「読み物の部屋」に戻る
前のページに戻る


       第4話 「 鏡 」 (4)

 

    森の中が再び静かになった。枝の上に立つ緑の髪の少女は、ゼネスをじっと見下ろしたまま
   動かない。彼は前に進み出て右手のカードを示し、大声で告げた。
    「俺を撃て、マヤ!俺の手にはまだカードがある、呪文カードだ。俺を撃たねばお前の勝利
    は無い!」
    だが、森の精は動かない。
    「撃て!撃たないなら本当に師弟の縁を切るぞ!それとも俺が先に撃つか!」
    少女の手がピクリと動き、輝きと共にスリングが現われた。ゆっくりと腕が上がり、攻撃の
   体勢に移るようだ。この距離、そしてマヤの腕前であれば、石つぶてがゼネスのからだを貫く
   ことなどわけもないだろう。
    『そうだ、撃て、お前が撃った時こそが俺の本当の"勝ち"だ』
    彼は、急に彼女が憎くなった理由がようやく腑に落ちた。
    『お前の精神の強さなど、所詮はその程度のものなんだ!』
    ―が、緑の髪の少女のスリングを握った手は、さらに高く頭の上まで差し上がった。左腕も
   同じように上がり、高い位置で両の手が得物を握りしめる。
    そしてしなやかな腕が大きく振られ、思い切り遠くまでへと武器を放り捨てた。
    空手になったまま背筋を伸ばし、少女は驚愕する相手にもう一度真っ直ぐと向きなおる。
    凛として静かな視線がゼネスを見下ろす。彼の内側で憎しみがさらに猛々しく膨れ上がった。
    「―貴様!」
    だが叫んだ瞬間、右手に痛く激しい振動が奔(はし)った。まだ念じていないにもかかわらず、
   握りしめたカードからひとりでに"光の矢"がほとばしったのだ。
    ハッと見上げた時には、二本の白い光は少女の胸と腹を貫いていた。
    それはほんの数秒のことだったが、ゼネスには時が長々と引き伸ばされたように感じられた。
    美しい緑の髪が大きく乱れ、半身がガクリと後方にのけぞる。白い腕が宙を掻き、足が枝を
   踏み外した。
    「マヤ!」
    声をあげ、彼は走り出していた。両腕を前に差し出し、彼女の落下点へ、真逆さまに落ちて
   くるからだを抱き止めるために。
    すぐに強い衝撃が腕を襲った。腰も膝も折り縮め、ショックをやり過ごしてから腕の中にある
   少女を覗き込む。
    マヤそのものの顔には、すでに死相が浮いていた。とび色の瞳の中で、瞳孔が広がってゆく。
    ―これがお前の望んだことだ―
    「違う!」
    ―お前が見たかったものだ―
    「違う!」
    ―ならばなぜ"力"は現われた―
    「違う!待ってくれ!」
    声が震えた。恐怖が足元から這い上がってくる。背中に取り憑き、血の流れに乗って激しい
   恐怖が全身を駆けめぐる。
    『これはクリーチャーだ、マヤじゃない』
    理性は必死に正気を保とうとするが、何の効果もない。どう取り繕(つくろ)おうと、目の前の
   死にゆく少女は彼自身がもたらした結果なのだ。その事実が牙を剥いてゼネスの精神を噛み
   裂き、ボロボロに食い破ろうとする。
    「待ってくれ、違う!違うんだ!」
    頭が痛む、体が痛む、身体をくの字に折り曲げて耐えるが、身も心も暗い淵へと引き込まれ、
   反転しそうになる。
    その時、
    「…?」
    なにかが彼のほほに触れた。ふるえながらも静かに、探るように動いて、撫(な)でる。
    瀕死のドリアードの指先だった。彼は顔を上げた。
    彼女の唇も動きかけたように見えたが、それきりだった。少女の姿は腕の中から消えた。
    「…!」
    息が詰まり、声が詰まり、からだの内部の全てが絞りあげられる。両手と膝を地の上に突き、
   ゼネスは二度、三度と嘔吐した。
    どれだけの間、そうして身を震わせていたのかはわからない。誰かが横に立つ気配を感じ、
   彼は斜めに見上げた。そこに、マヤがいた。
    苦痛のあまり眼がかすんで、彼女の表情はハッキリとはうかがい知れない。
    「き…さ…ま…」
    うめいたが、マヤはかまわずにしゃがみ込み、ゼネスの脇の下に自分の肩を差し込んだ。
   そうしておいてから力を込めて足を踏ん張る。師のからだを支えて起こそうというのだ。
    娘一人の力で、男の重い体躯が持ち上がるハズもない。それでも、彼女は顔を真っ赤にしな
   がら精一杯の努力を続けた。
    やがてゼネスの手が、そばの藪の太い枝をつかんだ。弟子の助けを借りながらもこわ張って
   いた足を踏み出し、そろそろと立ち上がってゆく。
    ようやく立ったものの、彼はまだ枝に寄りかかって荒い息をついたまま、顔を上げられずに
   いた。下を見る眼の先に、水の入った皮袋が差し出される。マヤの水入れだ。
    「師弟の縁を切りますか」
    くぐもった声が聞こえた。言いたくないことをムリに言っているような響きだ。
    問いにすぐには答えず、彼は皮袋を取って水を含み、口をすすいでから吐き出した。
    「…今…まともに立っているのは…お前だけだ…。
     この勝負は…お前の勝ちだ…」
    それだけ言って皮袋を突き返すと、枝に頭をつけて目をつむった。
    傍らで、弟子は師に深く礼をした。



    かすかな風が時おり吹いては、炎の先を散らす。まだ夜更けとまではゆかないが、マヤは
   すでに横になり、寝入っていた。
    さすがに今日は疲れたと見えて彼女は暗くなるとじきに、生あくびを何度もかみ殺すように
   なった。そこでゼネスが「眠いならもう寝ろ」と許したのだ。
    例の山鳥の調理は、今夜はお預けになった。ゼネスがまだ、物を食べられるような状態では
   なかったからだ。
    食べ物のことを考えただけで、胃の腑が縮み上がる。彼はマヤがいつものように淹れてくれ
   た茶を、少しずつ口に含むのが精一杯だった。
    クリーチャーをたった一体倒しただけでこのような苦痛にさいなまれるなどとは、かつて経験
   したためしがない。
    ―だが、それだけなのだろうか。この苦しみは、ドリアードを倒したことだけから来たもの
   なのだろうか。彼は、自らを省(かえり)みする。
    ふところに手を入れて、カードを一枚取り出した。
    格別に選んだわけでもないのだが、抜き出されたのは、昼間森の精の胸を撃ち抜いた呪文
   カード"マジックボルト"だった。
    じっと眺める。
    カルドセプトのカードを初めて手にした日から、もうどれほどの時間が過ぎ去ったものか。
    亜神となる前の、ゼネスがまだ一介の人であった昔。それはあまりにも旧くかつ遥かに遠く、
   ここに至るまでに隔てた時の長さなど、彼には到底計ることが出来ない。
    しかしそれでいて今あらためて見るカードは、これまでになく不気味なモノとして感じられる。
    「―いや、不気味なのはカードじゃない。
    カードはただ、"それ"を映しているだけだ」
    まだ念じていないうちにカードから"力"が出現する。そのような「暴発」は、ゼネスにとって
   実は二度目の経験だ。
    痛みを伴うほどの激しい振動。遥かな少年の日に訪れた、忘れることのできない、同じ感触。
    あの時の最初の「暴発」が、彼をセプターにした。
    それまでどれほど強く切実に願っても反応しなかったカードから、突如巨大な"力"が降りて
   きて彼を捉えた。その瞬間の感覚だけは、歳月を経た今もなお身体が生なましく憶えている。
    だが、ゼネスは頭を振って顔をそむけた。想い出したくはない、その時のことは。
    あの時の、自分自身の願いは。想い出したくなどないのだ、何時だって。
    『俺は、憎悪によってセプターとなった』
    絶望、悲しみ、怒り、それらがない交ぜになった強い憎悪。彼の心身が憎悪一色に染め上げ
   られた時、初めて"力"は来た。
    どれほどの時が流れようと、そして神に準ずる存在にまで成り上がろうとも、変えることの
   できない事実がある。
    今日の二度目の「暴発」は、否応なく彼に自身の出発点が何であったかを突きつけた。
    闇の中で、かすかな気配が動いた。眠っているマヤが寝返りをうったのだ。はずみで、掛け
   ているブランケットがずれた。横たわった肩がだいぶはみ出してしまっている。
    ゼネスはそっと近づき、ブランケットを掛け直してやった。今夜はめずらしく黒魔犬が現われ
   ていない。空っぽの宵闇がどことなく寂しい。
    うつむいてしばらくの間、すやすやと安らかな寝息をたてる少女の横顔にただ見入る。
    「自分の分身を"殺した"男のそばで、よくもこんなにぐっすりと眠れるものだ」
    思わず、つぶやいた。言った途端、彼に触れてきた指の感触がよみがえった。
    死の間際、我が身を撃った者のほほを撫でた柔らかな指の腹。"彼女"はあの時、何を言おう
   としていたのか。
    痛ましさをなぐさめるような表情をかすかによぎらせながら。
    「憎かった、マヤ、お前の強さが。お前を見ていると、俺の全てが根こそぎ否定されてしまい
    そうになる。
     殺したかったんだ、本気で。カードが暴発した時、気づかされた。あれこそ確かに俺が心の
    底で願い、望んでいたことだったのだと」
    左の竜の眼からアゴに向かい、何かがこぼれ落ちた。それにはうす赤い色がついているはず
   だった。ずいぶんと久しくそんな現象は訪れなかったので、彼自身も忘れかけてはいたのだが。
    「憎悪によってセプターとなり、そのおかげでいまだに生き永らえている。そんなことが、
    どうして許されているのだ?
     俺のようなセプターこそが、探り当てねばならないのじゃないか?お前の言うセプターの
    本当のこと、人が"力"を使うことの意味を」
    あふれては流れるうす赤い液体。ゼネスは何度も手の甲でぬぐい、見下ろしている少女の上
   にこぼさないようにと気を使った。
    「見つめなければならないことから、ずっと眼を逸(そ)らしてきた。お前に出遭ってしまったの
    は、きっと宿命だ。
     共にいる限りはさぞかし、腹が立ったり惨めな気分になることも山ほどあるだろう。それでも
    俺は、もう二度とお前を憎んだりはするまい。約束だ、マヤ」
    眠れる少女に向かい、ゼネスは誓いを立てた。それはただ独りの一方的な宣言ではあったが、
   彼の今後の生を決定づける言葉でもあった。
    雲が流れ、湿った春の夜風が渡ってゆく。二人の頭上に交差する枝が、静かに揺れた。
    重なりあう枝先に芽吹いた若い葉が、夜風にほんのりと香る。その間に隠れるようにして、
   一体の風の妖精が潜んでいた。
    妖精はそうしてずっとゼネスを見守っていたのだが、彼は一晩中ついに気づくことはなかった。


                                                        ――  第4話 了 ――
前のページに戻る
「読み物の部屋」に戻る