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       第12話 「 水の上に映る 」 (2)


    「ああ、うん。今の帝さまはさあ、皇帝っていっても男じゃないんだよ、女の方なんだよ
    若先生。あたしたちにはもう当たり前過ぎて、若先生たちにもわざわざ言ってなかった
    っけね、そう言えば。ごめん、ごめん」
    ついうっかりしていた――と気楽そうな明るい返答だった。が、しかし、
    『何……皇帝が女、だと……』
    ゼネスは絶句した。内心に驚愕した、目も口も「ポカン」とただ開け二の句が告げない。
    その彼の自失ぶりを見て取り、老爺も言葉を継ぐ。
    「そうですな、貴君が驚かれるのも無理はない。他国では通常、皇位・王位は男子のみが
    継がれるものと決まっておりますからに。
     しかしこのタイハンでは、直系に限りますが女子方も皇位の継承権を有されまする。
    皇帝とは乾(けん)の乾たる者なれば、性別以上にご気質の『乾』が尊ばれますがゆえに。
     とはいえ、これまで女子方が皇位に就かれた先例はございませなんだ。今上こそが、
    我が国始まって以来初めての女子皇帝であられまする」
     ――「乾」とは大いに伸びるさま、興るさま。光り輝く太陽、あるいは草木の芽吹きの意。
   引いては天の象徴を云う。なんと、説明によればタイハン皇帝の皇位継承権は性別よりも、
   その人の性質が尊重されて選定されるのであった(多分に建前ではあったようだが)。合理
   的と言えば合理的、であるが非常に独自だ。少なくとも、ゼネスの感覚には「皇帝・皇太子」
   と呼ばれる人が女性でもあり得る――という方向性は無かった。虚を突かれたような気がする。
    「それにしても……俺には男子としか見えていなかった」
    「それはもっともでござろう」
    老爺は軽く笑んだ。
    「今上陛下は皇太子と定められてよりこの方、もう二十数年がほどは男子の立ち居振る
    舞いを続けておられますからな」
    二十数年来の蓄積、ということは少なくとも、ウェイ老に剣技を習い始めた八歳時には
   すでに、皇帝は男子として振る舞う術をも習得しはじめていた勘定になる。"彼女"の男装
   は、マヤよりも遙かに年季の入った代物なのだ。
    ゼネスは己が目にしたはずの皇帝の風貌を思い返してみた。白銀の鎧(それは彼女の
   女の身体を隠しおおせた)、きびきびと爽やかな身ごなし、凛として張りのある声(今思えば、
   男としてはやや高かったかも知れない)。全て見事な、と言うか天晴れな"男振り"であった。
   彼女が自らの性別を越え、皇帝たらんと日々重ねた努力がいかほどのものであったか……
   想像するだに感嘆、いやいっそ驚嘆を覚える。
    が、その一方で、
    『む〜む、不覚。またしても俺は……』
    己れを愧(は)じる思いもまたある。女性の男装を見抜けなかった件は、マヤの時に引き
   続き二度目にもなるもので。
    「ん? マヤ?」
     そしてようやく、先ほどの弟子の困り切った表情に思い当たった。
    「お前はとっくの間に気がついていたんだな」
    確認する。果たして、
    「うん……」
    小さな歯切れの悪い声が返ってきた。
    「でも、ほら、私がわかったのは神龍を遣ったから。神龍の眼を通すまでは男の人だと
    思ってたの、ゼネスと一緒で。だから……もしあのカード使わなかったら全然わからな
    かったんじゃないのかな、私も。多分、だけど」
    なるほど、と思うには思う。何事も見通す神龍の眼を借りたがため、マヤの感覚は真実
   に触れていた。それは分かる。が、
    「だったら……なぜそれを俺に教えてくれなかった」
    少しくうらみがましい声が出てしまった。ゼネスの内心の忸怩そのままに。
    すると、弟子の顔はまたしても伏せ加減になってしまった。
    「だって……もしかしたら言っちゃいけないことかも知れないって、そう思ったから私。
    まさか皆んなが知ってたことだったなんて……」
    ハッとした。
    『そうか、そうだな、お前にしてみれば――』
    マヤの男装は己の過去を隠すため、さらには女性として他人から"見られる"苦しみから
   逃れるため――彼女は妓女時代にすでに十二分に、一方的に値踏みされ消費される視線を
   浴びている――の手段であった。その彼女が同じ男装の女性を目の前にして、その上その
   相手が本来は男であるべき皇帝の身分であったのだから、「女性」という真実を秘事と思い
   込むのは無理もない。それを「教えてくれなかった」と責めるのはスジ違いというものだろう。
    『何しろ政(まつりごと)の場と遊里は似ている。どちらも……男が中心の世界だからな』
    そこまで考えた時、
    ――貴女を籠の鳥にはしたくない――
    皇帝がマヤの手を取って言った言葉が想い起こされた。
    『あれは、一種の同情の言葉だったのだろうか』
    皇帝はあの時、カード紛失の顛末に伴って図らずもマヤの生い立ちを知ることになった。
   宮廷と遊里、男たちの間に立って常に何者かを演じ続けなければならない女同士が一瞬、
   心を寄せ合ったとしても不思議はない。
    「帝さまは――」
    顔を伏せたまま、マヤが声を出した。彼女は自分の手のひらにじっと目を落としていた。
    「とても堂々としてらしたね、本当に生まれついての皇帝陛下だと思った、私。女だとか
    男だとか、そういうことよりも先に」
    「今上陛下は男子の御姿を皇帝としての『型』ととらえておいでなのやも知れませぬな」
    不意にウェイ老の声が滑り込んできた。少女の顔が上がった。
    「型……ですか?」
    「左様(さよう)」
    ゆったり、うなずいて、
    「例えば、剣技の型に男女の別はありませぬ。型とは合理にして用いるべきもの、大切
    なのは型の持つ理(ことわり)を深く理解し、そこに己れの精神を通すことでござる。
    さあれば剣技の型は女子であれ男子であれ、どのような精神をも宿し得まする。
     ならば、もし『男子』という型と『男子の実質』そのものとは別と解すれば、それは
    『男子』の型に女子の精神が宿ることをも含み得るはず。つまりは剣技と同じでござるよ」
    「ほう……確かに」
    感心した、新鮮な視点だ。剣を遣う型に男女の別がないように、皇帝という立場もまた
   本人の性別より、男の姿を象(かたど)った「皇帝」という型をどれだけ己れのものとして
   使いこなせるかに掛かっている、そう言うのである。先に皇帝と十数年ぶりの対面を果た
   した際、ウェイ老は彼女を「優秀な弟子」と称えていた。それはあながち世辞ばかりでも
   なかったようだ。
    「ふ〜〜ん……でもなんかよくわかんないや、あたしにゃ」
    急に山猫娘が話に割り込んできた。ずっと黙って(彼女には)難しい話に耳を傾けていた
   ものが、ついに辛抱の緒が切れたらしい。隣でまだ自分の手のひらを見つめているマヤの
   肩先を引っ張った。
    「今のお話はさ、とにかく帝さまはカッコいい! ってことでいいんだよな? 男の格好
    なさって男の物言いもなされてはいたけど、それでもこうパァッと輝くみたいな匂い立つ
    みたいな素敵な風が吹いてて、ホントの男の人よりもずっとずっとカッコ良かったよ。
    なァ、マヤだってそう思っただろ?」
    娘に同意を求められ、おや――少女の顔が薄赤く上気する。
    「カッコいい……うん、もちろんそれもあるんだけど……。
     帝さまのお手、とってもやわらかくて温かでしっとりしてたの……あの方に手を握って
    いただいた時のこと思い出すと、私……何だかドキドキしちゃう」
    さらにうつむき、彼の人に握られた手をじっと見つめ直す。すぐに彼女は顔中はおろか
   首の後ろまでをも真っ赤に染めた。
    「ああ……そんなこと聞いたらあたしもなんだか……」
    "赤面"状態はたちまちジャクチェにも伝染した。血が上った頬を両手で包み、小鼻を
   ふくらませて「ふぅっ」熱いため息を吐く。
    『…………』
    呆気に取られ、ゼネスはまたも口を開けて二人の少女らを眺めていた。理解できない。
   同性に対する彼女たちのこの強い憧憬、いや興奮のさまは一体何としたことか。
    唖然とするばかりの彼の傍ら、老爺はしかしひとりそ知らぬ澄まし顔でゆっくりと食後
   の茶をすすっていた。



    何処からか涼しい風が「ひそひそ」吹き寄せてきた。ことに気づき、ゼネスは鍬打つ手を
   止めた。顔を上げると陽はすでに山の端に近い。ひやり、額と頬が冷える。山肌を西から
   東へ微風が動く。
    手を休めたついでに腰も伸ばし、そのまま「ぐるり」周囲を眺め渡した。大きく息を吸う。
   湿った土の匂い――掘り起こしたばかりの畑の黒土の香が肺腑に沁みた。少し離れた畝
   には士が立ち、こちらは手を休める気配もなく勤勉に土を打ち続けている。
    斜面の畑は整然としていた。土を盛り上げた畝が幾すじも連なるだけで、草の緑は一片
   も見えずガランとしている。畝の中には作物の種が埋められてはいた。が、それらが芽を
   出し葉茎を伸ばすのはまだしばらくは先のことだ。
    『それでも、ようやく畑が畑らしくなったな』
    空の畑地を眺めて、しかし彼には感慨がある。というのも実はこの地、先だって皇帝を
   守る戦いが繰り広げられた場所であった。もちろん大半がウェイ老の地所である。激しい
   戦闘により踏み荒らされ尽くしたものを、数日かけて元の作物を育む場に戻したのである。
    折れた草木を除き、焼いた灰を撒いたり堆肥をすき込むなどして後、ウェイ老の指示に
   従って秋蒔(ま)きの種子を数種類埋めた。連日の作業には手がかかったが、今こうして
   あるべき貌(かお)に整えられた様子を見ると体の疲れも心地良いと思えるのが不思議だ。
    「確かに、"治癒"のカードを使ってしまえばこんな思いは味わえなかったな」
    そう、ひとりごちた。戦い終わって皇帝一行も去った時、彼らの前には荒れ果てた畑だけ
   が残されていた。
    畝の形も消え果て、大勢の足に踏みつけられて折れしおれた緑が散らかる荒海のような
   眺め。それが戦闘前までは連日水をやり、雑草を抜き、石を拾っては作物の生長を見守って
   きた場所だとは、にわかには信じ難いありさまであった。つくづくと見つめて、ゼネスの胸も
   さすがに痛んだ。
    そこで彼は、ウェイ老に「治癒」のカードを畑地に使用する案を申し出た。治癒の呪文は
   生物全てに対して身体・組織の修復の効果をあらわす。植物も例外ではない。荒らされた
   畑地に残る作物も、治癒の効果でよみがえるだろう――そう考えたからである。
    だが、老爺は申し出をやんわりと断った。
    「農事に不慮の天変はつきものにてござる。されば、こたびはこの仕儀を機会に新たなる
    作物を手がけようとの心積もりをいたしておりましてな」
    静かな笑みを含みつつ、かの人は納屋よりいくつかの小袋を取り出して見せた。どれも
   夏の終わりから秋口にかけて蒔く種子やら種芋やらであり、晩秋から翌春にかけての収穫
   を期待できる野菜だ、と説明された。
    今目にしている畝の一部には、すでに最初の種蒔きが済んでいる。残りは少しずつ日を
   ずらせて蒔いてゆく、との話だ。そうすれば、冬中も途切れなく菜を手にできる。
    聞くだに粘り強い業(わざ)であった。打たれ伏して泥にまみれようとも必ず立ち上がる。
   立ち上がってまた営々と日常の仕事を続ける。かくまでに辛抱の効く精神あってこそ、
   山の上までにも水田を登りつめさせることも可能になるのだろう。農民の強さとはいか
   なる性質のものであるか、身近に接してゼネスにも深く得心された。
    そして、彼もまた静かに土を見る。夕風の下、種子を抱く新しい畝の濃い影が頼もしい。
   いずれ覆った土を破ってここから突き出る芽が、今から目に見えるようだ。
    「嬉しい」、と思う。じんわり、胸底あたりより身の内ににじみ染みてゆく嬉しさ。戦闘の、
   あの火花の瞬きにも似た熱い歓喜とはまた違う、息長く温もりある喜びの情だ。戦いに
   明け暮れるだけの日々には知るよすがもなかった。だが、「育てる」喜びをも抱くことに
   なった現在の彼だからこそ、理解できる思いかも知れない。
    「ゼネス」
    不意に名を呼ばれた。畑地に広がっていた想念が身体に引き戻された。
    「マヤ、か」
    振り返る。弟子の少女が立っている。
    「どうした、忘れ物か?」
    「うん、ちょっと」
    夕暮れ近いこの時間帯には、彼女はいつもならば山猫娘と共に小屋に引き上げ、夕食の
   支度など始めているはずだった。それがまた畑に戻ってくるとは珍しい。
    「ちょっと、ね……」
    うつむきがちの小声で言い、「ちら」と離れた畝に士を見やった。それだけだった。が、
   士はさっさと師弟に向き直り、軽く頭を下げるとそのまますたすた、畑道を下って行って
   しまった。彼はいつでも何事をも"心得て"いる。
    「言ってみろ」
    遠ざかる背を見送り、ゼネスも弟子にうながした。
    少女は下を向いたまま話しだした。
    「ジャクチェがね、彼女が言うにはね、明日ぐらいにはお父さんが迎えに来るんじゃない
    かって。それで山に帰るって、あの娘(こ)」
    「そうか」
    これでわかった、マヤは心細いのだ。山猫娘とはもうすっかり仲が良くなっていたし、
   ジャクチェはチェンフと共に、神龍を見た後でもマヤへの態度が変わらない数少ない村の
   関係者だった。また何より、彼女のさっぱりした気性と物事にこだわらないおおらかな性質
   は、マヤにとり一種の救いとして作用している――とも、ゼネスは見ていた。そのジャクチェ
   から別れを告げられて、弟子はいたたまれなくなったのだろう。
    「寂しくなるな。だが仕方がない、別れは来るものだ。俺たちも……そろそろここを去る
    潮時だぞ」
    「はい」
    顔を上げないまま、返事だけが返って来た。彼女もわかってはいるのだ、十分に。まだ
   割り切れていないだけで。
    「帰ろう」
    鍬をかつぎ、畑から細道に出た。師の後ろを弟子もまた続く。斜面の畑地は夕方の陽を
   浴びて一面金色(こんじき)に輝いていた。しばらく、二人黙々と金の海に家路をたどった。
    「ジャクチェはね」
    帰路半ば、急に背後で弟子の声がした。
    「花が咲くかどうか、気にしてる。明日の朝」
    「花、だと?」
    足を止め、振り向いた。右腕にかついだ鍬の旋回の感触が伝う。
    「ほら、百合の花。彼女が山から採ってきて、今チェンフくんが畑で育ててくれてる花。
    前に話したことあるはずだよ」
    「ああ……そうだったな。思い出した」
    言われてみれば、と浮かんできた。マヤと入った山の奥、切り立つ崖に咲いた純白の百合
   を見上げ、弟子が山猫娘の百合の話をしてくれた――ことがあったな、と。
    「ジャクチェが今日見たら最初のつぼみがふくらんで、もうすぐに咲きそうなんだって。
    できれば花が咲いたの見てから帰りたいって、言ってた。
     チェンフくんが大事に育ててくれてるんだもんね、そういうとこすごく女の子らしいよね、
    彼女」
    そう語るマヤは、今は顔を上げて、細長い盆地のここからは反対側にあたる斜面を見つ
   めていた。夕方にはちょうど山陰に入るそこは、すでに薄暗い。ゼネスはその弟子の横顔
   を、中でも長いまつ毛のあたりをじっと見ていた。
    「女の子の幸せってどんなものなのか、私、今までずっとよくわからなかったんだけど
    ……ジャクチェといて、あの娘を見ていて、少しだけどわかった気がするの」
    ハッとした。息を引いた。
    「幸せ」という言葉、「女の子の幸せ」と耳にして。だが、弟子が山猫娘に見た「幸せ」
   とは何だろう。すぐには思い当たらず、考えを廻らせる。
    父親に愛され、ウェイ老にも可愛がられ、幼馴染みの少年とは口ではケンカしながらも
   仲良く過ごしている。そうした日常の幸福を指して言うのだろうか。
    その師のとまどいを見透かしたように、弟子はすぐに答えを口にした。
    「だって彼女は、ジャクチェは丸ごとの自分をそのまま生きてる人でしょう」
    『そうか――』
    言われてようやく納得した。「女の子の幸せ」。丸ごとの自然な、生まれたままの、何も
   損なわれていない「自分」。確かにジャクチェはそういう娘だ、まるで本物の山猫そのままに。
    さらに気づく。マヤは遊里に生い育った。そこは男の夢想を実現する場所であり、彼女
   たちに求められるのはいつでも、男の考える女らしさだった。その遊里を出て旅の途上に
   出会った女性たちも、ユウリィは無論のこと、王の寵姫だったミリア=ソレルでさえもが、
   自らの生を心のままに謳歌することなく忍従の日々を生きて過ごした。
    マヤは以前、彼に言ったではないか。「女はみんな、ゴミ捨ての穴」だと。思い出される、
   疼(うず)くような痛みをともなって。
    その彼女の目に、野山を駆け巡って奔放に振る舞うジャクチェはどれほど輝かしく映った
   ことだろう。「幸せ」、彼女が口にしたのは真に自由な精神と身体の云いに違いない。
    「そうか、"幸せ"か」
    言葉を返す、と同時に不意に胸中にひとつの疑問が生じた。
    『ならばマヤの幸せ――とは、何なのだろう?』
    考えたことがなかった、これまでに一度も。覚えず息遣いの底がざわめく。
    マヤはジャクチェのことを「丸ごとの自分を生きている」と言った。それが彼女の考える
   「幸せ」と密接なつながりを持つのだとすれば、マヤにとっての「丸ごとの自分を生きる」
   状態とは、一体どのようなものになるのだろうか?
    ――『神龍の眼』
    真っ先に思い出されてしまったのはしかし、先だって遭遇した畏怖の瞬間だった。あの時
   神龍の上に表れた「何か」、常のマヤの内では折りたたまれ眠っていると思しき何者か――
   かつてギョーム老はそれを「カギがかかっている」と表現した――が扉を開け、全面的に現れ
   ることがあるいは、彼女にとっての「丸ごとの自分を生きる」ことなのだとすれば?
    果たして、ゼネス自身はよくそれを許し、さらには受け止めることができるのか。
    『………………』
    黙した。頭もろとも身体の時が止まっていた、考えを進めることが出来ずに。否、考える
   ことを拒否して。
    しかし、
    「マヤ」
    少しの間の後、呼びかけた。努めて平静を装った声を出した。
    栗色の頭が動き、とび色の瞳が師を見上げる。
    「お前はウェイ老のみならず、あの山猫娘からも実に多くを学んだようだな」
    言って、続ける。
    「俺もあの娘のことは気に入っている、最初に会った時から生きのいい山猫みたいな奴
    だと思った。良かったら彼女から教わったことを何か、俺にもひとつ教えてくれないか。
     そうだ、釣りなんぞはどうだ?」
    目の前の唇がほころんだ。
    「魚釣りやりたいの? ゼネスは。あれ、でも水に竿を出してじぃ……っと息を詰めてなく
    ちゃいけないんだよ。あなたが川とかで竿持ってじっと立つの? なんか想像つかない」
    少女の肩が、髪が揺れた。師の意外な姿を思ってくすくす、笑う。それはゼネスがよく
   知るいつも通りのマヤであった。見ていると胸の内に温もりが灯る。
    だが、しかし、
    『逸らしてしまった、俺はわざと――』
    一方でその自覚はある。喉の奥にうっすら、苦衷が沁みた。

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