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       第12話 「 水の上に映る  」 (7)


    「ゼネス殿、お寝み中のところをかたじけない」
    夜半であった。薄い寝具を被って休む耳に忍び入った声は小屋の主である。闇の中に
   端座して客を起こしにかかっていた。
    「これは……いかがなされた」
    慌てて起き上がった。と、主は唇に指を一本当てた。マヤを起こすな、との意である。
    そっと静かに床を離れた。老爺はすでに戸を開け、外に出ている。ゼネスも続いた。
    「申し訳もござらぬ。貴君とは一度こうしてゆるりと語らいたいと思いまして、な」
    「いや、お気遣いなく。俺も同じ思いを持っておったれば」
    夜気は冷えていた。とはいえ、肌寒いほどではない。さらさら、さらさら、吹く風が稲
   を騒がせる音も心地よく、そこここにすだく虫の声が自ずと強弱をつける。過ごしやすい
   夏の夜である。
    今宵、月は細り始めていた。が、竜眼の男と老剣士にとり「暗い」というほどではない。
    「ゼネス殿、まずもって申し上げます」
    老爺が急に貌(かたち)をあらためた。
    「士は己れを知る者のために死す、と申しまする。あの日、貴君が我が士を見出されて
    一散に畑道を駆け上って来られ、対戦の申し出をなされたあの時、私は久方ぶりに老い
    の血が滾(たぎ)り申した。まこと嬉しうござった。
     私の剣はこれまでにも、さまざまなお方との出会いを導いてくれました。こうして
    ゼネス殿とマヤさんにお会いできましたことも、ありがたくも不思議なる剣の巡り合わ
    せのひとつにござる。今は我が剣と運命に感謝をしておりまする」
    言って、声なく笑う。老いた顔にさらに深く皺が刻まれた。
    「マヤさんは良いお弟子でござる。恐れながら、陛下のお若い頃を彷彿とさせられまし
    たな。今だからこそ申しますが、お相手しながらも冷やりと汗したことが幾度もござっ
    た、ゼネス殿のご指導のよろしきが偲ばれました」
    「いや、それはまた随分な買いかぶりを」
    頭を掻いた。謙遜でも何でもない、冷や汗が出るのはむしろ彼の方だ。いつも弟子に追い
   立てられながらここまで来た、そう思う。「鏡」を見れば大写しに映るのは我が身の至ら
   なさばかりではなかったか。
    「貴兄ならばすでにお見通しのはず、俺はむしろ我が弟子に追い立てられ、引きずられ
    ながらようよう歩みを進めてきた不肖の師にて」
    汗にまみれて言った、本心の本音を。すると老爺は「はっはっ」と今度は声上げて笑う。
    「さればこそ、師の本懐というものでしょうな。お察しをいたします」
    そう言い、遠くの暗い霊山を仰いだ。ひととき沈黙が流れた。
    「ゼネス殿」
    だしぬけに、再び語りかけてきた。
    「人の内には焔(ほむら)がござる」
    冴えた声が響いた。
    「その焔、一方では己が心身をより高みへと押し上げる推進の力となりまする。が、もう
    一方では我と我が身を焼き滅ぼす業火ともなりましょう。
     ゼネス殿と最初の立ち合いをいたしました折、私は貴君の内に強い焔を感じましてな、
    失礼ながら、これまでその正体を見届けんとの思いで貴君を拝見しておりました。
     しかしながら、未だ結論が出せてはおらぬのでござる。なので貴君御自らにお訊ねを
    ばいたしたい、貴君の焔は己れを高めるもの、焼き滅ぼすもの、どちらにてござろうか?」
    息が詰まった。声が出せない、問われる問いの答えが形にできない。
    『俺の焔は……』
    何も思い当たらないわけではない、否、はっきりとわかり過ぎていて恐ろしい。この老
   剣士を前に、思う答えを口にはしたくない。
    「先帝さまは、焔のお人にござった」
    客の無言には触れず、老爺はため息するように密かな声で話題を転じた。
    「滾り立つ焔の燃え盛るままに国の版図を広げ、威勢を増し、このタイハンを東の大国
    へと押し上げられました。しかし、晩年に至ってその同じ焔が国を滅ぼしかねぬ災厄と
    もなりました。皮肉なことでござる」
    ひそひそ、秘めやかに語った。辺境の地とはいえ、臣下としてあまりにも大胆な発言で
   はある。
    「剣技は人を制する技。なれど、必ずしも相手を殺めねばならぬものではござらぬ。制
    するは"剣"、殺するは"刃(やいば)"、私が陛下にお伝えしたのは『己れを剣と成すとも
    刃と成すことなかれ』――これに尽きました」
    「確かに」
    同意の言は呻(うめ)きとなって出た。汗はすでに全身をしとど濡らしている。
    「……ウェイ師よ」
    がくり、ゼネスは膝からくずおれて地に手をついた。うなだれ、眼前の人に懺悔する。
    「俺は刃であった。いや、今もって刃だ、長い長い間、己れを刃と成すことの他を知ら
    ずに来てしまった。本日たまさかに貴兄より一本を取ったとはいえ、それでこの刃が剣
    に変じるわけもなく……」
    語尾が詰まった。涙で詰まった。身中に業火の焔を抱き、ひたすらに戦闘の興奮のみを
   求めてきた己れはまさしく刃そのものであった。剣の人を前に今、慚愧の念にからずには
   いない。『覇者の試し人』とは片腹痛い、所詮は刃の自己満足の歳月でしかなかった。
    両手を地に、呻き泣く。だが、彼の肩にそっと温みが添えられた。ウェイ老の手であっ
   た。
    「ゼネス殿、どうかお顔を上げられよ」
    落ち着いた声音が耳に入る。痛みを和らげようとするような柔和な声が。
    「そうは仰るが貴兄は一剣を鍛えられた、それも天下の名剣をでござる。もとより刃に
    成せることではござらぬ、貴兄はすでに刃ではござらぬ」
    「天下の名剣を、俺が?」
    涙をぬぐい、聞き返した。すぐには呑み込めなかった。皺がちな顔に浮く切れ長の目を
   見返す。と、やんわりうなずいて寄こす。
    「名剣の素地も、もし鍛え磨く者無くばそこいらの雑刀にも劣りまする。他ならぬ貴君
    が鍛えたればこその名剣の光輝、少なくとも私はそのように感得をいたしました。
     もう一度申し上げましょう、貴君はすでに剣であって刃ではござらぬ」
    「俺が刃ではない、と」
    にわかには信じ難く、問うでもなくただ口にした。ウェイ老の言とはいえ、なぐさめ以
   上の意を含むものとは思われない。
    茫然とたたずむ耳に、しかしさらなる言葉が注がれた。
    「ゼネス殿、貴君は弟子を取られた。さらにはその弟子を誠心誠意守り、かつは鍛えて
    こられた。弟子は師より後から来て師のさらに先までを行く者、なれば弟子を取られた
    時すでにして、貴君は刃たることを脱されていたのではありませぬかな?」
    「それは……」
    弟子を取るとは未来に期待すること――であれば確かに、我が身ひとつで完結してしまう
   刃の所行ではないだろう。もとはと言えば利己的な目論みから始まったマヤとの師弟関係
   ではあった。だが、彼女の成長を願う心を得た時、自分もまた刃から剣への変身を遂げて
   いたのかも知れない。ならば師としての思いこそは燭光であろう。暗く垂れ込めた視界に
   微かな光が差し込み、世界を開く。感無量とは今この時であった。
    貌をあらため、顔を上げた。
    「ありがたき、お言葉。まことに痛み入る」
    もう何度目になるかわからぬ感謝の言葉を述べた。真実の感謝とは、何度してもしきれ
   ぬものと得心しながらも。
    「ゼネス殿、そうかしこまられるといささか心苦しうござる」
    ウェイ老はしかし、やや苦笑ぎみに受けた。
    「偉そうなことを云うてはおりますが、この私の人生も恥多きものにて」
    「や、それはまた異なことを仰せられる」
    意外な言葉に驚いて問い返した。すると確かに、老顔には含羞の色が差している。
    「先にも申し上げました通り、私は西の辺境の出でありまする。西の異民族とは痩せた
    荒れ地に生きる者同士、反目のうちにもたまさかにはよしみを通ずる間柄でもありまし
    た。それを私は、職務とはいえ彼らを追い散らす役割を果たしてしまいました。是非も
    なきこととは言え、実は今に至るも心苦しく。
     まこと、戦のむごさは最も弱い者同士が殺し合うところにありますなぁ」
    湿った声で口にし、しみじみと月を見上げた。
     夜空の月、追われた異民族をももろともに照らす光を。
    『もしや、このお人があえて膝斬りの刑を受けられたのは――』
    穏やかに老いた横顔を眺めつつ、ゼネスの脳裏に冷やりとした想像が浮かんだ。

    朝が明けた。出立の朝である。起きてみると細かな雨が降るあいにくの天候ではあった。
   だが、この地ではすでに慣れたいつもの通り雨と見て、師弟は旅立ちの準備はそのまま、
   まずは朝餉をいただいた。ウェイ老は山路を行く客のために白米をふるまってくれ、さら
   には秘蔵の鶏たちが生んだ卵まで付けてくれた。いずれも精がつくように、との心づくし
   である。
    主に教えられるまま生卵をといて味付けし、炊きたての白飯に掛け回して掻き込むと、
   えらく食が進んだ。二人ともたちまち腹がくちくなった。
    食後、茶をすすっているとチェンフが顔を出してくれた。ウェイ老の知らせによるもの
   らしい。ニキビ面の少年はひと夏の間に一段と肩幅広く、足腰も逞しくなった。それでも
   思いやりある気性は変わらず、餞別だと言って「今年最後の」李(すもも)を五つばかり
   持ってきてくれた。
    「オレはお二人のこと、ずっと忘れませんから」
    そう告げる顔は心なしか赤く、目もうるみがちだった。
    こうして師弟はけぶる雨の中、山中の村を後にした。選んだ路は稽古場から山へと踏み
   込んで登る小径、ジャクチェたち山の民が使う山の通い路である。鬱蒼と繁る木々の下を
   歩めば、雨はそれほど気にはならなかった。
    木々の間から見える周囲の山肌は濃い緑に覆われ、いくつもの襞を作ってえんえん、連
   なり重なりあう。山の上の方では、深い襞の間から薄く白い雲が湧き出す様子も見えた。
   濡れた落ち葉と苔の匂いがしんしん、緑陰にこもる。適度に雨降る夏の山はむしろ進みや
   すいとさえ言えた。
    だが歩むうちに雨は過ぎ、日が差してきて今度は盛んに蒸してきた。林の中は涼風も吹
   くとはいえ、額から背から全身が汗みずくになる。それでも二人とも黙々と登った。
    そうしてひたすらに脚を動かすうち、急に目の前が白っぽく開けた。高い山の中腹が岩
   場となっており、樹木が生えていないのだ。乾いた大きな岩がごろごろと並び、その合間
   にはお誂え向きに澄んだ谷川まで流れていた。格好の休憩所の趣きである。
    弟子の少女はさっそく靴を脱ぎ、流れの中に素足をひたした。
    「うわっ、気持ちいい!」
    抜かりなくチェンフの李も取り出し、流れに浮かべて冷やしにかかる。
    ひと息ついて周囲を見渡すと、
    「あ」
    師弟は共に、期せずして歓声をあげた。
    彼らが後にしてきた村が、この場所からははっきりとよく眺めることができた。
    目を凝らす。荒い海のような濃緑の広がりの中にぽっかり、稲の黄味がかった緑が浮か
   んでいる、棚田や段々畑が作る横縞模様もそのままに。荒々しい剥き出しの山野の中で、
   辛抱強い農民たちの日々の丹精の成果は別世界の境を思わせる。
    「"桃源郷"か」
    つぶやいた。それを受けてすぐ、
    「昔話であったね、狭い洞窟を抜けたら桃の花が咲く永遠の村があったんでしょ、ゼネス
    も知ってたんだ」
    弟子も返す。そして、
    「あそこのは桃じゃなくて李だったけど」
    足元に浮く果実を指で突ついた。そうして、
    「ジャクチェも、時々はここに来て村を眺めたりするのかな」
    脚をひたしたまま傍らの石に腰を下ろし、村の方角に首を伸ばす。
    「見てるだろうな、それは。この辺りは山の民の縄張り内のはずだ」
    師が同意する。と、
    「そうだね、きっと。でもジャクチェ、どうするのかな、これから」
    少女はもの思わしげにつぶやいた。
    「どうするって、何が?」
    すぐにはわからず、訊ねる。
    「チェンフ君とのことだよ。あの娘、山の生活が好きだって言ってたから」
    言われてようやくわかった、マヤは山猫娘と村の少年の恋の行方を心配しているのだ。
    「そうさな……」
    『草取りなんかしてらんない!』と言い放った件は忘れ難い。同じ地味な作業を繰り返
   す村の日常に、果たして彼女はよく順応できるのだろうか? しばらく考え、
    「いや、あの娘なら」
    思いつくことがあった。
    「別にいつも一緒でなくとも、自分の好きな時に村を訪ねてチェンフと会ったっていい
    だろう。というか、あの娘ならそうする。互いの気持ちのつながりが強くありさえすれ
    ば、離れていても心は添っているはずだ。何も心配することはない」
    思いつくまま口にした。言って最後の段まで来て、自ら胸を突かれた。
    『それは一体、誰の望みだ?』
    だが、感慨にふける時間はない。
    「そうだね、ジャクチェとチェンフの二人なら、きっと自分たちのいいように何とでも
    するよね。うん、きっとそう」
    少女はいったんは明るく眉を開いた。が、ふたたび憂いを含んだ表情になる。
    「でも……どんなに思い合ってても会えない人だっているよ。
     例えば皇帝陛下は多分、もうウェイさんと会うことはできないんじゃないかしら」
    ハッとした。耳がそばだつ。
    「私ね、陛下はどうしてはるばるお国の片隅の村までお出でになったのかな? って
    考えたの。それで、陛下はきっと『先生』ってお呼びしたかったんじゃないかって、
    ウェイさんのこと」
    目からウロコが落ちた気分だった。
    危険を冒しての旅を皇帝は「朕の我がまま」と言っていた。が、まさかに、マヤの言う
   通りだとすれば辻褄は合う。
    「だって、もし都で会ったらどうしたって皇帝陛下と臣下でしょう。でも村なら、あの
    村なら生徒と先生に戻ることができる。だから陛下はどうしても村で再会したかったの
    じゃあないかしら……」
    マヤは頭を上げ、遥かな霊山を拝した。彼女の手は膝の上で軽く組まれている。が、ふ
   と気づくと右の人差し指が左の薬指の生え際をそっと擦っているのだった。
    以前にゼネスが彼女に請われて結んでやった、赤い糸の指輪を。
    胸の内に急に熱い湯のような何かが湧いた。せきもあえず広がり、あふれる。
    口から言葉がほとばしった。
    「そうか、確かにそうかもしれん。いや、そういうことなら俺にも理解できる。だがな、
    先刻も言ったように互いの気持ちのつながりは距離の隔ても越えられよう。陛下と老師
    ほどの絆があれば、あの霊山やタイハンの空を通じてでも心を通わせることも不可能で
    はない、きっと。俺はそう思う」
    「ああ……そうだね、ゼネスの言う通りだね」
    彼女のまなざしはさらに空へと向けられた。
    「タイハンのこの広い空のこっち側にウェイ先生がいて、あっちの側に陛下がいらっし
    ゃる。陛下の治められる世の中をウェイ先生は村から見守ってて、陛下はウェイ先生の
    お気持ちをお感じになりながら毎日政務にのぞまれてる。
     お二人とも、会えなくともお互いをずっと思い合ってるんだ。今までもそうだった、
    これからもきっと」
    「マヤ」
    我知らず、熱い声で呼んでいた。
    広い空の下に二つ、孤独がある。孤独と孤独の絆が結ばれて、山をへだて空をへだてて
   なおも呼び合う――そのことがしきりに思われる。ならば宇宙の片すみでは、次元と次元
   をへだてる孤独同士の結ぶ絆では?
    「神になれ、マヤ」
    浮かぶまま口にしていた。弟子の少女は師の顔を振り仰いだ、その表情が白い、いきなり
   「神」などと持ち出されて、とまどっている。だが彼は説明もせぬまま続けた。
    「お前が創る世界を見たい、俺は」
    とび色の瞳が大きく見開かれた。その上から押しかぶせるような勢いで、言葉は次々に
   胸中から吐き出されて止まない。
    「それは、お前が神となれば俺とは今のように人の言葉を交わし親しむことはできなく
    なる。だが、その替わりに人とは比べものにならない永い時を得て、自らの意志を込め
    た世界を創造することができるようになるのだ。
     お前が神となり一つの世界を創造したら、俺は必ずその世界を訪ねよう。マヤの意志
    に、願いに触れるために。その世界の光から、風から、地から、水から、草木や生物の
    全てから俺はお前の心を感じ取ろう。
     俺はマヤの世界を見守り、そこから旅立つセプターたちを祝福しよう。どうだ、マヤ、
    考えてみないか」
    終いまで言い切った。弟子の顔からとまどいが消え、今はまぶしげな目をして師を見て
   いる。ゼネスの頭が作る影がマヤの顔を覆っていた。影の中で小さな唇がやんわり笑んだ。
    「うん……考えてみようかな、カードの覇者になること」
    パシャッ!
    突然、ゼネスの顔中を冷たいものが直撃した。いささか面食らって顔を振る、弟子が谷
   川の水を両手にすくって跳ねかけたのだ。
    驚き、顔面を手でぬぐう。彼の耳に高い笑い声が響いた。
    「こいつ!」
    「えー、気持ちいいでしょ、冷たくて。くやしかったらゼネスもやったらいいんだよ」
    師の狼狽をよそに、弟子は川の石を伝って対岸へと逃げた。
    強い陽光の下、水のしぶきは水晶の欠片となって輝く。水の一粒一粒が少女の歓声を
   反射する。驚きが去り、ゼネスの裡(うち)にも童心がせり上がってきた。
    「言ったな、後悔するなよ!」
    彼も急ぎ靴を脱ぎ、マントをも取って流れの中に飛び込んだ。
    うす赤い李の実が、水に揺られて浮きつ沈みつした。


                                                        ――  第12話 了 ――


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