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      『 カルドセプト ―"力"の扉― 』
 

       第12話 「 水の上に映る  」 (1)


    皇帝一行が去って五日――
    「ねぇ、見て。もうこんなに伸びた」
    腰をかがめて水田にそよぎ立つ葉の群へと手を差し伸べ、マヤは微笑した。白い手の平
   の内に若い穂がある。葉よりやや淡い緑色の、押しつぶしたように平たい俵型の籾(もみ)
   をぎっしり並べて、穂はすでに少女の中指ほどの長さにまで成長していた。
    「花が咲いたようだな」
    弟子の手の内をのぞき込み、ゼネスもつぶやいた。目の先に並ぶ籾のいくつかが割れ、
   細長く黄色い粒々を差し出している。
    「うん、そう。ゼネスよく知ってるね。これが稲の花、小さい籾の殻が割れて雄しべが
    出てるんだって。今朝方ジャクチェとチェンフくんから教わったの。
     花って言ってもきれいな花びらがあるわけじゃないけど……でもこうやって見てると
    なんだか、可愛くって」
    マヤは穂に顔を寄せ、目を細めた。柔らかな表情にいとおしさがにじむ。
    「苦労して育てればこその愛着だな。俺も今後は米はおろか麦の一粒だってムダにはせん、
    落としたぐらいなら拾って食おう」
    ゼネスもしごく真面目な顔になり、うなずいた。その顔を見上げ、弟子は「ふふっ」笑う。
    「ホント、そうだね。私もそうする」
    穂から手を離し、腰を伸ばした。
    「ああ〜〜、お昼食べたらまた田んぼの草取りだね。今日も暑いけど、このお米たちの
    ためにも頑張らなくっちゃ」
    広がる稲葉の海を眺め渡し、自身を鼓舞するように言ってのけた。
    ――が、その時、
    「おお、巫女さま……」
    叫び、ガバッとばかりひれ伏した者がある。師弟の背後であった、やや離れた道を歩い
   ていた村人だ。彼は急にマヤが立ち上がるまで、稲に隠れた彼女の姿に気がつかなかった
   らしい。しごく慌てた勢いで道端に平伏したのだった。
    「あの……」
    少女は俄然、バツの悪そうな困り顔に変わってしまった。つい先ほどまでの幸福を帯びた
   笑顔はもはや、影も無い。
    「巫女さまだなんて……あの、止してください、どうぞお顔を上げて……」
    抑えた声で伏したままの相手に立つように勧める。その背に見覚えがあると目を凝らせ
   ば、以前には通りがかりにいつも気軽なあいさつを送ってくれた男であった。それが今は
   恐ろしく畏(かしこ)まった様子で地に顔を擦りつけている。一度、二度、三度言われてよう
   やく彼は立った。
    「どうもお邪魔をしまして」
    しかし立ち上がってもなおマヤの顔を直には見ようとせず、稲に向かってつぶつぶ何事か
   言ったと思ったら腰を低くしたまま足早に山の側に行ってしまった。
    その後姿を見送って、ゼネスはため息した。
    この村で皇帝軍と暗殺者たちとの戦闘が繰り広げられた日、村の人々はマヤがカードから
   呼び出して遣った巨大な神龍を目の当たりにした。空を覆う雷雲を従え、雷(いかづち)を
   自在に操る荘厳なる竜神。あまりにも強力な力は、敵のみならず彼ら村人にとっても強い
   畏怖の念を呼び起こさずにはいなかった。そしてその畏怖は当然、遣い手であるマヤにも
   向かった。
    ――ザザザザザ……
    風が出た。稲の葉が騒ぐ。ゼネスはさらに、今自分たちが立つよりも一反ほど先にある
   田に目を向けた。
    その中ほどに、際立って緑濃く盛り上がって見える一帯がある。そこだけ、生うる稲の茎や
   葉が通常より太く草丈も高い。
    神龍の雷が落ちた場所であった。
    ――『落雷した田畑は土地が肥えましてな(※註1)。さてこそ我らは雷を"稲妻(:妻=伴侶)"
    とも呼びまする』
    ウェイ老はそう説いてくれた。つまり自然現象の一つ……ではある。が、その自然を相手に
   農事を営む者たちにとってはおろそかにできぬ事実でもあった。彼らは戦闘が収まるとすぐ、
   落雷の地に稲わらを縒(よ)って作った縄を張りめぐらせた。縄には白い紙で作った飾り
   もつけてあって、今も稲葉とともにちらちら、風に揺れている。
    このタイハンにおける神龍というカード、単に国と皇帝の権威を表わす象徴に止まらない。
   荒ぶる水の力への畏怖と、豊作を約する霊験への尊崇と。二つながらを合わせて村人たち
   はいつしか、マヤを「竜神の巫女さま」と呼ぶようになっていた。
    そうした意識の変化あっての、先刻の反応である(今でも態度が変わらないのはウェイ老
   とジャクチェ、チェンフの三人だけだ)。しかしもちろん、マヤにしてみればありがたい話では
   ない。なにしろこの国とは、カードをめぐって浅からぬ因縁がある。
    「…………」
    黙したまま、彼女もまた去った背を見送る。眉宇に打ち沈んだ翳(かげ)りが見えた。
    『“巫女さま”などと有り難がられても……かえって辛かろうに』
    弟子の少女の胸の内を推し量れば、師の胸もまた痛んだ。


    ※註1)雷(空と地、あるいは空と空の間の放電現象)は、大気中の窒素を土中に固定する働きを持つ。
         科学合成の窒素肥料が無かった時代には、畑地や水田への落雷はまさしく"天の恵み"と見られた。



    昼餉時、日は中天にあって今日も真上から燦々と光の矢を射かける。じりじり肌を焼く
   陽射しを怖れ、人は皆頭上に傘を乗せて盾としていた。ゼネス達も例外ではなく、四人いず
   れも握り飯を頬ばる顔は藁製傘の濃い影に染まっていた。
    「帝さまのお山参りもお済みンなったねぇ」
    指先についた飯つぶを一つ二つ、唇を使ってつまみ取りながらジャクチェが独りごちた。
    「知らせも何にもなくて急に始まったからびっくりしたけど、でも無事にお出来になった
    みたいだったよね、封禅の儀」
    マヤも飯を口に運ぶ手を止め、続けた。とび色の眼が、北東の方(かた)に蒼く霞む霊峰
   を仰ぎ見る。
    「昨晩の空模様が良うござったので本日は……と心積もりしておりましたが、やはり決行
    をなされましたな。
     山の天候は変わりやすきもの、山には慣れた者でも予測は難しゅうござる。麓(ふもと)
    にて雲の晴れ間をお待ちになられ、安定した間にひと息に儀式を執り行われたのでしょう」
    ウェイ老の眼もまた遥かな高嶺を望んでいた。国の鎮めの山は、空を突き上げる高さを
   誇りながら、しかしそのたたずまいにはどこかしら優美さが感じられる。今も、白い尾根
   がおだやかに微笑みつつ地上を眺めるかのように見受けられた。くっきりと空に冴える広い
   三角の稜線、それがこの美の印象をもたらす源であるのだろうか。
    そうして山を眺めつつ田畑の間で昼餉を囲む四人はそれぞれに、今朝方目にした「封禅の
   儀」の記憶をあらためて脳裏に思い浮かべた。


    "その"時、曇りなく晴れ渡った空に最初に現れたのは「星」だった。シェン山の頂きの直上、
   ぽつっとひとつ輝く白い点が生まれ出た。
    「――や?」
    ゼネスはちょうど、朝の稽古を終えて畑道を小屋まで戻る中途だった。北東の方、不意に
   目に飛び込んできた光にはしかし、強いなじみがある。見間違えるはずはない。
    「おお、カードの力だ、シェン山の上に!」
    声を上げ、先に小屋に入った皆に注意をうながす。すぐさま、ウェイ老がマヤがジャクチェ
   が飛び出してきた。その間にも、山すそから光に向かって太い雲の柱が立ち上がる。隆々、
   盛んに厚い群青の固まりが湧きあふれ出てやがて山上に傘を開いた。見る間に、霊峰は
   おろか周囲の山々までもが藍色の影の下敷きとなって覆われ尽くす。
    「神龍の顕現ですな。どうやら封禅の儀が始められたようでござる」
    ウェイ老がつぶやき、ゼネスもうなずいた。その一方、
    「わぁ、この前のマヤん時と同じだ、ムクムク雲が湧いてるよ!」
    歓声をあげてはしゃいだのはジャクチェである。彼女は両手を目の上にかざし、ひさしを
   作って三角の山を望み見た。その頃になって「ゴゴゴロゴロゴロゴロ……」遠雷の響きが届く。
   此処からでは遠すぎて雲間の閃光まではしかと見定め難い。が、それでも確かに竜の力が
   働いている証左の音である。
    村内を見渡すと、他の村人らもそこかしこでゼネス達と同じく仕事の手を休め、霊山の
   雲を遥拝(:遠方を望んで拝むこと)する姿が目に入った。
    そのまま待つことしばし――山上に広く厚く垂れ込めた雷雲のただ中に、ついにうねり
   くねる長い影が降臨した。「ゴゴゴゴゴゴ……」雷鳴を轟かせ、霊峰の山上にとぐろを巻く。
   その全貌は青黒い雲に阻まれ、金鱗きらめく蛇体はところどころしか拝むことはできない。
   それでも、炯々と光る二つの目玉は雲間を通してさえはっきり見えた。さらには、大きな
   真っ赤な顎(あぎと)が「ぱくり」と開くさまも。
    ゴゴォ――
    ドッと風が来た。一瞬身体が傾(かし)ぎ、思わず足を踏みしめる。それほどの風圧だ。
   天地をどよもす竜の啼き声、それが封禅の儀の始まりの合図であった。


    「でもさぁ、その"ほーぜん"てのがどんなモンだったか、あたしにゃよくわかんなかっ
    たよ先生。雲と竜神さまのお姿は見えたけど、他にはなんにも起きなかったし」
    「ははは、それは仕方もないこと」
    やや不満げに唇をとがらせる娘の言葉を受け、老爺は朗らかに返す。
    「『封禅の儀』とは、皇帝陛下御自らが天に供物を捧げられ、祝詞を唱えられて斎(いつ)き
    祀る儀式でござる。確か、シェン山の頂には盛り土して祭壇を設ける習いでござったはず。
    それでもさすがに儀式そのものは、陛下のお声が届くほどの間近でなければそうはっきり
    とわかるものではござらぬよ」
    遠方からでは肝心の儀式の内容はわからない。言われてみればもっともな話だが、山猫
   娘なお得心がゆかぬようで眉をしかめている。
    「それとさぁ、今だから言っちゃうんだけどさ……」
    彼女はひと切れつけものをつまみ、茶をすすり込んだ。
    「マヤの竜神さまに比べると、今日お降りなさった竜神さまは何だか細くて小っちゃく
    って、おそれ多いっていうより可愛いぐらいだったよねェ」
    一座に苦笑の気が流れた。
    「ジャクチェよ、それを言うては副将軍どのがお気の毒というもの」
    笑いを噛み殺しつつ、老爺がたしなめる。
    「私も以前には先帝のお供で何度かは封禅の儀に立ち会うてござるが、本日の顕現は
    あれはあれで十分に過去の招来に勝るとも劣らない出来栄えでござった。マヤさんの
    神龍は従来とは桁の違う御姿で、まさに別格と呼ぶべきもの。比べられてはたまらぬ、
    とは歴代のどの遣い手もグチをこぼすところでござろうて」
    ゼネスも横合いから口をはさんだ。
    「神龍の体躯は、そもそも遣い手のセプターがどれだけ水の精霊力と通じ合えるのか、
    という一点にかかっている」
    ここは黙ってはいられない。彼は副将軍に少しばかり同情していた。
    「俺が見る限りあの副将軍とやらの神龍も、雷雲の影はシェン山の裾野を覆ってあまり
    あった。立派に軍隊数万規模の力だ、この国の神龍の言い伝えには適っている。それを
    "物足りない"と言われた日には、どんな上級セプターも立つ瀬がないというものだぞ」
    彼もまたニヤニヤ笑いを噛みながら言い聞かせた。ただ、終いの方ではかすかに本音
   めいた調子も混じったかも知れない。
    「ふ〜ん、じゃあマヤがそんだけスゴいってことなんだな? やっぱり、皆が言う通り
    巫女さまだぁ」
    老師と客の説明を聞き、娘は明るく屈託もなく感心してみせた。のであるが、ここまで
   黙って赤い顔をしていたマヤはうつむいてしまった。
    「ジャクチェ……その"巫女さま"っていうのは私……止めて欲しいな。あなたにまで
    そんな呼び方されたらほんとに恥ずかしい……」
    目を伏せ、声も心なしか沈む。
    「あ、ごめん」
    山猫娘は慌てて詫びた。が、その顔つきはむしろ"きょとん"と腑に落ちない様子に見える。
   友人の内心にわだかまる忸怩、それは彼女には想像もつかない思いなのだ。
    マヤ自身は遊里に生まれ、妓楼に人と成った少女である。通常、一般人からは蔑まれる
   「妓女」という身分。それが、図らずもタイハン国の有力カードを多数隠し持つ境遇となって
   しまった。その彼女が今では、他ならぬタイハンの人々から「巫女さま」と呼ばれてあがめ
   られる。運命の皮肉としか言いようがない。
    ゼネスはそっと弟子の顔をうかがった。伏せられた長いまつ毛が細かく震えている。
    『そろそろ、ここを去る潮時かも知れんな』
    密かにそう思いめぐらせた。

    「それにしましても、陛下も封禅の儀を終えられたのであれば――」
    やや気まずくなってしまった場の空気を察してか、ウェイ老がさり気なく話題の水先を
   変えてくれた。
    「これから都にお戻りあそばされた後が、真(まこと)の正念場でござろうな」
    一同の面が再び上がった。封禅を経て若い皇帝が都に帰還すれば、まずは正式な即位の儀
   が執り行われ、その次にはいよいよ新皇帝による先帝の寵臣らへの粛清が始まるはずである。
    「今上陛下の御元にて新しいご政道が開かれる時――とは、先帝のご政道を支えた臣下に
    とり、己れの過去の仕事に対する天下の裁定を下される時でもありまする。人の評価が
    定まるのは常に、棺を蓋(おお)いて後のこと。とは言え、各々に朝で重きをなした存知
    よりの臣らに対し、もはや変えることの叶わぬ過去を突きつけて責を問わねばならない
    陛下のお気持ちにも、さぞかし辛いものがございましょうなぁ」
    老いた師は北東の霊峰を見上げ、微かにため息をついた。確かに、先帝の代からの臣と
   なれば、新帝は幼少時よりその一人ひとりの顔をよく見知っていておかしくはない。政道
   を正すという大義のためではあれ、旧知の人々に粛清の大鉈(なた)を振るわねばならぬ
   皇帝の胸中はいかばかりであろうか。
    ゼネスもまた北東の空を眺めやった。弟子を思いやる師の心は今の彼にはよくわかる。
   「貴兄が心配されるのももっともなこと。だが、それでも皇帝はやるだろう。十八年もの
   歳月を宮中に雌伏し、ひたすら牙を磨き爪を研いできた男だ。私情も万難も排してきっと、
   必ず己れの成すべき事業はやり遂げるだろうな」
    ――と、ここまで語った時。
    「え? あれ? "男"って……あ、そっか」
    驚いた、ような頓狂な声をあげたのはジャクチェだった。しかしゼネスには彼女に驚か
   れる理由がまるきり思い当たらず、悩む。さて? と他二人の顔を見ればこれはいかに、
   どちらも曰く言い難い微妙な面持ちで一方は苦笑いし(ウェイ老)もう一方は困り切って
   いる(マヤ)ではないか。
    「何だ? いったい?」
    仕方もなく、山猫娘に訊ねた。

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