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       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (6)


    「その、マヤさんが言われる"ネズミを使う"戦法がいかなるものであるか――は、私には
    うかがい知れませぬ。なれど、ただ今の我らの状況をくつがえす手立てならば、実はこの
    私にも腹案がひとつございまする。
     ひとまずはそれをお聞き願えますかな?」
    そう言って、老顔はにっこりと笑う。虚を突かれ、ゼネスは慌てて弟子の手を離した。
    「これは失礼をいたした。皇帝陛下の御前で大声を発するとは、我ながら見苦しい振る
    舞い、お詫びを申し上げる。
     して、貴兄の腹案とは?」
    声を落として訊ねた。ウェイ老は居間を振り返った。
    「シェイ=ヤン殿」
    「何でございましょう?」
    呼ばれて、皇帝の近侍は皺を刻んだ額を緊迫させた。
    「今こちらにタイハン皇帝の玉体がおわしますからには、神龍もまた必ずや共にござい
    ましょうな?」
    あくまでにこやかに、さらりと問うてのけた。
    「それは……もちろん当然のことにございます」
    近侍は心持ち背を伸ばした。
    「"神龍は常に皇統と共にあるべし"――わが国では古(いにしえ)よりそう定められており
    ますからには。カードはただ今、不肖私めがあずかっております。そら、これに……」
    彼は懐を探ると、黄金色の布の包みをひとつ取り出した。そして、布を払い中から出てきた
   「箱」を手のひらに乗せて見せた。それは薄い四角い象牙製の箱で、表一面にびっしりと
   繊細な浮き彫りがほどこされている。近侍の手がそっと蓋を取った……そこには一枚のカード
   が密やかに横たわっていた。
    「おお、神龍……」
    ゼネスは思わず身を乗り出してのぞき込んだ。未だカードの姿でありながらすでにして
   "力"を発散している。まるで滝のしぶきが降りかかってくるかのような、清冽の感触が
   ひしひしと肌身に伝わってくる。まことにこれは並のカードではない。
    『遣い手と条件によっては神をも凌ぐ力を発揮する霊獣か、確かに……』
    ごくり、唾を呑んで見つめる。「神龍」は水の精霊力を活力とするクリーチャーだ。その
   ため、精霊力によく通じたセプターがこれを扱った場合には格段の力を発揮することがで
   きる。一説に、それは四柱の精霊神の力をも凌駕すると言われていた。強力なカードの常
   で極めて数は少ないものの、使うことさえできれば劣勢からの挽回・逆転も十分にあり得る、
   爆発力を秘めたクリーチャー・カードである。
    「神龍は一体で数十万の軍勢にも匹敵する、とわが国では言い伝えられております。謀反
    を計った者どもも、竜神の顕現を目の当たりにすれば、その威に打たれてたちどころに
    陛下の御前にひれ伏しましょう。
     ――ただ、これを扱える者が今は……」
    説明しながら、近侍の目は土間を見やった。そこに寝かされ、人事不省のまま傷の治療
   を受けている男。それが本来はここにある神龍のカードを担当するセプターなのだと、その
   視線は語っていた。
    『なるほど、それで忍どもは真っ先にあの騎士からつぶしにかかったのだな』
    納得した。敵は皇帝側に神龍を出させないためにこそ、まずはそれを遣うことのできる
   セプターを叩いたのである。
    「いえ、ご懸念には及びません。
     神龍を扱える方ならば、ここにもおられます」
    近侍の沈んだ顔に向かい、力強く告げたのはウェイ老だった。いつもと変わらぬ爽やか
   な口跡で、微笑を含んで。
    「なんと、それは……まことのお話でございますか?」
    驚きを隠さず、近侍は老剣士と主(皇帝)の顔を半々に見た。ただし、皇帝の方は唐突な
   提案にも動揺することなく、いたく落ち着いている。
    「ゼネス殿」
    老爺は今一度竜眼の男を見上げた。そしてゼネスの眼と視線がかちあった瞬間、「ちら」
   と首を動かさないままマヤに目線を走らせた。
    『承知』
    ゼネスも目だけで頷き返し、さらに応えた。
    「元大将軍どののご指名にあずかるとは光栄だ。ただ、神龍の力を最大限に発揮させる
    ためには、遣い手のセプターが水の精霊力と大いに感応できなければならん。
     その点で言えば、実は師の俺よりもわが弟子の方が数段勝っている。そこでここはあえて
    弟子に神龍を遣わせたいと考える次第だが、よろしいか?」
    そう、問い返した(もちろん、体裁を整えるためだ)。するとはたして、
    「苦しからず」
    鶴の一声が返ってきた。タイハン現皇帝は鷹揚に、涼しい顔で下知した。
    「元大将軍の進言を用います。シェイよ、神龍をそれなる御人に渡しなさい」
    命を受け、初老の男は居間から土間に下りてうやうやしくゼネスの前に小箱を差し出した。
   が、ゼネスとしてはカードを受け取るよりも先に確かめねばならないことがひとつある。
    「"水の護(まも)り"はお持ちか? 神龍の力を十二分に引き出すためにはぜひとも入用
    な品だ、ここに神龍があるならば水の護りも共にあるはずと愚考するが?」
    「おお、それならば朕のもとに」
    そう言って、皇帝は襟元に手をやり何かを引っ張り出した。首飾りであった。細い鎖の
   先に、澄んだ水の色をたたえた石が一つ下がっている。その大きさは鶏の卵の半分ほど
   で、しずくの形をしていた。
    石はいったん近侍の手に渡ってから、あらためて神龍と共にゼネスの前に差し出された。
    「それでは、謹んでお借り申そう」
    ゼネスも丁重に頭を下げてカードと石を受け取った。そして、すぐさま弟子に向き直った。
    「マヤ」
    呼びかけ、少女の顔――驚きととまどいを浮かべた顔――をのぞき込む。彼は、弟子の
   前にカードを差し出しておごそかに話しかけた。
    「いきさつは聞いていたな、これからお前にはこの神龍のカードを使ってもらう。さあ、
    手を出せ、カードに触れれば遣い方は神龍が自ずから教えてくれるだろう」
    告げて少女の手を取り、自らの手の上に導いてカードに触れさせた。
    「あっ……」
    指の先がカードに触れた瞬間、マヤは小さく声をもらして半ば目を閉じた。みるみる、うなじ
   に唇にほほに血の色が昇る。紅潮してかすかに震え、わななく。"力"を、彼女が神龍の"力"
   を感得している。
    やがて震えはおさまり、少女は閉じていた眼を見開いた。触れていたカードをつかみ取った。
    「わかりました、やります」
    「よし」
    ゼネスは受け取った石を持ち上げた。
    「これは"水の護り"、水の精霊力との感応を飛躍的に高める魔法石だ。神龍を遣う際には、
    まずはこの石に念じてこの地の全ての水から精霊力を引き出せ。より多くの精霊力と通じ
    合った状態で神龍を呼び降ろすことに成功すれば、お前は神にも勝る力を手にすることが
    できるだろう」
    言って、石を少女の首に掛けてやるべく近づけた。
    途端に、目の先に強い光があふれた。
    「ややっ!」
    その場にいた誰もが声をあげた、石が急に強い輝きを発したからだ。
    ――それは水の色をした光だった。涼やかな青味を帯び、煌々と屋内を照らし出す。うす
   暗かった部屋の中が、今は隅々まで手に取るようにはっきりと見ることができる。
    「すごい……」
    騎士の手当てをしていたジャクチェも、驚きのあまり居ながらにして振り仰いだ。
    「"水の護り"がこれほどの輝きで応じることがあるとは、朕も初めて目にしました。
    もしや貴女は巫女の血筋に連なる御方か?」
    皇帝もさすがにこのたびは顔色を変えて身を乗り出す。だが、
    「いえ……巫女だなんてそんな……そんないいものじゃないです、私」
    マヤはやや顔を伏せ、小声でつぶやく。その首に石を掛けてやり、ゼネスはそっと弟子の
   肩に手を置いた。
    「準備はできた、始めるぞ。
     ――む……」
    始める、と言ったものの急激に「違和」を覚えて彼は額を押さえた。苦痛が脳に差し込む、
   差し込んで断続的にひらめく、「光景」が。焼かれる胸、崩れ落ちる身体、巨人の最期。
    「忍どもを抑えていた巨人がやられた。まずいな、奴らが動き出す」
    顔をしかめる。と、
    「ならばこれからその忍らは火矢を放ってくるでしょうな、私が屋根に上って打ち払い
    ましょう」
    こともなげ、という調子で老爺が言葉を継いだ。そこへ、
    「それなら、俺がやります!」
    力んだ声が割り込んできた。進み出た顔を見てゼネスは驚いた。
    『チェンフじゃないか、まだここに居たのか?』
    彼は少年もてっきり「戦場」に出ているものと思っていたのだ。しかし、顔中を真っ赤に
   して鼻をふくらませているニキビ面を眺めるうち、老爺が彼を出さなかったのは「あえて」
   だな、と呑み込めた。
    『ウェイ老も、歳若い弟子を乱戦に放り込みたくなかったに違いない』
    わかる、そう思った。同時に何とはなし「ホッ」とする。
    「やってくれますか、チェンフ。ならば頼みましょう」
    皺多いほほをゆるめて師は弟子に言う。ゼネスも二人を祝福したくなった。
    「よし、少年、それならいいものを貸してやる!」
    彼はカードを一枚取り出し、掲げた。輝きの中から一個の盾が取り上げられる。それは
   マヤの黒魔犬が着けたのと同じ半透明の盾であった。
    「これはマジック・シールド、呪文による攻撃を防ぐ盾だ。相手は忍、お前が屋根に上れ
    ば火矢だけでなく必ず呪文攻撃も仕掛けてくる。だからこの盾を背中にでも装備しておけ」
    手渡した。ニキビ顔がこっくりとうなずく。
    「さあ、俺たちも行くぞ、マヤ」
    からりと戸を開け、飛び出した。すぐさま弟子も続く(マヤは師に遅れぬよう、黒魔犬の背
   に乗っていた)、「きらり」少女の首を飾る石が輝いた。この光は敵の目にも触れぬわけに
   はゆかないだろう、ことは急がねばならない。
    外に出た彼はまず、強弩に対峙する竜巻の様子をうかがった。
    二体の大旋風は風の勢いこそ出現時よりもやや衰えが見えるものの、しっかりと立ち塞
   がる力はまだ十分に残していた。次々、飛来する矢を巻き上げ、弾き返して防いでいる。
    さらに、今は近衛騎士たちも半数ほどがハリケーンの後方まで出て来ていた。大きな盾を
   並べて押し立て、クリーチャーが取りもらした矢を食い止めている。共同戦線の構えだ。
    『ありがたい、これならまだしばらくは保ちそうだ』
    そう判断し、一気に畑道を斜めに駆け上がった。いくつもの畝を跳び越え、畑の隣に広
   がる棚田を目指す。神龍を呼び出す場所に関して、ゼネスはウェイ老の小屋からはわざと
   距離を置く作戦を考えていた。急な山道を息つく間もなく駆け上がり、幾段も重なる水面
   の頂点に到達する。すくすく、生い育つ稲のただ中に踏み止まり、振り返った。黒魔犬に
   乗った弟子もすぐに追いつき、犬をカードに戻して師の傍に立つ。
    眼の下に老爺の小屋が小さく見える、その屋根上で棒を使う少年の影も共に。そしてさら
   に下方、展開する旋風と対する人の群れもはっきりとうかがえた。いやそれだけではない、
   ここからは村の全ての水田や畑、さらには遠くの山々までもが一望の下に見晴るかすこと
   ができた。何しろ、村内で最も高い場所にある田なのだから。
    「絶景だ」
    眺め、笑った。
    「神龍を呼び降ろすに、ここ以上に相応しい所もない」
    ひとつ大きく息を吸った。「来る」か? 感覚が騒ぎ立つ「敵は来るか?」と。目が、耳が、
   鼻が、肌が、肌に生えるうぶ毛の一本一本までもが「ざわざわ」ぞめき伸び上がって気配を
   探る。ここは水田だ、己れの姿を隠せるような何物もない。だが、それでも「来る」だろう敵は。
   ――いや、
    「来い」
    また薄笑いしてつぶやく。
    「来て見せろ、ここへ」
    闘志が走っていた。身体の芯から血中へ、骨へ、肉へ、駆け巡り漲る。強く、熱く、冷たく、
   鋭く、鎮(しず)かに、密かに。
    すぐに、ゼネスの官能はこちらへと近づいて来るいくつかの動きを捉えた。
    「用意しろ」
    ぴたり横に付いた弟子に示し、自らはカードを一枚掲げる。光があふれ、一頭の黒馬が
   現れ出て少女の傍らに立つ。そして、「バサリ」羽音をたてて黒い大きな翼を広げ、マヤの
   体を包み込んだ。翼で少女を抱きしめた。
    瞬間、彼らの頭上に朱の色が流れ出た。「業火」の呪文攻撃、しかしそれは黒馬に届く
   寸前で見えない壁にぶつかり、弾き返された。
    「無駄だ!」
    大きく叫ぶ。天馬はあらゆる呪文の効果を跳ね返す能力を持つクリーチャーだ、忍でこれ
   を叩くのであれば、直接攻撃を仕掛けるしかない。
    そう、「忍」が。彼らは「来て」いた。目には見えないが確かに居る、そこに、かしこに、
   刻々と所を移しつつ攻撃の隙をうかがっている。
    「カモフラージュ(:周囲の風景に溶け込む「迷彩」の呪文)を使ってきたか、ふん、想定内だ」
    また笑った。自然と笑みが浮く。
    『これでチェンフの負担は減らせるな……』
    彼らが小屋から離れた理由の第一は、忍たちの一部でもおびき出すためだった。戦い慣れ
   して見える相手だ、その勢力は出来るだけ分散させるにしくはない。
    ゼネスは懐からさらに二枚のカードを出し、掲げた。黒馬の体躯が光に包まれ、太い胴体
   の上に頑丈な鎧が出現し覆ってゆく。さらに馬の額の前髪の間からは、「ぬっ」とばかり長く
   鋭い一本角が生え出た。言うまでもない、これは道具カード「プレートメイル」と「クレイモア」
   の力を黒馬に"上乗せ"したのである。
    そして素早く馬の後方に回り込み、腰の短剣(呪文攻撃を反射する呪文をかけてある)を
   抜き持って弟子に呼びかけた。
    「よく聞け、マヤ。敵は神龍を扱えるセプターを真っ先に倒しにかかってきた。これは
    つまり、それだけ奴らが神龍の力を恐れているということだ。
     お前が持つ"水の護り"の光はまばゆい。俺たちの作戦は向こうもすでに承知で、これ
    よりは忍あたりが全力を挙げて阻止してくることは間違いない。
     激しい戦いになるだろう。だがお前の身は俺が守る、必ずだ。だからお前は神龍のこと
    だけ考えて集中していろ、わかったな」
    「ゼネス……」
    聞こえた。黒い翼の間からもれた声、小さな声を彼の耳は聞き逃さなかった。
    「ゼネスも、気をつけて」
    それだけ言うと声は消え、息を潜める気配へと変わる。そして重なり合う羽を透かし、
   水の色した光がいよいよ烈しい煌めきを放ちはじめた。石を通じ、マヤの精神と水の精霊
   力との交信が始まったのだ。
    『俺は負けん、お前のためにも』
    弟子に応え、胸の内につぶやいた。直後、彼の右脚は斜め前に繰り出された。黒馬も首
   を振って角を突き出した。幾つもの見えない影が、二人と一頭に殺到していた。


    突いた、斬った、踏み出した、反転した、また斬った、跳ね返した、突き飛ばした、蹴り
   倒した。
    敵の姿は見えない。否、彼がそもそも「見よう」とはしていない。ひたすらに「感じて」
   いる、感じ分けている。わずかな風のそよぎ、息の流れ、身体の温度、湿度、敵が腕を
   振るい足を踏み替える、その運動が招く微細な気圧の変化。
    敵の忍たちに付けられた「カモフラージュ」の効果は本来、視覚のみならず臭覚・熱感知
   までをもまぎらわせる高度な「迷彩」だ。しかし今、ゼネスの感覚は完璧に近く気配を消した
   はずの忍たちの存在を正確に把握していた。目・耳・鼻・口・皮膚・毛根――ありとあらゆる
   感覚器が総動員され、一瞬一瞬に情報を掻き集めて統合する。彼はすでに自分の相手が
   三体であることを知っていた。そして、敵の動きをつかむだけでなく予測もして、動きの先に
   剣を「置いておく」攻撃さえ実現した。剣を突き出す場所に相手が吸い寄せられ、打たれる。
   手練の忍たちを相手に一歩も引かぬどころか、むしろじり、じりと圧倒しつつあった。
    だが、
    「ウォォォ〜〜〜〜!!」
    怒号が響き渡った。音の固まりが斜面の下側から這い上がり、ぶつかってきた。
    「なに?!」
    忍との交戦に没頭していたゼネスも異変に気づいた。強引に剣をふるって一気に二体の
   忍を斬り倒し、いったんカードに戻った隙に足下をうかがう。
    「やや!」
    敵の剣士部隊がこちらに向かい、押し寄せて来ていた。確か当初は小屋よりもかなり下方
   に待機していたはずだ。が、それがただ今は旋風の壁を大きく迂回して、一散に此方を目指
   している。地面についた足の裏から「ドドド……」地響きの音さえもが伝う。
    「チィ、遠回りしてもこっちが優先か」
    舌打ちし、唇をゆがめた。敵方は忍だけではラチがあかないと、剣士部隊も合わせてここ
   で是が非でも神龍をつぶす決心を固めたらしい。
    『また壁が要るな……』
    ゼネスは内懐に手を突っ込もうとした。ハリケーンのような、相手の進行を食い止める
   働きを持つクリーチャーを早急に出さねばならない。
    「ん?」
    だが手は止まった。走り迫る剣士たちの足並みが急に乱れ、隊列がバラけた。キラキラ、
   振り回される白刃の光があちこちに見える。さらにはその刃を、また剣士たちをも叩き飛ばす
   黒々とした旋回の影も。
    「ウェイ老……村の皆も!」
    士と、彼に率いられた村人たちとが敵軍に追いすがり、突入してきたのだった。「足止め」
   を自ら引き受けてくれた格好である。
    『ありがたい!』
    熱く血潮が沸いた。ゼネスの心身を、かつて経験した覚えのない感動が駆け抜ける。
    ――とはいえ、事態が緊迫の度を増していることには変わりがなかった。ハリケーンと
   騎士団とが弓に耐え、チェンフが火矢に耐え、士と村人が剣に耐え、ゼネスが忍との戦い
   に耐える。どこかひとつが破られたら「終わり」だ。
    『マヤ……』
    黒馬の翼の内にいる弟子に目を走らせ、祈る。
    石の輝きこそは冴え冴えとして強い。天馬の黒い羽根もその光を遮ることはできず、青く
   澄んだ色がひたひたと波を打って広がる。だが、それをささげ持つ少女は目を閉じたまま、
   ずっとぴくとも動かないのだった。彼女ならば、水の精霊力に通ずることもたやすいと見て
   いたが、あるいは……?
    『いや、お前ならば必ず』
    信じる。信じている。これは「賭け」ではない、最善の、最強の一手だということを。
    ひときわ強い光が走った――視界の隅で。忍がカードからまた現れたのだ。ゼネスは再び
   剣を振るい、戦闘のただ中に飛び込んだ。



    ――キンッ! カンッ! ガッ!
    ぶつかる刃と刃の間で音が弾ける。火花が散り、こぼれた刃の破片も散って額に刺さる。
   だがそんなものは些事だ、感覚には留まらない。ゼネスが見るのは、つかむのは相手の
   動き。全身の感覚が尖り、受容器と化す。繊細になり剥き出しになりヒリヒリと晒される、
   裸の神経が360度に対峙する。その最中(さなか)だった、
    「ザザザザザザ…………」
    『何かが』――ふと感じた、微かに。
    波動、水の面に立つ同心のさざなみにも似た。
    ――ザック!
    剣と腕に手ごたえがかかった、斬撃の。斬ったのは相手の左か? 『いや、右の腕だ』目の
   前に光の粒子が流れた。傷ついた体が即座にカードに還元され、あらためてクリーチャーの
   本体が招来し直される。無傷に返った忍が現れ、斬りかかってきた。
    『まったくキリがないな、だが負けんぞ』
    胸底につぶやき、笑う。敵の攻勢は刻一刻と激しさを増していた、押し切れば勝ちだと
   知っている。だが、ゼネスは落ち着いていた。極めて冷静だった、信じて待っている。
    「ザザザザザザザザ…………」
    また来た。
    忍たちの動きがわずかに止まった(彼らも何事かを感じ取ったのか?)。すかさず大振り
   して根こそぎ叩き斬る。
    「ザザザザザザザザザザ…………」
    やってきた、「音」が。全身に浴びるようにかぶった。揺れている、稲の葉が、稲の生うる
   水面が、水が、泥が、田の水・川の水・地中の水・大気の水、全ての水が揺れさざめいて
   いた。地上も中空も、ことごとくが打ち震え波打つ。
    「ザザザザザ……ッ!」
    しぶく、躍り上がる。稲の葉から水滴が飛んだ。田をうるおす清水の流れも「ざばりざば、
   ごぼごぼ」そこここで逆巻く。村の中央を流れる川もきらきら、白銀に光って波立っている。
    「――"力"を!」
    高く放たれた、少女の声、マヤの声が。足元が揺らぐ、地面が振動する、山が揺れる、
   大地が呻き鳴く。
    顔を上げた、遥かに仰ぐ山また山の稜線が震えて見えた。なべてひとつながりの生き物
   のように拍動し蠢動する。
    コォォォォォ…………。
    ゼネスは理解した。「水」が応えている、地表にあるばかりではなく地下の水、樹木の水、
   土中の岩中の水に至るまで、いまやこの地一帯のあらゆる「土地の水」が急速に精霊力を
   高めているのだ。水の護りに応じて、マヤの呼びかけに答えて。あの秘密の小径の小川も、
   岩の棚田の滝水も、きっと同じようにしぶきを上げているに違いない。
    「音」はさらに高まり、この異変に攻める者も守る者もついに戦う手を止めた。誰も彼もが
   不安げに周囲を眺め、立ち尽くす。
    瞬間、目の前が真っ白になった。
    濃い霧だった。綿のような密度を持つ水蒸気の固まり、強い水の気が身体を圧し、ひし
   と身を押し包む。土地の水が今、一斉に精霊力を放出したのだ。
    「今だ!」
    「行け!」
    師が呼び弟子が叫ぶ、ほぼ同時だった。閃光がひとすじ、濃霧を突いて天に向かう。空へ
   空へ空へ高みへ――真っ直ぐに。
    ゼネスは剣を捨て、弟子の元に駆けつけた。黒馬の翼ごと少女を抱き締め、馬と共に腰
   を据えて思い切り両足を踏ん張る。
    「伏せろーーっ!」
    同じ時、斜面を大音声が駆けた。叫んだのは士だ。次の瞬間「何」が起きるのか、知って
   いるのはこの場で二人だけだった。
    ドドッ!!
    突風が来た。凄まじく吹き渡った、山上から斜面を馳せ下り「ドッ」と渦巻く。草木が
   伏しなびいて地にしがみつき、人もまた伏して草の根元をつかみしめ風に耐える。悲鳴を
   あげて吹き飛ばされたのは、士の号令に従わなかった敵兵たちだ。一方、鎧を着た近衛兵
   たちは小屋の周囲に集まって壁を支えていた(チェンフも、すんでのところで屋根から飛び
   降り小屋を支える中に混じっている)。
    強風は一瞬で濃霧を呑み、巻き込んで全てを空に吸い上げた。おかげでいっぺんに視界
   が開け、ゼネスは天を仰いだ。
    「おお……!」
    頭上には巨大な雲の柱が立ち上がっていた。風に巻き上げられた霧が、一気呵成に雲と
   化して成長してゆく。どんな山も敵わない、もくもく、もくもくもくと爆発的に、火山の噴煙とも
   見まごうほどの勢いで天を突き上げそびえ立つ。
    地上を去った風は、上空でさらに強く吹き荒れて雲を押し上げていた。高く大きく、成長し
   た雲はやがて天の底に打ち当たり、行き場を求めて横へ横へと張り出した。みるみるうち
   に仰ぐ限りの空を覆い尽くし、鉛色の傘を差して地上をすっかり薄暗さの内に閉じ込める。
    ゴゴゴゴゴゴ…………。
    雲は雷雲だった。「ピシピシ」、雲中を光る亀裂が走る。「傘」にも「柱」にも網目のよう
   に繁く電光が行き交い、遠く近く雷鳴が響く。頭の上で稲妻が走るたび、人は皆背をひく
   つかせた。生物の本能が雷に怖じるのだ、自ずと恐怖がにじむ。
    ゴゴゴゴ……ゴゴゴゴゴゴ…………。
    今、雲は天空に充満しきり、大きく渦を巻いて動いていた。空が回る、水の力が空で呼吸
   する。風を息吹とし雷を血管とする一コの、巨大な獣の気配。圧倒的な生命が頭上で、天上
   の雲の中でわだかまり時に身動きする。見上げる者らは敏感にそのことを悟っていた。悟って、
   恐れおののく。空が重い。
    敵味方なく、誰もが首をすくめて天をうかがっていた。己れがいかにちっぽけな代物で
   あるか……を思い知らされて震えながら。祈っていた、皆必死に。天にのたうつ雷が自ら
   の上に落ちかかってこないことを、雲中に居る何者かに自分が見つからないようにと。
    が、不意に斜面の中ほどで立ち上がった者がいた。敵方の剣士だ、慌てたように剣を振り
   かざす。彼は己れのすぐ傍に村人が伏していることに気がついたのだった、かざした刃が
   白くきらめいた。
    ――ダダァンッッ!!
    大音が地を打った。ゼネスは一瞬火柱を目にしたが、ほとんど反射的に耳を押さえ目を閉じた。
    そして用心しながら頭を上げる。――と、剣をかざした男が二間あまりも吹っ飛んで昏倒
   していた。握っていた剣も跳ね飛ばされ、あらぬ方に転がっている。彼の立っていた付近の
   地面が黒く焦げ、飛ばされた剣の持ち手も焦げていた。落雷に遭ったのだ。
    「空が……!」
    叫ぶ声が聞こえ、彼も天を仰ぎ見た。
    「あれは!」
    空に渦巻く雷雲の中心に、「ぽつっ」とひとつ穴が開こうとしていた。ぐるりぐるり、鉛色の
   雲が渦巻く力の強さによって自らを穿つ穴、それはたちまち広がって丸い「窓」を開けた。
   それも、村がすっぽり収まってまだあまるほどの大きな「窓」に。そこだけぽっかりと本来の
   空の青さがのぞかれる。
    ……望みを述べよ……
    不意に、耳にした。それはゼネスの腕の中から漏れ出てきたようだった。が、
    「来る!」
    人々の声に、意識はまた空へと引き戻された。そして、見た。
    「窓」いっぱいに巨きな何かがこちら側へと突き出してくるありさまを。
    長い長い鼻面、くねる太い髭(ひげ)、巌(いわお)のような顎(あぎと)、その顎から頬、
   さらには首の後ろにかけてまでみっしりとたくわえられた金色の鬣(たてがみ)。丸い二つの
   眼玉、青緑の鱗片に覆われた額、額の上に生え出て枝分かれした二本の角、怪物の頭部。
    しかして、何という巨きさ。顎は霊山の高峰もひと呑みにするほど、眼玉は夕日にぎら
   つく湖の輝き。それから察するに、雲の向こう側に控える蛇体はさても空に充つるばかり
   長々しくとぐろを巻くに違いないと思われる。
    「竜神さま!」
    「竜神さまがお降りなされた!!」
    顕れた姿を目にして、村人たちは瞬時に平伏した。彼らはようやく、今ここに「誰が来て
   いるのか」を察したのである。
    さらには襲撃者たちも身をすくめ、息を殺して畏れの眼で空を見上げていた。たとえ強弩
   の連射をもってしても、あの高空の巨竜を落とす可能性は万に一つもない、彼らには見上
   げることしかできなかったのだ。沈黙が斜面に広がり、たちこめた。
    そして怪物の眼は見下ろしていた。かれはただ一方的に「見て」いた、地上の全てを、
   伏して見仰ぐ無数の目を、泥のように地べたにへばりついた畏怖の感情を。明らかにも
   揺るぎない眼(まなこ)をもって、かれはじっと見ていた。
    『神龍……』
    ゼネスも、ノドの奥で声には出さずつぶやいた。見上げる巨大な眼に「怒り」は無い。が、
   その代わりに「慈悲」もまた無い。あれは万象を映しながら対象を持たない眼だ――とすぐに
   気がついた。「他者」を意識せず、「見られる」ことに一切の頓着をしない眼。「見つめる」
   でも「見返す」でもなく、ただ「見る」。言わば「見」の真髄、あらゆるものを「ただに見る」
   という力だけがこの天上にあって運動している。
    ゾッと背すじが凍った。あまりにも巨大でかつ平らかな「見」。それは彼に、あの公子・
   アドルフォとの遭遇の経験を思い起こさせた。「"力"の孔」の深淵の感触を、否応もなく
   よみがえらさずにはいない。
    ……望みを述べよ……
    聞こえた、また。今度は先ほどよりもっとハッキリと。
    「マヤ?!」
    受け取ったのは確かに弟子の少女の声音。だが、彼にはそれが人の声であるとすぐには
   思いつけなかった。およそ情の温もりも震えも欠いた、「声」というより「音」だ。
    「おい!」
    一体彼女はどうしてしまったのか、不安に駆られて急ぎ黒い翼を開いた。出てきた少女
   の肩をつかみ、顔をのぞき込む。
    「どうした、おい、マヤ!」
    彼女は首も頭も動かさず、とび色の瞳だけがまぶたの下でぐるり回って師を見上げた。
   澄んだ氷に似た瞳だった。
    「望みを述べよ。爾(なんじ)、我に何を願うや」
    血の気が引いた、全身から一斉に。マヤには、声だけでなくその眼からも人らしい「情」
   の温みが抜け落ちていた。とび色の瞳が今は冥い孔に見える。顔面に穿たれ、事物を映す
   というよりは吸い込み食らう、行方知らずの孔に。
    『何が起こった……!』
    動揺した、激しく。寒気がする、足から腕から歯の根までが細かに震え出しそうだ。この
   身を挺し、抱き締めるようにして守ったはずの少女が、いつの間にかゼネスもあずかり知ら
   ない別の何者かに変貌してしまった。
    「望みを述べよ。爾、我に何を願うや」
    四たび「音」が漏れ出た、少女の唇より。「望み」「願い」「述べよ」――ぐるりぐるり、
   天に広がる雷雲のようにゼネスの脳中で三つの音が巡り廻る。
    だが、突然に全てはつながった。身体にひらめいた。
    『――神龍か!』
    ハッとして惑乱から心を起こす。
    『マヤの精神が、神龍の力と一体化している』
    思い当たった。優れたセプターがカードの力と強く共鳴しあった結果、それが今のマヤ
   の状態なのだ。彼女が神龍であり神龍がマヤでもある、両者不可分の境地。ただ、通常
   ならばカードの力を使っている間でも瞬間的にしか成就されない状態がずっと持続されて
   いたために、ゼネスもすぐには気がつけなかったのである。
    「ならば……」
    気づいたおかげで動揺は速やかに治まった。彼は弟子から離れ、斜面の下方に向かって
   体をはすに開いて仁王立ちした。
    「まずは敵勢力の正確な数を望む!」
    味方のみならず敵にも聞こえるよう、大きく声を放った。
    「善哉(よきかな)」
    少女は、いや神龍はすぐさま答えた。
    「爾の敵は剣士・五十八、射手・三十六、カードの力として忍と小獣(カーバンクル)が
    各々五、これあり」
    「何、カーバンクルだと?!」
    小獣=カーバンクルはリスに似た小さな魔獣だ。大きさもちょうどリスほどで、木々の
   高い梢に潜み隠れられると人の眼でこれを見つけ出すことは大変に難しい。
    『そうか、オズマのネズミ方式か!』
    合点がいった。今ここで暗躍している忍たちは、同じくカードのクリーチャーである小
   獣を"中継点"として操作されているのだ。あのネズミ遣い・オズマが遠く離れた場所から
   一匹のネズミを介して大群のネズミを操ったように。
    「ふむ、道理で、いくら巨人を暴れさせても忍の主どもをいぶり出せなかったわけだ。
    本体がどこぞの遠方に引っ込んでいたのではな。
     神龍よ、請う、クリーチャーの主の数と位置とを示されよ」
    ゼネスが望む。サッと少女の手が上がって北西を指差した。
    「距離はここより四里半、人数は五、いずれも北西の方は山中の杉の大木の下に居り」
    言うが早いか「パパッ」指し示す先に電光が流れた。
    ドォォォン…………。
    わずかに遅れて遠雷が鳴る。相手の居場所はこれで知れた。
    「さらに請う、敵クリーチャーの全てを沈黙せしめよ!」
    たたみかけて怒鳴った。
    「善哉」
    感情の無い声が応じた、直後、
    ダァァン!
    強い閃光、爆音が突き立った。周囲の水田に、斜面の畑に、森のそこかしこに、合わせて
   十本もの落雷。あまりの衝撃に大気も地も「ビリビリ」震え、ゼネスの身体も痺れたように
   動かない。それでも、彼は己れの力を振り絞って眼を耳を開けた。立ち上がった。
    すると、「ツーーッ」と此方に飛び来たってくる影が見える。何か、平たく薄い手のひら大
   の物体が。
    「よしっ!」
    右の手を突き出し、頭上で開く。そこに、やって来た影は次々と収まった。カルドセプト
   のカードだ、数はちょうど十枚。
    「見たか!」
    肩をそびやかして手に入れたカードを高く掲げ、今一度眼下を見渡して声を張った。
    「すでに"力"は顕れた。この雷雲が下はことごとくが神龍の攻撃範囲、貴様らはいずれ
    も天網に捕らわれた魚だ、雷撃から逃れる術は無いと思い知れ。
     さあ、貴様らのセプターはこうしてカードを放棄した。貴様らも命が惜しくばこれに
    続けて降伏しろ! 武器を捨て、両手を頭の後ろに組んで伏せろ!」
    声は朗々と響いた。水気に富んだ大気を伝い、遠く波が届く。ゼネス以外に身動きを
   する者は見えない。
    ゴロゴロゴロ……ゴゴゴゴ……。
    稲妻が走り鳴る雲の下、誰もが無口だった。村人はひれ伏し、敵方は仰向いて空ばかり
   を眺めている。彼らは言葉を発しないのではなく、発せないのだった。少しでも不穏な動き
   を見せたら最後、たちまち雷撃の的になる。
    目に映る限りの空には絶えず光が駆け、雷鳴が轟く。垂れ込める鉛色は遥か彼方の山々
   の上にまで広がってほとんど涯(はて)しもない。そして、その中心には神龍がいる。怒りも
   慈悲も思うことのない、無情の、非情の「神」がいる。この強大な力を前にしては、人の命
   も虫ケラのそれと何ら変わるところが無い――という現実を、皆がひしひしと身に沁みて
   感じていた。
    見回すゼネスの眼の下で、敵方の間に次第にうす暗い気配が広がってゆくようだった。
    ――ややあって、
    敵の中の一人が膝を突いた。「ポツッ」そこだけ影が沈み込む。
    そしてこれをきっかけに、周囲の者ら数名が固まって膝を屈した。さらに離れた場所で
   も次々と、膝を折って地に伏す連鎖が広がってゆく。剣士も弓手も己が手から武器をこぼし、
   土に引かれて屈(かが)んだ。やがて立っている者は誰もいなくなった。それははっきりと
   した降伏のしるしと見えた。
    だが、ゼネスはあくまで慎重だった。
    「神龍よ、請う」
    すっかり低頭しきった敵軍を見渡したままそっと、声を低めて呼びかける。
    「皇帝の近衛軍本隊は今何処(いずこ)に?」
    「北東二十一里」
   即座に例の声が答えを言った。
    「沢沿いに五爪の竜の大旗を掲げる大隊が行軍せり」
    澱みなく言い放つ。ゼネスは横目を使ってチラと弟子の顔をうかがい見た。彼の目の前
   にあるこのとび色の瞳には、今、何が映っているのだろうか?
    「北東……か」
    しかし、彼はあえて別方面に思考を振り向けた。悩んでいるような時間は今は無い。
    『本隊はやはり、何らかの呪文効果によって強制的に"飛ばされた"ようだな。方角から
    考えて……霊山の駐屯地あたりか。すると使われたのは「リコール」だな?』
    人をして一瞬のうちに移動せしめる呪文の効果。それはカルドラ宇宙にも、カードや呪文
   言語の形でいくつか存在している。ただし、それなりの人数を擁するはずの近衛兵本隊を
   一瞬にして"消す"ほどの力を示す移動系呪文となれば、その種類は極めて限られてくる。
   ゼネスが知る範囲でも、わずかに「アポーツ」と「リコール」、「D・ドア」の3つがあるだけだ。
    このうち呪文「リコール」は、任意の人物を「その日の出発地点にまで戻す」という効果を
   持つ(これは、対象人物の記憶の中にある場所を"戻す"帰着点の座標軸とするためらしい)。
   また「D(ディメンジョン)・ドア」は、対象人物をランダムな地点に飛ばす効果を持っている
   (こちらの帰着点は、術者の記憶の内にある"どこか"だとされている)。
    この度、敵側の事情はどうあっても本隊を皇帝の傍より遠ざけねばならなかったはずで、
   となれば自然、どこに飛ばせるかわからない「D・ドア」よりも、飛ばす先が確実で計算の立つ
   「リコール」を使う方が理に適う――という推測が成り立つ。そして、重要な点。
   『「リコール」は、カルドセプトの呪文カードとしてのみ存在する……』
    このことだ。呪文「リコール」に関しては、その力を招来する呪文言語はまだ見つかって
   いない。つまり敵軍の中には、クリーチャーを担当した者の他にもセプターがいる可能性
   が高いのだ、今ここで降伏の姿勢を取る者たちの間にまぎれて。
    『これは、特定を急がねばならん』
    密かに緊迫した。相手が呪文カードを操るセプターとなれば、油断は禁物だ。いったん
   は降伏したと見せかけて、次の瞬間どんな手を打って来るかわからない。
    かといって、敵の兵士ひとりひとりをいちいちセプターか否かと確認するような時間を、
   当の相手セプターが与えてくれるはずもなかった。
    「神龍よ、今ひとたび」
    ゼネスは目だけを動かして弟子を見た。
    「敵軍の中にカードを持つセプターがいる。そは何人か、情報をお授けあれ」
    「剣士なり」
    少女はつと手を上げ、下方の一点を指し示した。
    「左腰に朱鞘を落とし挿し、右上腕に白き布を巻きし者、それなり」
    平らかな声、温度も湿度も感じさせない声が告げる。聞いて、ゼネスはすぐさま斜面を
   駆け下った。走る間にも目を見張って示された地点に目指すべき人物を探る。そう、敵の
   剣士の一団の中ほどに、告げられた通り「左腰に朱鞘、右上腕に白布」の男がうずくまっていた。
    彼は男の正面に立った。伏した背と、頭の後ろに組んだ手とを眼の下に見据えた。
    『――確かに、感じる』
    セプターの気配がする。それも、かなり強い。
    「見つけたぞ」
    声をかけた、ことさらにゆっくりと余裕を持って。
    「セプターだな、貴様。とぼけても無駄だ、俺にはわかる。この竜眼は飾りではない。
     さあ、そのように降伏した以上、貴様が持っているカードは全てこちら渡してもらおうか」
    低い声で明確に、一語一語を眼の下の背中に押し込んだ。しかし、男の態度に変化は見ら
   れない。伏したまま、背も腕も微動だにしない。
    「聞こえなかったか? ならば今一度だけ言う。貴様の所持するカードを全て俺に渡せ」
    繰り返し、さらに一歩を踏み出した。突然、ガバと男の半身が跳ね上がった。
    ――「だめっ!!」
    一瞬、耳を貫いて声が走った。強い感情そのものの声、脳中を揺さぶり響く。
    『マヤ!?』
    弟子の声だった、神龍の声ではなく。何故? ととまどいながらも彼の目は眼前の男を
   見、身体は男の動きに応じていた、咄嗟に体をひねって退る。
    何もかもがいやに緩慢に動いて見えていた、相手も、自分も。男の右手が朱鞘に添えら
   れた短刀を抜いた、抜きざま刃を突き上げた、首すじ目掛け突進してきた、彼は腕を振り
   上げてさえぎろうとした。
    ――キンッ!
    ――ドスッ!
    刹那、刃は消えた。鋭い音を残し、男の短刀が手を離れ宙に舞う。もう一本、手幅ほど
   の小刀と共にくるくると回転しながら。白い光が二すじ、山なりの弧を描く。
    そして同じ小刀は、男の右腕にも突き立っていた。彼の姿勢が崩れ、傷口を押さえよう
   とする――のを見て、ゼネスは思い切り良く踏み込み、肩口から体当たりを食らわせた。
   さらに、吹っ飛んだ相手に士が駆け寄ってみぞおちに突きを入れる。見事一突きで昏倒させた。
    「手裏剣とは……」
    男の動きを狂わせたのは、二本の小刀=手裏剣だった。一本は短刀の刀身を、もう一本
   は腕を、あやまたず撃った。何という鮮やかな手際か。
    ゼネスは左後ろを振り返った(彼の左眼は手裏剣の飛跡をかろうじて見切っている)。
    十間ほど離れた畑地に、二人の人物が並んで足を踏ん張っていた。各々手に手裏剣を握り、
   「次」に備えた投擲準備の姿勢を取って。それらが誰なのかを認め、彼は覚えず大声を上げた。
    「ウェイ老……それにジャクチェ……!」
    投げ手は老剣士本人とその「弟子」だった。

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