「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る 続きを読む


       第11話 「 師とその弟子 (後編) 」 (7)


    「ゼネス!」
    村人と共にゼネスが気絶した男を縛りあげている最中、斜面を"声"が駆け下ってきた。
   弟子であった。
    「大丈夫?」
    息せき切って乱れかけた呼吸も隠さずに訊く。彼が頭を上げると、真っ赤に染まった顔
   が大きく上下する細い肩の上から見下ろしている。
    とび色の瞳に見つめられていた。濡れたような光が揺れ、黒髪の男の顔を映し出す。
    不思議なものを見るような心地だった、その瞳を呆(ほう)けたように見上げた。
    『還ってきた』
    ふと、そう思われた。他に言い様はない。今彼の傍らに立ち、切迫やら心配やら安堵やら
   をごちゃごちゃに突き混ぜた表情(かお)をしているのは神龍ではない、確かに弟子の少女、
   マヤだ。判断はついた。だがぼんやりとして頭がうまく働かない、たたずむうち花の色した
   唇が動いた。
    「怪我してない? どこも痛くない? ゼネス」
    さっきよりも大きな声だった。ようやくと頭が醒め、彼は立ち上がった。
    「大丈夫だ、マヤ。あれしきでどうこうされる俺ではない」
    力強く、今度は彼が弟子の顔を見下ろして答える。少女の面上に「安堵」が、他の感情を
   押しのけて大きく広がった。
    「良かった……」
    眉根がキュッとばかりに寄り、少し泣きそうになる。安堵し過ぎたか、と見るやゼネス
   の胸の内に急激に羞恥が込み上げてきた。どうにも甘たるく熱い羞恥の塊りが。
    このような感覚はしかし、初めてだ。己れが己れに思えず困惑する。彼は焦り、己が身を
   立て直すために、弟子の後方より近づいて来た二人の人物に視線を移して呼びかけた。
    「ウェイ老、それとジャクチェ、素晴らしい加勢をいただいた。俺が無傷でいるのは何
    より貴兄らのおかげ、この通り礼をさせていただこう」
    言ってすぐさま腰を折り、深く深く頭を下げた。
    「ジャクチェ……」
    軽く草踏む足の音がした、弟子の少女も師の傍から歩み出る。
    「手裏剣習ってたんだ、ジャクチェは。ゼネスが危ないところを助けてくれて、本当に
    ありがとうね」
    彼女も、師と並んで頭を下げる。声がやや震えていた。
    「うん……いや、ごめんな、今まで黙ってて」
    応えて山猫娘の右手が持ち上がり、鼻の周辺にある薄いソバカスを掻く。
    「前々っからお父に言われててさ、『こいつ(手裏剣)はお前の奥の手なんだから、やたら
    に他人に見せたりしゃべったりするもんじゃぁない』って。でもそんなことより……」
    勇敢な娘は目を上げ、おとがい(あご)をそらせて空を振り仰いだ。
    「これが竜神さまなんだ――初めて見た、なんて大きいんだろう。それに堂々としてる、
    ゆったり構えて見下ろして……こういうの"威厳"て言うんだろ? 虎や熊の大きいのとは
    ぜんぜん違うんだなぁ、本当に神さまなんだ」
    息を弾ませ、眼に光を溜めて山の娘は空を見る。――おや? ゼネスはいぶかしんだ。
   この反応の内には他の者らのような神龍への「怖じ畏れ」が無いではないか。彼は山猫娘の
   横顔を確かめ、次いで自らも空を仰いだ。
    『あっ……!』
    息を呑んだ。目を見張った。
    『違う、あれは、あの神龍は!』
    ノドの奥に、声にならぬ声がくぐもった。頭上にわだかまる蛇体は今も雄大である。つい
   先刻、偉大な力を示した時と全く変わらぬ巨大さと揺るぎなさを備え、渦巻く雲と雷鳴とを
   従えている。――だが、違う。ゼネスの眼には歴然として今は別物だ。あれはすでに、マヤが
   「還って」来るより以前の彼女の意識と一体化していた神龍ではない。
    『あの眼(まなこ)』
    竜神の巨きな二つの眼を見た。それは一見したところはぎらぎらした光を放って天に君
   臨している。地上を睥睨(へいげい)する巨竜の眼、しかし――それだけだ。その大きさと
   輝きゆえに恐ろしげに見える、というだけだ。ゼネスをも畏れさせた「見」の眼、世界の
   全てを一方的に見尽くす"力"の深淵の気配は、すでに消えている。ぴたり、扉が閉じてし
   まったかのように。
    『なぜ……いや』
    竜を凝視したまま問いを思い、だがその答えは自ずと導き出されていた。関係するとし
   たらそれは、弟子の少女の変化以外にはない。マヤがカードの力から離れて自分を取り戻
   したからこそ、"力"の深淵は神龍の上から去ってしまったのではないのか。
    「マヤさん」
    しかし彼の思考は中断された。ジャクチェと共に近づいて来たウェイ老が、マヤに声を
   掛けたからである。少女も老爺に目を向けた。
    「よくぞあの一瞬に神龍の力を止められましたな。この曲者がお師匠どのを害せんとした
    折、あのまま雷を落とされておれば、雷光というものの性質上、お師匠どのも巻き添え
    を食らって危ういところでござった」
    ハッとした。確かに敵セプターが此方に飛びかかって来た時、相手の位置は低く我が身は
   高く、その上首元近くには短刀の刃までが向けられていた。もしあの瞬間に神龍の雷撃が
   敵の頭上に炸裂していれば、電光は必ずやゼネスにも飛び火して二人共に無事では済まな
   かったはずだ(いや、むしろ敵はそれを狙って捨て身の攻撃を仕掛けてきたふしがある)。
    彼は弟子を振り返った。
    「いえ……私はただ……」
    少女は困惑していた。顔はおろかうなじまでも紅く染め、
    「あの時のことは『ゼネスに雷が当たる……!』って急にピンときて、でも憶えてるのは
    それだけで……他のことは、見えてはいたような気はするけど憶えてないんです、あまり」
    肩をすぼめて恐縮の体を見せる。それでも、
    「ウェイ先生こそ、ゼネスが危ないところを助けていただいてありがとうございました」
    何とか、頭を下げて礼の言葉を付け加えた。
    「いえ、私は自らに出来得ることをしたまでのこと。それより」
    老爺は注意深げな目をしてマヤに問うた。
    「"見えていて憶えていない"とはいかなことでありましょうや、マヤさん」
    「あの……自分でも何て言ったらいいか……」
    問われてもしかし、少女の言葉はまことに歯切れが悪い。
    「神龍を使って自分がしたことは、みんな見たつもりがあるんですけど……でも、その時
    に感じたり考えたりしたはずのことが全然……何も無いみたいに抜け落ちちゃってて……
    まるで空っぽなんです」
    考え、考えしながら懸命に答える。
    「なるほど」
    ウェイ老が相槌を打った。その一瞬前に彼の眼に剣士の鋭敏さが走ったことを、ゼネスは
   見逃さない。そして、
    「どうやら、マヤさんは神龍を通じてひと時『無我』に至られたようですな」
    思いも寄らない見解が示された。
    「無我……?」
    訝(いぶか)しさを露わに、マヤが問い返す。
    「『無我』とは巧まざる心、風水(かぜみず)の流れの如くに自ずから然る者。理非も
    善悪も超え、あらゆる事象に対応して発すればそのまま法(のり)となる在り様。まさに
    神の領域と言えましょう」
    「…………」
    弟子も、師も、言葉無く聞いていた。だが、互いの胸に浮かぶ思いは異なる。弟子は多分
   に驚き、師は的を射抜かれた焦燥。
    「ただ、私は必ずしも『無我』を最上とは致しませぬ。それは、人の技――ことにも剣技
    には理非が不可欠と考えるがためです。人は神ではありませぬゆえ」
    言って、老爺はゆったりと空を仰いだ。
    「何と巨きな、力強くも高雅な竜神の御姿であることか。
     しかも貴女は、これほどの力を手にし『無我』にまで至りながらもなお、人の理非の場
    に戻ってこられた。類まれなることです。貴女に神龍をお遣いいただこうとの我が進言
    は正解でありましたな、ここはせいぜい我褒めをさせていただくとしましょう」
    柔和に細めた目が笑った。少女はまたしても真っ赤になった。
    「そんな……お恥ずかしいです、すごく……。神龍をちゃんと遣えたって実感なんて全然
    無いのに……もう一度同じ事なんて出来そうにないのに私……」
    首も肩も縮め、今にも消え入りそうな風情でもじもじするばかりだった。

    「元大将軍閣下、ならびにお客人の方々よ――」
    畑地の上方から聞き覚えのある声がひとすじ、斜面に沿って流れてきた。皆が見仰ぐと、
   近衛騎士団の長が足早に下ってくる。
    「皆さまの格別のお働きにより、危機は脱されました。曲者どもは早晩、全ての身柄を
    我らが取り押さえまする」
    やって来た騎士団長の顔は晴れやかであった。が、
    「あとは……本隊の行方さえ判明すれば」
    清明の下からともすれば緊張がにじみ出す。その彼にゼネスは、
    「案ずるな、そちらの本隊はただ今此方に向かっているそうだ。敵方にはどうやら、
    "リコール"で霊山の駐屯地まで飛ばされようだな。
     マヤ、本隊の現在位置は?」
     確認する。と、
    「村まであと十四〜五里、北東方面から行軍中です。人数は七千飛んで五十八名、脱落
    はありません」
    「ほぉ……」
    速やかな返答に高位の騎士もさすがに目を見張った。間違いないようである。
    「ありがたい、本隊は無事でありましたか、これは何よりものご神託でございますな。
    さあれば心置きなく後始末に専念できるというもの、我が愁眉が開き申した。何もかも
    元大将軍閣下とお客人、さらにはこの村の民のおかげでござる。皆さまにはこれ、この通り」
    騎士は胸に右の腕を当て、丁重に腰を折って頭を垂れた。
    「衷心よりの御礼を申し上げまする」
    「何の、我らは国の民として当然の働きをしたまで。お頭はお上げくだされ、隊長どの」
    鎧を着込んだ身体を低くした武人に、ウェイ老は軽く手を振って姿勢を戻すよう促す。
   さらに、
    「さあ、皆の衆、我らも騎士どのらのお手伝いをさせていただきましょうぞ」
    振り向き、村人らに呼びかけた。応じてすぐさま、手に手が空に突き上げられる。
    「オーーッ!」
    大きな、誇らしげな歓呼の声が水田の上にこだました。


    「ゼネスどの」
    さて……と、動きかけた耳に声が入った。ウェイ老である。
    「何か?」
    声のした方を向いた。彼はちょうど、村人らと共に「後片付け(ここでは、降伏した反逆者
   たちを捕縛することを差す)」に取りかかるつもりで足を踏み出したところだ。
    「貴君とマヤさんには、皆とは別にお働きをいただきたいと存じまする」
    言いながら近く寄り、声をひそめた。
    「本隊が此方に到るまでには未だ相当の間があるはず。ここにいる敵を降伏させたとは
    いえ、我らになお油断は禁物でござろう。されば、貴君とマヤさんには先ほどの山頂に
    お戻りいただき、周辺の監視をお願いしとうござる」
    「心得た」
    言われてみれば確かにその通りで、この場は勝利を納めたものの、本隊という強力な盾を
   遠ざけられたままでは、皇帝側の体勢も決して万全ではない。だから、勝った今こそ心を
   引き締めて守りを固める必要があるのだ。敵に「次ぎの手」を与えないためにも。
    「貴君の竜の眼とマヤさんの竜神、二つの竜のお力あらば皆も心安く務めに集中できま
    しょう。それでは、どうぞお頼みをいたします」
    白髪頭に見送られ、師と弟子とは再び畑の中の道を駆け上がった。
    もう一度、山の天辺の水田に立つ。そして見渡した、ぐるり首を回して"戦場"を、村を、
   周囲の山々を、近景から遠方まで眺め回す。
    「今のところは異常はないようだな。お前の方はどうだ、マヤ?」
    ひと渡り眺め、目の内にしながら弟子にも問う。無論、ここで確かめるのは彼女が感受
   する神龍の感覚である。
    「問題ありません」
    すぐに答えは来た。抑揚は少ないが、ごく尋常な人の声だ。
    「本隊の進行に変わりはないな?」
    「順調です、沢沿いに行軍しています……かなり速い」
    「よし」
    報告を受け、うなずいた。神龍が先に答えた「二十一里」は直線距離だろう。山道ならば
   実際の踏破はその二〜三倍はかかるはずだが、道行が順調であり、かつ足取りも速いとの
   ことであれば、あと数刻も経てば本隊は到着するものと考えて良い。
    ひとまずの見積もりは得た。彼はさらに別の確認を取ることにした。
    「ならば……セプターでもカードでも、"力"の気配を放つ者はこの雲の下にどれほどいる?」
    天を見上げながら訊ねた。上空に厚く垂れ込める雷雲、それこそは竜神の力の源である。
   強い水の気が天と地の間に立ちこめ、竜の息吹を伝えて地上をその支配下に置く。
    「はい。ここに居る私たちと、これまでにわかっている敵と……あとは本隊の中に二人が
    居て、それぞれ6枚ずつカードを持っています。それだけです、セプターもカードも」
    「ふむ」
    うなずくふりをしながら、ゼネスはそっと答える弟子の表情をうかがった。――彼女は
   落ち着いていた。ただ、とび色の瞳が据わっている。何処とも知れぬ遠い場所を眺めるか
   のように。中心にひとすじ、凝った光が見えた。
    冷やり、背すじが騒ぐ。
    『何を感じている? 今、お前は』
    先に彼女が神龍の力と一体化した、と見たのはしかし、実は違っていたのかも知れない。
   不意にそんな考えが浮いた。
    『……もし、神龍とマヤが同化したのではなく、マヤの中にある何かが神龍という器を得て
   片鱗を見せたのだとしたら……?』
    その「何か」が顕われたからこそあの時神龍は"力"の深淵と化し、そしてマヤが我に返っ
   た後には通常の巨大なクリーチャーに(言わば)戻ってしまったのだとすれば?
    『む…………』
    額に鈍い痛みが沁み、彼は思考を停めた。否、停めさせられた。脳に疼痛が響く、頭蓋が
   締め付けられて。この一件を考えるという行為に、彼自身の血肉が拒否反応を示すのか。
    しかし抵抗した、己れの身体に。生臭い息を吐き、無理矢理にノドから言葉を押し出した。
    「忍を遣っていたセプター達はどうした?」
    カードを放棄した敵セプターのことを訊いてみた。相手の動向を知る、という以上に弟子
   の様子を探るために。
    「あの人たちなら気絶してます、クリーチャーに雷を落とした時からずっと。まだしばらく
    は起きそうにない感じ」
    平らかな声が返って来た。意外だ、他人を傷つけることを好まぬ彼女にしては珍しい。
    「そうか」
    返事をしつつ、なおもつぶさに観察を続ける。マヤの瞳は変わらず彼方を見ていた。が、
   その中で細い光が一瞬、強くまたたいた。
    「ゼネス、聞いて」
    「何だ?」
    視線が少女の上に貼りついた。彼女は何を話すのか、敵のこと? それとも他に? 目を
   離すことができない。離せばまた、マヤは見も知らぬ何者かに変わってしまうのではないか。
    「今日私たちが戦ったのは非公認セプター、雇われてるの、暗殺を仕掛けた寵臣の側に。
    カードの力を使って闇の稼業をする人たちだから」
    「それは――」
    つまり、敵のセプターたちは皆、今回の皇帝暗殺のために外部から密かに呼ばれた者たち
   だとマヤは言っているのだった。が、そのことはいい。今は別段、ゼネスにとってはどう
   でもいいことだ。
    捨て置けない重要なことは、他にある。
    「お前が」
    言おうとして言葉が粘ついた、口の中が乾く。
    「神龍によって得た情報なのか? そうなんだな?」
    彼女の神龍は地上の状況のみならず、そこに立つ者らの精神や記憶までをも透視したのだ。
   しかしそこまでカードの力を引き出せてなお、「遣った感覚が無い」などと、人は言えるもの
   だろうか。
    果たして、少女の眼は暗くなった。顔がこわばった。
    「わからない……」
    まつ毛を伏せて言葉を濁す。
    「急に出て来たの、それは、今。頭の中にパパッと、ひらめくみたいにして」
    ゼネスはいつしか、弟子を見る目に力を込めていた。睨(にら)みつけていた。
    「お前はそこまで出来ていながら、なおも神龍を遣った実感が無いのか? そういうこと
    は本当に何も憶えていないのか?」
    問う声は硬かった。こめかみがびくつく、動悸が高まる。
    「憶えてない」
    弟子の声もまた硬かった。顔をそむけ、まつ毛の奥で瞳に再び光が灯る。
    「今は私……神龍に見えてるものがわかる、確かに実感できる。でも、さっき気がつく
    までの間のことは本当にわからないの、ウェイ先生に言った通り。だから訊かれても困る、
    ごめんなさい、もうその話止めて」
    それきり口をつぐんでしまった。固く閉じた拒絶の気配を塗りこめて立つ。
    取りつく島もない。ゼネスはのろのろと視線を田畑の上にさまよわせた。寄る辺無さに
   考えも薄暗く沈んでゆく。
    『マヤはまた、ひとり秘密を抱え込んでいるのだろうか』
    一つ理解できた。と思ったのも束の間、さらに別のもっと大きな謎が現れて視界をふさ
   いでしまった。弟子はいつも師の手の「外」にいる。
    湿った長いため息をついた。時、視線を感じた。頭上から誰かが見ている。
    首を上げ、空を仰いだ。「目」が合った。
    「神龍」
    ぎらつく真ん丸の目が、彼を見下ろしていた。見つめていた、ひたと脇目もふらずに。
   先ほどは誰にも対象を取らなかったはずの目が、今はゼネスだけを見ている。
    彼も見返した。もう恐ろしさは感じない。
    竜の黄金のたてがみは大きく広がり、強い風に吹かれて音もなくざわめいていた。そして
   巨大なアゴの下では、ノドに当たる部位の鱗がかすかに逆立っている。
    いずれも、この日初めて神龍が見せた「感情」めいた揺らぎのようであった。



    こうして三つの「竜の眼」が見守る下、村では戦いの後始末が進められていた。
    一帯は静かであった。すでに剣の打ち合う響きも弓の発射音も無く、人々の怒号の声も
   絶えてしばらくが経つ。天の雷鳴こそは未だ鳴り止まないものの、勝者の耳にそれはむしろ
   心地良い余韻と聞こえた。
    今もなおここで激しい戦闘が繰り広げられた事実を示すのは、斜面の田畑で無残に踏み
   にじられ、折れ倒れた草木の残骸と、土の上に黒々と残る大勢の靴跡ばかりである。
    それでも、被害をまぬかれたその他の田や畑は、常と少しも変わらぬ様子で一面の豊か
   さをたたえていた。稲も豆・芋といった作物も、それぞれに枝葉を広げて陽光を浴び、恵み
   の水を吸い上げ、風渡れば軽く「さやさや」とそよぐ。田園の眺めは傷つけられてなお緑濃く、
   穏やかにも美しい。
    しかしその風光の中、人の営みだけは通常と異なる作業を黙々と行っていた。昼日中で
   あるが、水田や畑で土と向き合う影は見られない。その代わりに、騎士団と村人たちとが
   踏み荒らされた斜面を上り下りして、共同で降伏した敵兵たちの捕縛に当たっている。
    敵の武人も弓兵も、今は各々の得物は取り上げられて次から次と縄に繋がれていた。彼
   らはいずれも観念したように無言、無抵抗で――空から神龍に監視されていては、そもそも
   抵抗のしようもないだろうが――ひとり、またひとりと後ろ手に縛り上げられ、口には猿轡
   (さるぐつわ)を噛まされて土の上に等間隔に座らされていた(なお、剣と弩は数本ずつ束ね
   られた上で離れた場所に積み上げられている)。
    見ていると、彼ら降参した者らに対する近衛騎士たちの態度、これがいたって公正であった。
   虜囚相手に毒づいたり、殴る蹴るといった手荒な真似を見せる輩は一人もいない。表に出た
   限りでは(内心、はうかがい知れぬ)整然として顔色ひとつ変えず、淡々と事を進めている。
   さすがは上級の武人揃いと言うべきか。そしてもちろん彼らの作業を手伝う村人たち(当然、
   ウェイ老と士もその内に含む)も、公正な態度という点では遜色ないことは言うまでもない。
   彼らは村の各家々から縄や布を持ち寄り、さらには飲食も提供して、皇帝軍に協力を惜し
   まなかった。
    やがて、この場にいる敵兵は全員が縄に付いた。遠く離れた場所に昏倒するというセプター
   五人(クリーチャーの遣い手である)に関しては、今は人手が出せないので本隊の到着を
   待ってから捕縛するしかない。が、取りあえず目前の危機は脱したと言える。あとは本隊
   との合流を待つばかりだ。
    ゼネスはホッと息つこうとした。ところへ、
    「本隊が。いえ、本隊の先鋒がたった今、村に入りました」
    急に弟子が告げた。師は頭をめぐらせて北東方面の山際を見ようとした。時、
    「ピューーッ、ピューーッ、ピューーッ!」
    大気が突ん裂かれた。長く伸ばした、笛に似た鋭い音。
    「口笛?」
    さらに聞こえるか、と澄ませた耳に、
    「ピィーーッ、ピィーーッ」
    今度は別の音が鳴った。ただし、村の中から。それもウェイ老の小屋の辺りで。
    急ぎ振り向けば、戸口にジャクチェが立って右の手指を口に突っ込んでいる。
    「ピィーーッ、ピィーーッ!」
    山を見据え、二回強く吹き鳴らした。
    「ピューーーーーッ!」
    先の音が、山の上の方から太く長く鳴った。彼女に応えているようだ。直後、
   林の中から男が数人飛び出して姿を見せた。
    「お父!」
    ジャクチェが叫び、駆け上がってきた。大きく手を振り顔中を輝かせて。現れた男たち
   も次々に駆け下ってきた。
    「ジャクチェ!」
    中でひときわ精悍な男が呼び、腕を広げた。彼だけが鎧を着ていない。色黒く眼光鋭く、
   俊敏さの芯に力強さが通った身ごなしと合わせ、黒豹を彷彿(ほうふつ)とさせる。その
   逞しい腕の中に、走ってきた山猫娘が一目散に飛び込んだ。
    「お父〜」
    「ジャクチェ、無事だったか」
    父娘の対面だった。何の遠慮も照れもなく、娘は父の胸に顔をこすりつける。
    「お前が無事ということは、帝さまもご無事だな」
    大きな掌(てのひら)がごしごし、赤い髪をなでる。娘が顔を上げた。
    「皆んな大丈夫だよ、あの竜神さまを見ればわかるじゃないか。それにしてもお父、お父
    はやっぱり帝さまの軍と一緒だったんだ」
    「ああ、黙っていて悪かったな。我らは山中で帝さまと近衛軍のご案内をするという、
    大事なお役目を仰せつかったのだ。内密の事でお前にも打ち明けるわけにはゆかんかった。
     しかし、まさかにお前を預けたウェイ先生の元に帝さまが御幸なされるとは、この儂
    (わし)にも今日になるまで知らされなんだわ。縁(えにし)とは異なものよ」
    言って、カラカラと笑う。山の民の頭領らしく、豪気にして快活な人柄と見えた。
    さらには、斜面の中ほどでももう一つの「再会」が行われていた。近衛騎士団の長と、
   ジャクチェの父の手引きで現れた本隊の面々との対面である。
    迎え出た騎士団長の前に、本隊の騎士(武装から見て彼らも上級の武人のようである)ら
   は這いつくばるようにしてひれ伏し、盛んに叩頭していた。大方、なすすべも無いままに
   守るべき人から遠ざけられてしまった「不覚の次第」を詫びてでもいるのだろうか。だが、
   対する騎士団長は「気にするな」とでも言うように、穏やかに手を振って応じている。
    その光景を見つめていた耳に、
    「本隊、到着しました」
    出し抜けにマヤの声が飛び込んだ。直後、
    ボゥ、ボゥォォォ〜〜〜〜〜
    太く低い音が響いた。貝の笛の音だ。山際から村いっぱいに広がり、山肌にまでこだま
   する。さらに、
    ドドドドドドドドドド……
    地響きが押し寄せた。大勢の足が地を踏む音、山間から木々を押し分けて黒々と影が盛り
   上がる。人、人、人、数え切れぬほどの人の影の流れ。
    それは現れるやサッと左右に散開した。田畑に沿って走る走る、手に手に剣を弓を取り、
   ずらり横に一線の人垣を連ねた。その長さ、山一つ分を越えてなお止まらない。
    その彼らの中央に翻(ひるがえ)るのは、五爪の竜を刺繍した黄地の大旗。皇帝直属軍の
   誇りある印。ゼネスも思わず眺め入った。
    そこへ、
    「皇帝陛下が……お出ましになられます」
    一瞬息を引いて弟子が言う。彼女の声は乾いていた。
    「皇帝が?」
    言いかけた眼に、下方で大きく手招きする影が見えた。小屋の前にウェイ老が立ち、師弟
   の方を仰向いて盛んに手を振っている。二人を呼んでいる。
    「ふむ。
     どうやら、俺たちも行かねばならんらしいな。だがお前は神龍から気を逸らさんよう、
    気をつけろよ」
    軽く弟子に注意を促す。例え皇帝じきじきの呼びたてだとしても大したことはない――
   と、彼は示したつもりだ。が、
    「はい」
    沈んだ声で少女は答えた。彼女の瞳に「ちら」と蒼いような光が走った、見てしまった。
    『…………』
    もしや、と胸の底に薄暗い懸念のもやが湧く。だが、彼はそれを無理に呑み込んだ。今
   さら何も言いようはない。
    師弟はてんでに黙したまま、急ぎ足で水田を離れて斜面を下った。

前のページに戻る 続きを読む
「読み物の部屋」に戻る