずれ此方がジリ貧になるのは目に見えている。
    『ただ、救いがあるとすれば騎士たちのあの鎧か……』
    チラリ、小屋の周囲を固める一団を見やった。彼の左眼は、近衛兵たちが着用する鎧から
   発せられる微かな光を認めていた。これは魔法力の放出だ、さっきの業火のような、個人を
   目標とする呪文の攻撃を防ぐ処置を施されている証左である。言わば、彼らは今の魔犬と
   同じく魔法防御の盾を装備した状態なのだ。
    『あれがあるから、忍も呪文攻撃の他に弓矢を併用しているのか。さすがに身内から出た
    敵は事情通だな』
    考えを廻らせる。その耳にどよめきが入った、後方(小屋周辺)からの声だ。
    「何だ?」
    振り向き、目を見張った。
    「む――!」
    斜面の下、畑地を上がる道の中ほどで奇妙な紫色の光があふれ、大きく輪を作っている。
   あれは呪文効果の発現のしるしではないか、そしてゼネスはその「意味」を知っていた。
    『これは……マズい!』
    汗が噴き出た。焦りの汗だ。輪の中に人の影が見える、鎧を着け白刃を下げた大勢の――
   数十名はくだらない――剣士の姿が。
    「"アポーツ"だ、敵の増援だぞ!」
    叫んだ。その時には呪文の光は消え、出現した剣士たちが斜面を駆け上っていた。畑の
   作物を踏みしだき、手に手に剣を振りかざして。
    そういう作戦か――と、ゼネスも心得た。「アポーツ」とは、術の使用者の元に一瞬で
   任意の人や物を引き寄せる呪文だ。敵はこれを自軍の増援に使ったのである。屈強の近衛
   騎士団に対し、前面からは武器で襲い、背後からは忍の正確な射手で弓撃つ。万全な、あま
   りにも磐石の備えではないか。
    「どうでも皇帝の首を獲りたいか。しかしやらせはせん、この俺がここにいる限りはな!」
    敵方の決意を目の当たりにして、しかしゼネスの胸内にはふつふつと闘志が湧いた。
    「面白い、受けて立ってやるぞ。まずは忍ども、こいつを食らうがいい!」
    その場に仁王立ちとなって、彼はカードを数枚取り出し掲げた。大きなまばゆい光球が
   招来され――やがてゼネスの前に二つ、常人の三〜四倍はある大きな人影が出現した。材木
   のように太い腕と脚、隆々たる筋肉に覆われた胸に腹、彼らは巨人であった。赤い肌と青
   白い肌、対照的な巨躯が草むす大地を踏んで「むくり」起き上がる。
    ゴゴゴォォォッ!
    風が起こった。乾いた熱風と雨混じりの旋風、巨人たちがまとう二つの風。互いにぶつ
   かって荒れ狂う。そして「ズシリ、ズシッ」地響きたてて彼らは森に向かい突撃をかけた。
    「おおおおオォォっ!」
    巨人たちはまず、手近に生えていた樹の幹をつかんだ。人の胴体より太い幹回りだった
   が、そのまま腕を軽くひねるようにして根元から引き抜いた。「ザザザァァ……」枝が葉が
   大きく揺らぎ、土まみれの根から土砂が散る。
    「行け!」
    引き抜いた樹を肩にかつぎ、巨人は木立の奥を見据えた。そこに忍たちが潜む暗がりを。
    ――ヒシュッ!……ヒュッ!
    また矢が来た、木陰から葉の間から次々と。しかし巨人の肌に人間用の弓矢など通用は
   しない。当たっても刺さることなく落ちるだけだ。
    と、不意に彼らの身辺でまた"孔"が空いた。"力"を吐き出す空間の歪みが。
    「なんの!」
    しかしそんなことは計算済みだ、ゼネスはすでに取り出しておいたカード二枚を掲げた、
   彼の手先から光がほとばしる。
    一方、"孔"からは朱炎が放たれた。「地獄の業火」、炎の舌が巨人の体躯を舐め焦がす
   ――よりも一瞬早く、太い胴体を輝きが包んだ。光は速やかに具現化し、分厚い鎧が巨人の
   巨躯を覆う。これは「プレートメイル」、硬い鋼製の防御の力。熱になぶられてなおクリー
   チャーの活動を守る。
    赤の巨人、青の巨人は問題なく共に足を進めた。のしのし、遠慮なく木々の間に踏み込ん
   で行く。そして「ぶうん、ぶん」かついでいた樹を振り上げ、力まかせに振るった。
    ガザザザザ……ズザザザザァ……!
    森が揺れる。木々の枝や梢が打たれて騒ぐ。日々の静寂を喧騒に変え、巨人たちは容赦
   なく攻勢を続けた。忍が潜み隠れる葉陰を、木の下闇を、メチャクチャに引っぱたき引っ
   掻き回す。敵方もこれにはさすがに閉口したか、矢の射出も呪文の攻撃も止んだ。
    「よし、これで後方は押さえたな。
     マヤ、俺はこれから下で近衛騎士団の手助けをする。お前はここで巨人たちの補佐を
    してくれ」
    黒魔犬に指示した。このままここで巨人を適当に暴れさせておけば、とりあえず近衛騎
   士団が忍の矢の脅威に晒される危険度は下がるだろう。さらに、クリーチャーに同じ動作
   を繰り返すよう調整を施しておけば、ゼネスもしばらくは彼らから離れて別の作業につく
   こともできる。
    ひと息つき、振り向いた。その耳はだが、すでに金属の打ち合う響きを聞きつけている。
    小屋の下方で、近衛騎士団と増援部隊の白兵戦が始まっていた。



    坂の上からざっと見たところ、騎士たちは善戦していた。人数こそ敵方に劣るものの、
   集団の動きはよく統率されて隙がない。互いの盾を連ねて押し立て、敵の突撃に耐えなが
   ら長剣の刺突を繰り出す。白刃が糸を引くたび悲鳴が上がった。
    さらに、一名の"遊撃軍"が敵陣の中を縦横に駆け巡っていた。
    総髪、たっつけ袴の"彼"は鎧も着けない軽装のまま、細めの鉄棒を手に押し寄せる剣士
   の群れの中をひとり馳せていた。林立つ白い剣の数々を右に左に打ち払い、叩き、殴る。
   敵の刃は一つとしてその身に届かず、このたった一名の働きによって敵陣は引き裂かれ、
   一方的に隊の足並みを乱されていた。もちろん、ウェイ老の士のしわざである。
    「さすがだな」
    思わず笑みをこぼし、ゼネスもまた山の斜面を駆け下った。腕が鳴る、血がたぎる、ここ
   で遅れを取ってはいられない。
    「来い!」
    敵軍に向かって呼ばわった。彼の闘志に引き寄せられたのか、数名の剣士が走り上ってきた。
    「よし!」
    カードをかざした。光があふれ、中から三つの人影が出づる。輝く甲冑に身を固めた騎士、
   各々の手に隼の剣を握って身構えた。そこに敵は躊躇なく飛びかかってきた。
    ――キンッ! カンッ!
    高い金属音と共に、しかし彼らは一瞬のうちに全員が跳ね飛ばされた。目にも止まらない、
   彼ら自身、何をどうされたのかわかっていなかっただろう。草の上に横倒れ、あるいは尻
   餅をつき、てんでに驚愕を浮かべている。だがそれでも、次の瞬間には再び立ち上がって
   きた。すでに戦いを始めてしまったのだ、彼らが皇帝を狩らなければ、いずれ彼らの主が
   皇帝に狩られる。食うか食われるか、これは敵にとっても「後のない」戦いなのだ。
    ゼネスはさらに懐よりカードを一枚抜き出し、掲げた。その右手に大剣・クレイモアが
   出現する。無論のこと、これは彼本人の得物だ。この乱戦の最中(さなか)にあっても、
   ゼネスはクリーチャーの後ろに隠れているような男ではない。自分の騎士たちの先頭に立
   ち、敵陣のただ中に切り込んだ。
    「ガキンッ!」
    振り下ろした大剣の下、打ち合わせた長剣の刃が砕けて折れた。真っ向から飛び込んで
   きたゼネスの剣を、敵方の一人が果敢にも受けた、これはその結果だ。折れた剣の持ち主
   は姿勢を崩し、よろよろと後じさりした。が、そちらは無視してゼネスは肩をそびやかせ、
   "次"の相手を探す。
    また一人が立ち向かってきた。これも大剣を無造作に横薙ぎにしただけで剣を弾き、泳
   いだ腰を蹴り飛ばして転がした。今度は二人がかりで前後から挟み撃ちしてきた。が、素
   早い突きで前の者をひるませ、その隙に反転しざま後からの攻撃をかわして剣の柄でしこ
   たま相手の鼻面を殴ってやった。何ほどのこともない。その後も打ちかかって来る者来る
   者いずれもことごとくを撃退した(さらに、彼の騎士たちも主の周囲で激しく戦っている)。
    いったい何本の剣を折ったのか……は、だがゼネスにとってはどうでもいいことだ。
    『もっと手強いやつはいないか?』
    それのみ求めて敵陣を駆けている。頭を上げ、金赤の竜の眼で睨(ね)め回した。彼を
   囲んでいた人垣がスッと遠のき、息を潜める。
    『腰抜けめ』
    少しイラついてきた、怖気づいた相手などつまらない。こちらの闘気に押されるばかり
   で押し返してくる手応えが無いのでは、およそ「戦い」とは呼べない。
    「どうした、これでもう終わりか、貴様らは」
    大きく声を張り上げた。それでも、ぐるりは皆々首をすくめて足踏むばかり、あえて踏み
   出そうとする者はいない。彼らが構えた剣は今や飾りでしかないようだ。
    「ちっ、張り合いの無い」
    思わず舌打ちさえした。その時、
    「――ウェイさん!」
    呼び声が耳に入った。敵の後方、斜面の下から畑道を駆け上がってくる十数名ほどがいる。
   口々に老剣士の名を呼ぶ彼らは村人たちの一団だった。朝の野良仕事に出て来て、ウェイ
   老の住居の異変に気づいたのである。もちろん、皆は手に杖を握りしめていた。振り返っ
   た剣士たちの背に一層の焦りが浮く。
    「これは"勝負あった"だな、こっちは」
    気落ちしたかのような敵の様子を目にして、ゼネスは急速に敵兵相手の戦闘に対する興
   味を失った。勝ちに乗じて落胆した敵を叩いたところで、何の面白みがあるだろう。大胆
   にも背を向け、大剣を下ろした。それでも襲ってくる者はいない。
    「これなら、後ろの森で忍どもの相手でもする方がマシだな……」
    ひとりごち、上へと足を踏み出そうとした。
    その背に、覚えのある独特の気配が射し入った。
    「――なにっ!」
    慌てて振り向いた。目に見えたのはまたしてもあの紫色を帯びた輝き、この度は山の下
   の水田付近に輪を広げて黒々と人の群を吐き出す。
    「アポーツ、また増援か!」
    しかも、現れた新たな敵の得物は剣ではなかった。引き金の付いた強い弓、「弩(ド)」を
   皆が手にしている。彼らは弓兵なのだ。
    『むむぅ……』
    唇を噛んだ。血がにじむほどきつく噛んだ。
    『やつら、こっちの動向を見ながら対策を打っている!』
    そのことだ。敵方に戦局の全体を正確に把握している者がいる。敵の当初の作戦は、忍
   との挟み撃ちで近衛兵を叩くというものだった。それを意外な伏兵によって崩されたものの、
   すぐさま作戦の軌道修正を計ってきたのである。すなわち、剣に対する弓。近距離斬撃に
   対する遠距離射撃。この対応は、敵方の中枢が戦いの場を冷静に見つめているという証し
   ではないか。
    (さらに言えば、敵の兵士たちも効果的な増援を期待していたふしがある)
    「これは相当に戦慣れしたヤツがからんでいるな、やはりセプターが中心にいるのか?」
    疑問が浮かぶ。が、ひとまず振り払って懐に手を突っ込んだ。弩の破壊力は高い、射撃
   に耐えうる「壁」が早急に要る。大盾を持つ近衛騎士たちはともかく、士も村人たちも(そし
  てに彼自身も)防御は丸裸に近いのだ。弓兵らがここに駆けつけて斉射が始まるよりも先に、
   何とか此方も対抗手段を整えておかねばならない。
    「親兵どのたちの後方に回りなさい、早く!」
    ウェイ老の士も飛んで来た。加勢に来た村人らに後退の指示を与える、彼もいち早く弓
   兵の出現に気づいたのだ。さらに自らは、増援のおかげで急に勢いづいた敵兵士の先方を
   抑えにかかった。鉄杖を軽々と取りさばき、目にも留まらぬ速さで向かってくる剣を次から
   次へと叩き、折り、突く。およそ疲れというものを見せない奮迅の働きだ。
    しかし――その戦いをよそに、弓兵たちは弩を担いで陸続と斜面を上り、近づいてきた。
   だが士の戦闘を横目に、ゼネスは未だ懐を探っていた。視認はせずとも、カードに触れる
   指の先から各々の「情報(カードが呼ぶ力)」は流れ込んでくる。"あれ"ではない、"これ"
   でもない……今彼が求める"力"はただ一つ。
    「あった! これだ!」
    二枚を抜き出し、高く掲げた。頭上に輝きが広がり、彼は士に呼ばわった。
    「ウェイ師、貴兄も後退してくれ、今からそこにクリーチャーを出す!」
    士が身をひるがえして退った。その場所――敵と味方のほぼ境い目――の土の上に、まば
   ゆい光が招来される。それはたちまち渦を巻き「ゴォゴゴゴォォ……」音たてて大きく立ち
   上がった。土を巻き上げ草の葉を引きちぎり、天を目指して伸びる。旋風の「柱」が二本、
   伸び上がる。それはもののついでとばかり敵兵士の何人かも巻き上げ、遠く畑土の上にま
   で吹き飛ばした。さらにぐねぐねと身をよじり、咆えた。洞窟を吹きぬける強風にも似た
   咆哮だった。正しく「壁」、生きた「風の壁」だ。
    「見たか、竜巻(ハリケーン)の威力を!」
    敵の剣士たちが慌てて退き、その前に到着した弓兵たちが隊列を整えた。展開した様子
   をざっと見る限りでは三〜四十人はいるようだ。彼らは片膝をつき、射撃の準備を始めた。
   弩に矢をつがえ、弦の巻上げ機を「キリキリ」と巻いている。これで太く強い弦をしっかり
   と引っ張るのだ。
    「くそ、堂々と悠長なまねを。電光の矢でも使えればあんな奴ら、的(まと)でしかない
    ものを……」
    覚えず歯軋りした。セプターの戦法は、以前に湿地の砦で守備兵たちと戦った際のよう
   にクリーチャーと呪文を併用するのがその真骨頂だ。しかるに、今は「遮断」の呪のおかげ
   で此方は呪文効果を現わすことができない。彼は敵兵が着々と攻撃準備を整える様を、指を
   くわえて眺めるしかないのである。
    「キリキリ……」巻上げ機の音はなおも続く。ゼネスは自らの二体の竜巻に意識を集中
   させた。
    「ドドドドドド……」
    渦の柱は互いに競うように風の回転を速め、土を穿つ。右巻きと左巻きの強風がゴォゴォ、
   時にぶつかり合い絡み合って大気を軋ませる。そうして彼らは遠からずやってくる「矢」の
   雨を待ち構えた。
    ついに、
    「てぇ〜〜〜ッ!」
    指揮の合図を受け、「バシュッ!」「ビュイーンッ!」「バシュッ!」強い発射音がこだまし
   斉射が始まった。
    ヒョォッ――ヒョォッ……!
    弩の矢はほとんど一直線に突き進んで飛ぶ。横一列に唸りが空を裂き、風の渦を襲った。
   だが竜巻は残らず矢を受けた。後ろに通すわけにはゆかないのだ、盛大に土砂を巻き上げ
   て矢を絡め取り、あるいは叩き落した。渦を貫いた矢は一本もない。
    しかし、斉射は無論一度では済まなかった。矢を放った射手の列はサッと立ち上がって
   後方に退き、すでに準備のできている次の射手の列と交代した。こうして四列ほどの射手
   が順繰りに前に出て来ては射撃を仕掛けてくる。「バシュッ」「バシュッ」「ヴィーンッ」
   旋風をへだててなお耳に届く発射音、竜巻も負けじと咆えて大きくうねった。――だが、
   間断のない攻撃を何度も受けては、強固な風の壁と言えどどれほどの時間保つだろうか?
    『むむ、こちらも第二陣の壁の用意が要るか……』
    再び懐中に手を入れた。そのゼネスのマントに急に、軽く引っ張られる感覚が来た。彼が
   よく知っているこの加減は。
    「何だ、今取り込み中だ、後にしろ。それとやたらに持ち場を離れるな、マヤ」
    後ろも見ずに答えた。が、途端に今度は左腕を取られた。黒い犬が大きなアゴにしっかり
   と二の腕をくわえ込んでいる。ズルズル、そのまま力まかせに引きずられた。
    「チッ」
    舌打ちし、仕方なく魔犬の首を軽く叩いた。「行く」という意思表示である。そして犬が
   左腕を離すとすぐさまその背に飛び乗った。



    魔犬が駆け向かった先はウェイ老の小屋だった。周囲を固める近衛騎士たちを飛び越し、
   戸の前に着地すると同時に計ったように開いた。ゼネスは犬の背から飛び降りざま、中に
   駆け込んだ。
    「ゼネス」
    戸を開けたのは弟子の少女だった。薄暗い屋の内に顔が浮かんでいる。その顔はいやに
   白く、そしてとび色の眼ばかりが光っていた。彼は視線をそらせた。
    聞きたくない。彼女がここに師を呼びつけて何の決心を伝えようとしているのか――は、
   彼にはすでに見当がついてしまっている。黒犬に腕を取られた瞬間、胸中にひらめいた。
    そのまま黙っている。横にそらせた目は、自然と土間の上がりかまちに横たえられた一
   人の男の上に留まった。セプターの近衛騎士であった。彼はのど首に血止めの布を巻かれ、
   頭部のすぐ横にはジャクチェがしゃがみこんで何やら熱心に手を動かしている。
    「ゼネス、聞いて」
    また、弟子の声がした。断固とした調子だ、「見当」が「確信」へと昇格する。聞きたく
   ない。だが今は非常時だ、いつまでも耳を貸さないわけにもゆかない。
    話すため、ただちに口を開こうとした。が、弟子の発話はそれよりわずかに早かった。
    「私、ネズミを使う。決めたの、今ここから逆転するためにはそれしかないと思うから」
    ネズミ。かつて稀代の"ネズミ遣い"オズマから譲り受けた大量のネズミのカード。それ
   を使い戦場にネズミの大群を再現する、マヤはそう言っている。しかし、
    「ダメだ!!」
    ゼネスは大声で否を発していた。考えるよりも先に声が出た、竜眼で弟子をにらみつけた。
    それでも、少女は退かなかった。
    「でも他にどんな手があるの? 本隊の人たちはどこかに飛ばされちゃったみたいだっ
    てウェイさんが言ってた。もう一度ここまで戻って来るのにあとどれぐらいの時間がかか
    るかなんて、誰にもわかんない。なのにただ耐えてるの? ジワジワやられてくの目に
    見えてるのに。だったら私も戦う、ネズミで押し返す!」
    「ダメだ!」
    食い下がる弟子に、師はもう一度「否」を返した。赤いぬかるみが目の前に広がり、見える。
   以前に目にしたおぞましい光景、足の裏に踏んだ言いようのない感触、全てが生々しく脳内
   によみがえる。怫然、腹の底から何かが込み上げてきた、それはのどを走り抜けて一気に口
   からほとばしり出た。
    「黙れ!」
    叫んだ。
    「何が『戦う』だ、出てくるんじゃない、ここに居ろ!
     お前はここで人助けをしていればいい、人殺しなら俺がやる、俺だけで充分だ。一対
    一のカードの戦いならともかく、こんな乱戦の中で殺し合いをさせるために俺はお前を
    ウェイ老に付けたんじゃない、いいから引っ込んでいろ!!」
    「ハッ」と息を引く気配があがった。とび色の眼、彼の目のすぐ下に見える瞳孔が大きく
   広がり、言葉を呑み込む。一瞬の沈黙が師弟の間を支配する。
    だがそれでも、ひと呼吸の間を置いただけで少女の唇はいったんは呑み込んだ言葉を吐
   き出した。
    「どうして?! 私言ったじゃない前に、もうあなたばかりを汚れ役にはしないって。
    だから私も戦う!」
    ぎらぎら、激しさをたたえて師を見上げる。ゼネスはすかさず腕を突き出し、弟子の手
   をつかんだ。
    止めたい。これは固い決意の証しの眼だ、こんな眼をした者がたやすく心をひるがえす
   はずがない。止めたい、だからこそ止めたい、止めなければ。
    朱(あけ)がぶちまけられる前に、マヤが朱に染まってしまう前に。つかんだ腕に力が入る。
    『このまま当身を食らわせて(気絶させて)でも俺は……』
    「ゼネス殿」
    不意に「声」が来た。別の声が二人の間に割り込んできた。
    振り向いた、声の源に。静かだが清しい声、視界を覆っていた朱赤が吹き払われるような。
   気がつけば、ウェイ老の顔がすぐ傍にあった。

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