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       第1話 「旅の始まり」  (4)


  彼の方から少女の顔を見つめると、大きく眼を見張る顔が赤く染まって見えた。それは炎の
 色が照り映えただけだったのだろうか。男が注ぐ視線を全身で受け止めるかのように、彼女も
 また立ち上がると両腕を差し出し、広げた。
  「あなたのカードを見せて…触らせてもらえますか」
  「ああ、かまわん」
  彼は自分が持つカードの全てを取り出すと、無造作に渡した。それらはもう長い間、他の誰の
 手にも触れさせたことなどなかったのだが。
  「本当だ、今の話は本当なんですね。このカード、どれも古くてずいぶん使い込まれてる…。
 染みついてる、感じる…強く…戦いのこと、とてもとても遠い昔からの戦いの記憶…。
  …あなたみたいな人がいたなんて…」
  受け取ったカードを胸に抱き、しんと目をつむってマヤはつぶやく。微笑みを浮かべ、まるで
 カードを媒介にゼネスの経験を見ているかのようだ。だがそんな技を持つセプターがいるなど
 とは、彼の知識の中には無いことだった。
  『なぜ、わかる?お前はいったい何者なのだ』
  彼の頭の中で、口には出さない言葉が何度も響く。マヤに対するというよりも、彼自身への問い
 のように。
  「カードって不思議ですよね、人に使われると、使った人の"思い"みたいな何かが染みついて
 残る気がする」
  なおも続く少女の言葉に、しかし急に不安がつのる。
  「もういいだろう、返してくれ」
  「ああ…そうですね。これ以上触ってたら、あなたがまだ話してないことまで感じてしまうかも。
 それじゃあんまり失礼ですものね。ありがとう、お返しします」
  そういってマヤはゼネスにカードを返した。が、一枚だけ抜き取ると彼の前に示してみせた。
  「このカード、この"グリフォン"のカードにだけ、あなたじゃない他の人の"思い"が残って
 ますね」
  「何だと」
  ゼネスは息を呑んだ。これは、このカードこそははまぎれもなく、あの―
  「どんな人かはわからないけど、優しくて、でもとても悲しい心持ちで、誰かの事を気に掛けて
 いるような感じ。
  もしかしてこのカード、ずっとあなたの事を見守ってきたんじゃ――」
  「黙れ!!」
  強烈な怒りが瞬時に全身を貫き、彼は跳ねつけるように怒鳴ると少女の手からカードを奪い
 返した。
  「そんな能力を持っているのは、お前だけだ。やたらに他人の経験や考えを読んで口にするん
 じゃない、慎しめ!」
  わきあがる激しい感情に駆られるまま、彼はつい強く叱り飛ばした。マヤの顔が蒼ざめ、塩した
 ようにうなだれてゆく。その様子を見て言い過ぎたと気づいたが、もう引っ込みはつかない。
  「早く寝ろ、寝てしまえ。明日からは呪文とカードの修行だ!」
  「でも、私が先に寝(やす)むなんて…」
  小さな声で、マヤは辛うじて訴える。弟子が師よりも先に寝ることに抵抗があるのだろう。
  「ふん、つまらん事を気にするな。俺は"竜眼"を持っているのだ、寝る時間なぞ普通の人間
 の半分で事足りる。お前の体とは出来が違うんだからな、よく覚えておけ。
  とにかく、俺に付き合う必要などない、早く寝ろ。これは命令だ」
  こうまで言われては、彼女も引き下がるしかない。荷物の中からブランケットを取り出し、
 「おやすみなさい」と蚊の鳴くような声で言うと、火の向こう側に回って横になった。
  ―気まずく重苦しい空気のまま、ただしんしんと夜は更(ふ)けた。星の光が白く冴え、地面は
 凍てついて、ゼネスの身にも寒気がひとしおしみ入るように感じられる。
  マヤの寝ている方へは努めて目をやらないようにしていたのだが、彼がふと気づくと、彼女は
 すっかり寝入っていた。
  からだを小さく丸め、目の辺りまでブランケットにくるまって、寒そうな様子で眠る少女。
  その姿を見ながら、ゼネスは今さらながらに深い哀れさを感じた。
  ―"あなたみたいな人がいたなんて"―
  カードを胸に抱いた時、彼女は暖かな笑みを浮かべていた。あれは確かに、彼のこれまでの
 長い歩みに対する共感の表情だったはずだ。
  だがその思いが容赦なく断ち切られた、彼が断ち切ってしまった。胸の奥を、後悔の痛みが
 棘(とげ)のように刺す。
  しかしそれでも、
  「余計な事を言うからだ、思い出したくない事に触れるからだ」
  枯れ枝を折っては炎の中に放り込みながら、ゼネスは自らに言い訳するようにつぶやいていた。

  こうして七、八本も火にくべた頃、突然、炎とは違う輝きがマヤの寝ている辺りに現れた。驚いた
 ゼネスが焚き火の向こうを見やると、そこに巨(おお)きな黒い犬がいた。
  「ヘルハウンド!」
  赤い目をした漆黒の魔犬は、ゼネスの視線からマヤの姿を隠す位置に横たわって、じいっと彼を
 見ている。
  『こいつは…カードのクリーチャーなのか。さっきの輝きは確かにカードのものだったが…。
 しかし、マヤが出したというのか、何で寝てる奴にカードが使える』
  セプターは、自分の意識によってカードを操る。そのため、眠っている時や失神していたりする
 時には、カードを使う事は出来ない。それが常識のはずなのだ。
  『しかもこいつ、まるで己れの意思があるかのように見えるぞ』
  そのことがまた、破格だった。カードから出現するクリーチャーは、あくまで"力"の具現で
 あって生命ある「者」ではない。本物と同じ姿、質量、機能を備えてはいても、独自の意思は持たない、
 人形のような「物」なのだ。だからこそ、セプターがこれを自由に操る事が可能なのである。
  しかし、今ゼネスの目の前にいる黒魔犬は、明らかに自分の視線で彼を見ていた。それも、首の
 辺りの毛をかすかに逆立てながら。
  彼は、はたと思い当たった。
  「お前、マヤだな」
  カードのクリーチャーに、使い手のセプタ―の意識が宿って一体となる―こうした現象には、
 憶えがある。覇者になれるような高い実力を持つセプターが、最も良くクリーチャーを使えた時に
 限って起こることだ。
  だが無論それも、眠っている者にできるはずはないのだが。
  「そうか、お前なのか、本当に変わった奴だな。眠ったままクリーチャーを使うなんて、夢でも見る
 ようなものなのか、お前にとっては」
  この異常と呼ぶべき事態を、ゼネスはしかしさして驚く事なく受け止めてしまっていた。
  彼にとって不思議なのはむしろ、そんな今の自分自身の方だった。
  『こんな事は有り得ないはずだ、なのに少しも変だと思えない…当然のように感じてさえいる。
   おかしいのは俺の方じゃないのか、どうかしてる』
  自問しつつ彼は、魔犬の視線に向き合った。首を伸ばし昂然と頭を上げた黒い犬は、凛とした
 気品に満ちて、本来の恐るべき猛々しさなど一片たりとも窺(うかが)うことは出来ない。
  だがゼネスが近づこうと身動きすると、首の毛がさらに大きく逆立った。唸りこそしないものの、
 決して気を許しているわけではないのだ。
  「さっきの仕返しなのか?いや、当然の反応だろうな」
  触れられる事への拒否。それはつい先程、彼がマヤに味わわせた態度そのものだ。ゼネスの
 口元に、苦い笑いが浮かぶ。
  「お互い様か…いや、先にひどい事を言ったのは俺だったな」
  魔犬はもちろん、言葉で応えたりはしない。ただ、変わらずにじっと彼を見つめるだけだ。
  吸い込まれそうなほどに深い、赤い目で。
  そう、これはやはりただのクリーチャーなどではない、今のマヤの心そのものなのだ―と、彼は見た。
 何故にそうあるのかという理屈は、もうどうでもよかった。そして人の姿をしていない今の"彼女"
 にならば、胸の内にある悔いをそのままに示して、言えなかった侘(わ)びを言えるような気がした。
  ゆっくりと静かに、噛んで含めるような調子で、ゼネスは黒い魔犬に語りかけた。
  「マヤ、さっきは悪かった、俺が少し言い過ぎた。―だがな、人には触れて欲しくない過去という
 ものもある。あのカードの事はもう口にしないでくれ、わかるな」
  その言葉を聞き終えると魔犬は音もなく立ち上がり、一歩一歩を踏みしめながら、彼に向かって
 歩いて来た。彼は思わず手を差し伸べた。
  その手のひらに、犬は鼻面ではなく頬を…人がするように頬をそっと寄せて、消えた。




  目が覚めた。とたんに誰かがビクッと手を引っ込める気配を感じて、ゼネスは顔を上げた。目の
 前に、立ちすくむマヤの姿がある。彼女は両手に、広げたブランケットを握りしめていた。
  「ごめんなさい、起こしちゃったんですね。
 …寒かったから…でも、余計なことでしたね、ごめんなさい」
  切なそうに詫びを言う少女に、彼は苦笑しながら応(こた)えた。
  「いや、いい、気にするな。―にしても寒いな、実際。どうせならそれを貸してくれるか。そのつもり
 だったんだろう、もともと」
  そう言いつつ、彼がブランケットの方をアゴでしゃくってみせると、マヤはようやく硬かった表情を
 少しだけゆるめた。
  そして師に向かって一礼すると、まだ膝を抱えて座ったままのゼネスの肩先から、ふわりと包み
 込むようにブランケットを掛けてくれた。
  「水を汲みに行ってきます。戻ったらすぐに食事の用意をしますから、少しだけ待っててください」
  深ナベを手にして行く後姿を、彼はやわらかい布地に不精ヒゲのアゴを埋めながら見送った。
  そこにはまだ、微(かす)かな温(ぬく)みが残っている。
  『引きつりそうな顔だったな、まだ笑って話すには程遠いか…』
  昨夜、あの気高い黒魔犬が彼の手のひらに頬を寄せてくれた時には、マヤとすっかり和解できた
 ものと思い込んだ。
  しかし先ほどのあの様子を見ると、彼女は結局何も憶えてはいないようだ。
  やはり眠っている間の事、覚めれば忘れる夢でしかないのだろうか。そう考えると、ゼネスの気分は
 やるせなく沈み、塞(ふさ)がれてゆく。
  自身の内にいつしか、定まらぬ揺らぎが生じてある。彼は、その事を自覚せざるを得なかった。
  マヤが何がしか「変化」に通じている者であるならば、存分に利用してやろう。―そう考えたから
 こそ、しばらくの間を共にすごすと決めたはずだった。
  しかし彼女を傷つけた時には、彼もまた痛みを覚えた。さらに、今まだ遠慮がちな姿勢を崩さない
 様子が、見えない壁を隔てたかのようで無性にもどかしい。
  それが、彼自身の現在の感情の事実なのだ。
  何か、今にもグラリと動き出しそうな未知の感覚がある。揺らぎも、そこからくる。
  「―なに、気のせいだ。目的を果たせばどうせこの世界ともおさらばさ。また強い奴と戦えるように
 なればそれでいいんだ、俺は」
  あえて口に出し、確かめるように彼は言ってみた。そうでもしなければ、輪郭が崩れて見知らぬ
 自分の顔が現れ出てしまうような気がする。そんなことは恐ろしい。
  彼は、己れの中にそのような"未知"があるなどとは信じたくなかった。自分が良く知っている
 自分でのみ、在りたい。いや、そう在らねばならないのだと、耐えていた。
  ところが、耐えて立つ壁を乗り越えようとする"波立ち"がある。
  ―彼女との間のわだかまりを解きたい。―
  その思いが繰り返し押し寄せては、言葉という出口を探して身の内を騒ぐ。
  ―『もっと安心していい』、そう伝えたい―と。
  昨夜黒魔犬に差し伸べた、手のひらのように。
  「俺はあいつの師だ。師が弟子を安堵(あんど)させる、別に何の不思議もないはずだ」
  また自分に言い聞かせ、彼はこの感情の動きは"未知"ではないと考えることにした。
  そうして、今彼女に必要な言葉は何であるのかと探し始めた。

    しばらくして水を汲んで戻ったマヤは、かまどにナベを置きながら、『あれ?』と驚く顔をした。
  「それは俺が呼び出した"呪文の炎"だ。燃料が無くとも、呼び出すときに使った魔力の分だけは燃え
 続ける。寝る前に出しておいたんだが、まだしばらくは保(も)つだろう。
  俺のは火力が強い、火傷しないように気をつけろよ」
  師の説明を受けて感心したようにうなずきながら、弟子は青みの強い透明な炎を興味深そうに眺めた。
 そして湯が沸くのを待って、昨晩と同じ手順で茶を煮出し、淹(い)れてくれた。
  ゼネスが熱い茶をすするうち、例の不味いパンがまた出てきた。だが今朝の品には、表面に冷えて
 固まった豚脂(ラード)が塗りつけてある。頬張ると、昨晩食べた肉の風味がほのかに広がった。
  浅ナベに残る、肉を焼いたあとの豚脂をつけてくれたのだろう。薄い塩味も効いていて、彼はたち
 まち全てを腹の中におさめた。
  そうして再び茶を口に含んだ瞬間、ゼネスの脳裏にある言葉が浮かんでよみがえった。
  それは遥かな昔に聞きながら、ずっと記憶の底に沈めていた言葉だった。
  「お前が作ってくれるものは美味いな。昨日の肉も今朝のパンも、ずいぶん美味かった。この茶も、
 渋いが美味い。
  ―こういう事が上手にできる奴は、魔術の上達も早いんだ。教えるのが楽しみになってきたぞ」
  マヤの顔にサッと紅みがさした。喜びと希望がいっぱいに広がり、全てが生き返ったように輝き出す
 様子がありありとうかがえる。
  彼女のその表情を認めて、ゼネスもまた深い満足を覚えた。だがこの時、彼の内側でもう一つの旅が
 始まっていた事に、彼自身はまだ、しかとは気づいていなかった。


                                                        ―― 第1話 了 ――
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