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     第3話 「呪文」 (4)

 

  この日、夜が更(ふ)けてもマヤはなかなか横になろうとしなかった。相変わらず部屋の隅
 に座り込んだまま、何事か考え込んでいる。
  おそらく、次々明るみに出る自らの強大な能力と、それをこの世界の中でどう生かすべきか
 について、思い悩んでいるのだろう。
  だがゼネスは師としても同行者としても、彼女に今どのような言葉を掛けたらよいのか思い
 つくことができず、気には掛けながらもただ見守ることしかできなかった。
  そのうちに、彼女は「外に出たい」と言い出した。
  「少し一人になりたいんですけど…、いいでしょうか」
  許しを求められ、しかしゼネスは渋った。この少女からは、できるだけ目を離したくない。
  「弟子の分際で贅沢を言うな、余計なことを考えるヒマがあるなら、少しでも長くからだを
 休ませておけ」
  いったんはそう跳ねつけた。
  師の許しを得られず、マヤは沈んだ顔でうつむいている。もの憂い表情を横目で見るうち、
 彼もつい哀れをもよおした。
  望みも願いもしないのに、"力"に関わる人並みはずれた能力を持っている。そんな事実を
 突然知らされて、まともな者ならとまどわない筈(はず)がない。
  『それで何も感じないヤツは単なるバカだし、大喜びするようならそいつはきっと悪党だ。
 ―俺みたいな』
  バカでも悪党でもないマヤは、己れの運命の重さにひたすら耐えるしかないのだろう。
  『だったら、気散(さん)じも必要か』
  そう思い直し、ゼネスは弟子に戸外へ出て良いとの許可を与えた。ただし、この小屋のすぐ
 近くを歩くだけにしろ―そう言い渡すことも、もちろん忘れずに。
  そしてマヤが外に出るとすぐ、戸の内側にピタリと寄って、外の物音に聞き耳を立てた。
  行儀の悪いことは限りもないが、背に腹は変えられない。彼はどうしても、胸の底にひそむ
 不安を拭(ぬぐ)い去れないのだ。この捕らえきれない少女が、また彼の前から消えてしまわ
 ないかという恐れを。
  戸の外は深閑としていた。湿った落ち葉や草を踏む音が、彼のそばだてた耳に響いてくる。
  その足音はいたってゆっくりとして静かで、不規則だった。
  さっきマヤが戸を開けた時、外はずいぶん明るい月夜であったな―そんなことを、彼は思い
 出した。
  『月は人の愁いを深くするというが、うつむいて地面ばかり眺めているよりは、せめて月で
 も見上げる気になってくれた方がまだマシなんだろうが…。ん?』
  突然、かすかな声が聞こえた。
  「さくやこのはな、
  こよいはなさく」
  そして、足音が変わった。
  ゼネスの背すじに緊張が走る。
  マヤの足音が急に早く、かつ規則正しくなった。何かを目指すように決然として、小屋の裏手
 の方へと遠ざかって行く。
  彼は慌てて飛び出した。
  「おい!」
  急いで足音の向かった方向を見透かすと、少女の姿は今まさに裏のヤブの中へと入ってゆく
 ところだ。
  「待て!何処へ行く!」
  走り出し、彼もヤブの中に続いた。両腕で漕ぐようにして、生い茂る枝を押し分けながら進む。
 払いのけきれない小枝が、ピシピシと容赦なく顔に当たる。
  マヤの背中は少し先に見えていた。だが、男の足が懸命に追いかけているのにもかかわらず、
 その姿はちっとも近づいてはこない。二人の距離は縮まらず、かといって開きもしない。
  ゼネスは何度か弟子に呼びかけた。だが、彼女には聞こえているのかいないのか、少しも振り
 向く様子がない。
  マヤの進む方向から軽やかな微風がやってくる。そのことに気づいた時、彼女の背中がよう
 やく止まった。師は弟子にやっと追いついた。
  彼らが着いた場所はヤブが開けた小さな空き地になっており、そのほぼ真中に一本の大きな
 木が生えていた。
  満開の花だった。梢(こずえ)という梢にこぼれるばかり、白っぽい花をいっぱいに咲かせ
 ている。
    この花の木を目指して来たのかと、ゼネスは弟子に問おうとした。が、マヤは自分の右手の
 中にある何かと梢の花とを交互に見比べている。のぞき込むとそれは、彼女の指のツメほどの
 大きさと形をした、一枚の花びらだった。
  遠目には白っぽいが、近くでよく見れば花びらの付け根が紅く、全体にもうっすらと紅味が
 さしている。
  「やっぱりそうだ、こんな所に咲いてるなんて」
  花を眺め、懐かしいものを見るようなやわらいだ表情をして、少女はつぶやく。
  彼は弟子に「約束が違う」と叱るつもりでいたのだが、うまくそのきっかけがつかめない。
  そのうちに、
  「うたっていいでしょうか」
  梢を見上げたまま、マヤがまた許しを求めた。
  「…好きにしろ」
  あきらめにも似た気持ちで、ゼネスは許可した。
  どうせ彼女はすでに決めている、反対しても意味がない、もうつくづくと身に染みた。
  「ありがとうございます」
  そう言いながらやはり振り向きもせず、マヤは靴を脱ぎ捨て裸足(はだし)になった。
  これまで長い靴で隠されていた白い脛(はぎ)が、いきなりあらわに剥(む)き出しになる。
  さらに綿入れの上着を脱ぎ、首もとの濃い赤のスカーフも取り去った。地味で簡素なシャツ
 姿が現われたが、衿の合わせ目からは、ほっそりとたおやかな首が伸びている。
  その首を隠していたスカーフは、今は左の手首に結ばれていた。
  そのまま、彼女は静かに木に向かって足を踏み出した。
  変わった足運びだ。つま先だけをツッ、ツッと上げて、足裏が滑るように下草の上を進む。
 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩。立ち止まると、右手のひらを高く掲げて火属性の韻を唱えた。
  「ビスト!」
  応えて頭上に大きなゆがみが現われ、赤い光球を生む。光はそのままゆらゆらと昇り、やが
 て中空に留まると月よりも鮮やかに花の木を照らし出した。大きな松明(たいまつ)だ。
  マヤはさらに木に近づいた。すると梢から、花房が一つ落ちてくる。彼女はその花房を両手
 のひらに受け、額に押し頂くようにしながら深々と木に一礼した。
  そしてついに、うたい始める。

   綾(あや)の絹、玉の帯とて惜しからず。
   惜しむべきはこの、花の錦(にしき)。
   いざや焚け、篝火(かがりび)。
   盛りの春、たけなわの時に臨(のぞ)まん。
   咲くや木(こ)の花、今宵花咲く。

  風が来た。一陣の風が吹き来たってマヤの髪を騒がせ、木の幹を駆け登り、梢の間までをも
 隈(くま)なく吹き抜ける。
  枝先が揺れる、花房がそよぐ、花びらが一斉にさざなみ立つ。
  ゼネスの眼に、花影が映る。ピリピリとふるえる花びらが、一枚一枚はっきりと見える。世界で
 ただ一つ咲き誇る花のように、網膜に鮮やかに焼き付けられる。
  トンッ。
  マヤが足を踏む。途端にからだが反転し、腕がヒラリとひるがえる。ヒラリ、結んだ赤い布も
 ひるがえる。
  しなやかに足を踏み出し腰を斜めに、腕を指先まで真っ直ぐに差し伸ばす。頭が廻(めぐ)
 り肩が回り、胸が、腰が、ゆるやかに廻り回る。
  微妙なズレが揺らぎになる。踏みかえる足が調子(リズム)を生む。回転しまた反転し、辺り
 に波が広がる。
  トンッ。
  再び足を踏み、全てがピタリと止まる。そしてまた、うたう。

   花咲く枝を折りたまえ。
   咲き匂う盛りを愛(め)でたまえ。
   折ってかざして舞いたまえ。
   御身(おんみ)の少(わか)さに酔いたまえ。

   時移れば花散り、
   歳(とし)廻りて復(ま)た開くも、
   人の身に再びの春は来たらじ。
   君よ、短き日を惜しみ、
   日、落ちなば燭(しょく)を取りてもなお遊べ。
   「過ぎ行く春よ永(なが)からん」と願いたまえ。

   花咲く枝こそ折りたまえ。
   花無き枝を手に、
   君、悔い嘆きたもうことなかれ。

  トンッ。
  三度び足を踏む。
  と、うたい終えたのかマヤはもう一度、木に深い礼をささげた。
  その一部始終を、ゼネスは言葉もなく見つめていた。
  何ゆえ彼が言葉など出せるだろう。今眼の前にある全て―赤く輝く光球、盛りの花の木、
 うたい舞う少女―が、どうかすると消えてしまう幻のように思われ、身動きすることさえも
 はばかられるというのに。
  「きれいだね、誰も観てない森の奥深くなのに、こんなにきれいに咲くんだね。
  きれいだね、本当にきれいだよ」
  木にささやきかけるマヤの声が聞こえてくる。ようやく、身の回りに現実が立ち戻る気配を
 感じて、彼はホッと息をついた。


  「また出たな」
  眠るマヤの傍(かたわ)らに現われた黒い魔犬に向かい、ゼネスは声を掛けた。
  ほぼ毎晩のように、彼女が深い眠りにつくとこの黒犬が出現しては、静かに彼のことを見つ
 めている。
  最初に見た時には驚いたが、彼もさすがにもう慣れた。
  「お前は本当に何者なんだ?いつまでそうして俺を見ているつもりだ?」
 その答えが返ってくるはずはないと心得てはいても、なお問い掛けずにはいられない。
  「眠っている時にはそんなに熱心にこっちを見ているクセに、起きている間には不意に消えて
 くれたりもするじゃないか」
  雲間に隠れた金色の翼、遠ざかる足音、そして『世界を、見たい』、あの声。
  思い返すたび、胸が何者かに掴まれるように苦しい。腹の底の不安が頭の中へと浮いて出る。
  「お前、もしかして俺のことを見尽くしたと思ったら、何処かへ行ってしまうつもりなんじゃ
 ないだろうな。そんなことは絶対に許さんぞ!」
  そう言った次の瞬間、彼はギョッとした。
  黒魔犬が、薄く笑ったように見えたのだ。
  しかしあらためて目を凝らすと、犬は常と変わらず静かに横たわっている。
  「錯覚か?…犬が笑えるはずがない…」
  だが、背中に流れた冷たい汗は、なかなか引いてはくれなかった。


  次の日、マヤは朝から小屋の掃除に余念がなかった。昼前には小屋を発(た)って森を進む
 とは、前日からの予定だ。
  一晩だけとはいえ無断で泊まったことを詫びるかのように、隅々まで実に丁寧な拭(ふ)き
 掃除をしている。
  しかし熱心に働く弟子をよそに、師の方はボンヤリと立ち尽くしていた。
  ゼネスは今朝がた、夢を見た。彼には確かに夢を見た覚えがあるのに、目覚めた途端、全てが
 霧散して消えてしまった。
  ただ夢の残り香のような狂おしさだけが、胸の内にかすかに漂っている。
  忘れてはいけない夢だった気がする。それなのに、どうしても思い出すことができない。
  昨夜とは打って変わって今はゼネスの方が、浮かない顔つきで部屋の隅に突っ立っているの
 だった。


                                                        ――  第3話 了 ――
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