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       第4話 「 鏡 」 (3)


    "棚"を過ぎて登り始めた次の山は、高く険しかった。頂上を極めるのが目的ではないので
   山の合間を縫って越えてゆくのだが、それでも、登るにつれて周囲の木々の背がだんだんと
   低くなり、ついには草木がほとんど無い、石ばかりがゴロゴロと目立つ場所へと至る。
    足の下の崩れやすい砂利を注意深く踏みしめながら、二人はただ黙々と歩き続けた。
    例の山鳥は、羽毛も抜かれて調理するだけにまで整えられ、今は油紙にくるまれてマヤの
   カバンの中に収まっている。
    今朝がたまでのゼネスであれば、次の食事の楽しみを思い、足取りはさぞかし軽くなった
   ことだろう。だが、今の彼はそんな浮ついた気分からはほど遠く、食事そのものに気が回る
   精神状態ではない。
    彼は、後ろからついて来る弟子の少女の視線が恐るべきものであるということに、ようやく
   気づいた。彼女はゼネスの全てを見抜いた上で、何か含むところあってここにいるに違いない。
    ―この娘は危険だ―
    彼の勘がささやく。―お前の望みなど、叶えはしない。それどころか、いつかお前の求める
   ものを覆(くつがえ)してしまい兼ねないぞ―
    『こいつ、本当に"力"のことを知りたいだけで俺についてきたんだろうか。
     くそ、シャクだ。こんな小娘ごときにナメられてたまるか。
     いくら能力が高いといってもまだまだ未完成なんだ、セプターという者がどうあるべきか、
    この俺が必ず叩き込んでくれる』
    暗い反発のような感情が生じて彼の身中にとぐろを巻き、急速にふくれ上がる。ねじ伏せ
   たいという欲望が手足の指の先にまで達し、さらにすみずみにまで浸透してゆく。
    ゼネスは今マヤを、特別な能力を持つセプターであり"力"に通ずる者であるこの少女を、
   彼の前に引き据えて平伏(ひれふ)させたかった。
    後ろで砂利の崩れる音がする。が、彼はわずかに目の端で確かめただけで、かまわずに
   山の斜面を登ってゆく。マヤはもう何度も石ころに足を取られたり、砂利に滑ったりしていた
   が、師が弟子に手を貸したことは一度も無かった(そして弟子の方でも、師に助けを求め
   たことは一度も無かった)。
    ようやく登りきって稜線に立つと、目の下に新たな土地が開けているのが見渡せた。
    反対側の山腹もまた、中ほどより下を濃い緑が覆う。その先は広い平地が扇状に開けていた。
    そこは右手奥の山脈から流れ出る大きな河で分断され、河の周りは広い範囲でさまざまな
   色調の茶や緑の色布をつづり合わせたように、細かく区画されている。畑地とおぼしい。
    そして平地のはるか彼方には、青い色に霞んでどこまでも平坦な場所が望まれた。海だ。
   手前の河が海に流れ込む辺りには、大小さまざまな建物がひしめき合っているような一郭も
   見える。
    そこは、高い塀にぐるりと囲われた城塞都市のようだった。囲みの外の畑地にも、小さな
   集落がいくつか散らばっている。
    「街がある…」
    息をつき、汗をぬぐいながらマヤがつぶやいた。
    「良かった、そろそろ食べ物を買わないといけなかったし。
    でもずいぶん大きな街だから、きっと"関"があるんだろうな。城外の市場で用が足りれば
    いいんだけど」
    少し心配そうにしている。だがゼネスはその言葉には応えず、ただ課題を一つ出した。
    「下の森に入ったらお前とカードの勝負をする。それまでに、あそこで戦うためのブックを
    用意しておけ」
    弟子は寂しげな表情で師の横顔を見上げた。しかし彼は無視した。
    「枚数は五枚。
     今回はいつものような練習とは違う、真剣勝負だ。必ず俺に勝つつもりで来い、いい加減な
    態度が見えたらただではおかん」
    重く低い声音で、自分の本気の度合いをわからせるように告げた。左の竜の眼が、燃える
   ように赤く光ってマヤを見る。
    少女の顔は翳(かげ)りを帯びている。それでも頭をこくりとうなづかせて、承諾を伝えた。
    そして二人は再び、石くれを踏みながら森の方へと山を下りはじめた。

    下りは登りとはちょうど反対に石だらけの斜面から低木の疎林へと移り、やがて木は密に
   緑濃い森林に入る。この場所もまた、時おり鳥の声が響くぐらいでごく静かだ。
    ここに来るまでゼネスはずっと、マヤの手持ちカード群のことを考えていた。
    彼女を弟子にしてから荒地を抜けるまでの間に、彼は彼女が持つカード群の内容の全てを
   点検し終えてある。
    マヤはなんと、総数にして三百六十五枚という大量のカードを所持していた。経験がごく
   浅いセプターが持つ枚数としては、これはきわめて異例だ。
    しかもそのカード群の内容がまた、腑に落ちないほど優秀である。ほとんどが中級以上の
   クラスのカードで占められているのだ。
    カルドセプトのカードは、そこから取り出せる"力"の大きさによって等級分けされること
   が多い。等級の種類は各「世界」により微妙に違うが、最強クラスから最弱クラスまで四〜五
   クラスには大別されるのが普通だ。
    クリーチャーカードであれば、最弱の筆頭は"巨大ネズミ"(巨大といっても、せいぜいが
   犬ほどでしかない)。そして最強は竜族や巨人族などである。
    ただし一つの世界に散らばるカードには、ある法則があった。「弱い」クラスのカードの方が、
   圧倒的に数が多いのだ。
    そして「強い」とされるカードになるほどに、相対的な枚数は激減する(またそれだけにどこの
   世界でも、強力な"力"を持つカードをめぐる争いが絶えないのだが)。
    だから多くの枚数のカードを集めれば自然、下級クラスのカードが全体の半分以上を占め
   るはずなのだ。マヤのように中級〜上級クラスのカードばかりなどということは、普通はあり
   得ない。
    ゼネスが考えるに彼女の手持ちカード群は、その内容から見て明らかに、対戦用の有効な
   ブックを幾組も作るために選ばれたものと思われた。つまり、もっと大きなカード群の中から
   さらに選抜された、精鋭ということである。
    これらの疑問から彼は一度だけ、弟子にカード群の出所(でどころ)を尋ねたことがある。
    だが彼女はその時、急に硬い表情になって「今は話せません」と言ったきり、ピタリと口を
   閉ざしてしまった。
    元来があまり詮索好きではないゼネスは、いずれ話を聞く機会もあるだろうとそれ以上は
   問いたださなかったのだが…今はかえって不気味だ。
    『何を考えている?本当の目的は何だ?
     ―結局、カードで戦(や)りあって見なけりゃわからないか、こいつのことは。
     しかし所持カードのレヴェルといい魔力のバカ高さといい、簡単に勝てる相手じゃない。
    だからこそ五枚にまで絞ってやったが…どうする?』
    自身に問いかける。すると、ふつふつと闘志がたぎってくる。困難な戦いに直面するほどに、
   体の深奥が熱くなる―いつも通りだ。
    『大丈夫だ、俺は大丈夫だ』
    そして戦いの算段に入る。
    『マヤはどんなカードを使ってくるだろう。あいつの柱は黒魔犬と風の妖精だ、他はほと
    んど使ったことが無いと言っていたからな。
     しかしここは地属性の影響が強い場所だ。魔犬は火属性、妖精は風属性のクリーチャー
    なのだから存分には働けまい。
     だったら呪文主体で来るか?
     いや、これまでのあいつの行動から考えて、俺を直接攻撃できるような呪文のカードを
    使ってくる可能性は薄い。やはりクリーチャー主体だろう』
    ゼネスは弟子が持つカード群の中にある、地属性の影響を受けるクリーチャーを思い浮か
   べた。強力で、かつ初心の者でも扱いやすいものと言えば…、
    『"ドラゴンゾンビ"か"ガーゴイル"だな。不死(アンデッド)化した竜と俊敏な魔物か…、
    ふん、それでも経験に勝る俺のほうが有利だ、相手にとって不足は無い!
     あの特別な能力を使わない限り、あいつに勝ち目は無い。勝ってやる、ねじ伏せてやる、
    俺の言うことを聞かせてやるぞ!』
    後ろで下草や落ち葉を踏むマヤの足音を確かめながら、彼は勝利への決意を固めた。


    不穏をはらむ風が吹き、木の葉をチリチリと縮らせる。緑の闇も張り詰めた緊張に耐えて、
   キリキリキリと引き絞られる。鳥の声など、もう聞こえはしない。
    優れたセプター二人が真剣勝負で相対すれば、群れなす樹木さえもささくれた硬い木肌を
   恐れに震わせる。
    重なる梢の葉から漏れるかすかな陽射しを受け、師と弟子とは今、二十歩ばかりをへだて
   て向き合っていた。
    ゼネスは冷たい眼差しでマヤを見据えた。彼の弟子は、寂しげな影を面(おもて)に宿した
   まま、唇を結んで静かに師を見返している。
    「いくぞ!」
    先にカードを掲げたのはゼネスだった。輝く"力"が現われて、人に似た毛むくじゃらの
   怪物へと姿を変える。ガッチリした体躯、緑がかった褐色の体毛、脚は太くて短いが、腕の
   方は節が目立って細長い。黄色い目が血走り、凶暴な光をたたえている―"トロル"である。
    「貴様も始めろ、真剣にやらねば師弟の縁を切る!」
    まだ動きの見えない弟子に、師の鋭い声が飛ぶ。
    応えて、カードを持った少女の手が天を指した。
    『さあ、何が来る。ドラゴンゾンビかガーゴイルか…』
    彼は闘志と緊張の震えを抑えつつ、カードから出現した光を凝視した。
    …ところが、そこから飛び出してきた者は竜でも魔物でもなかった。緑の髪をなびかせた、
   それは一人の可憐な少女だった。
    ゆるく巻いた美しい髪は腰に届くほど長く、木の葉を綴り合わせた衣装を身に着けている。
   その衣はわずかに、少女の胸から太腿の半ばまでを隠すだけだ。
    『ドリア―ド(森の精)!…しかし、これはまた…』
    ゼネスは困惑した。目の前の森の精の顔つきが、まるきりマヤそのものなのだ。
    白い顔をふち取る髪の色こそ若葉の早(さ)緑ながら、そこにあって彼を見つめる双(ふた)つ
   のとび色の瞳にはいかにも見覚えがある。そして左の目じりの下には黒子(ほくろ)までが。
    こうした現象自体はしかし、珍しいものではない。実力の高いセプターが、カードで人間の
   姿に近いクリーチャーを使う際には起きる事だ(そうでない場合には、クリーチャーは人間
   一般の平均に近い顔つきとなる。すなわち、特徴のない顔)。
    それにしても―と、ゼネスは渋面を作らずにはいられない。このドリアードはあまりにも
   マヤに生き写しだ。歳の頃合いといい背格好といい、まさしくマヤ自身が森の精に扮している
   としか見えないではないか。
    『あれと闘うのか…くそ、考えもしなかった…』
    閉口し弟子を睨みつけようとしたが、マヤの姿はもうどこにもない。彼が森の精に気を取
   られるスキに、辺りの藪陰(かげ)にでも身を潜(ひそ)めてしまったらしい。
    緑の髪の少女もまた、そばの木の幹に手を触れた。瞬間、その姿がスッと消える。
    そして頭上はるかな梢より、澄んだ笑い声が降り落ちてくる。少女は木を伝って一瞬の内
   に移動したのだ。これが彼女らの特殊能力、"木渡り"である。
    戦いは、すでに始まっていた。
    風が流れ、木の葉擦れの音がする。トロルが大きく躍り上がり、近くの大木の太い枝に飛び
   乗った。黄色い目を光らせ、ぐるりと周囲を見回す。今、トロルの眼はゼネスの眼だ。
    後ろでかすかな気配が動いた。振り向いた眼が、離れた位置の梢に揺れを見る。むき出し
   の白い腕が、葉影の向こうにチラリとよぎる。
    「そこか!」
    再び跳躍し、そのまま長い腕を伸ばして目先の枝をつかみ、たぐる。跳んだ勢いに乗ってその
   枝を支点に大きく脚を振り、手を離す。身体が遠くまで投げ出され、いくつもの梢を一瞬に抜けて、
   そのまま一気に森の精に迫る。
    長い腕をサッと突き出し節くれ立つ指を広げ、細い足首を捕まえようとする。
    が、寸前でしなやかな白い身体は消えた。
    背後で、また笑い声が響く。
    「チッ、やはり素早い」
    枝から枝へ瞬時に移動できる森の精を、このような林の中でただ追いかけるのは至難の業
   (わざ)だ。どうにかして、動きを止めるか鈍らせねばならない。
    ゼネスは右手にある二枚のカードに目を落とした。電光の矢、"マジックボルト"である。
    この呪文カードを一枚でも使えば、少女を傷つけて動きを止めることができる。マヤは今、
   自身の特殊能力を制御しているはずだ。よもや荒地で風の妖精に対した時のように、攻撃が
   逸れるということはないだろう。
    『狙えば必ず当たる―』
    さわさわと爽やかな葉擦れの音をさせながら、梢の間に見え隠れする緑の髪の少女。森の
   精の姿を見上げて目で追いつつ、しかし彼はきつく唇を噛む。
    狙えば必ず当たる。その時マヤの顔をした少女の白い腕や脚は、ちぎれて吹き飛ぶに違い
   ない。その光景が、頭の中でチラチラと明滅する。
    「…くそっ!」
    握りしめたカードを掲げる決心がつかず、ゼネスはそのまま拳をそば近くの幹に思い切り
   打ちつけた。何か、途方もなく理不尽な責め苦に遭っているような気分だ。トロルの動きも
   ほんのしばらく止まった。
    ヒュッッッ、
    鋭い風切音と共に飛んで来た何かが、ズブリと怪物の背中にめり込んだ。石つぶてだ。
    振り向くと、遠くの枝の上に少女が例のスリングを手にして立っている。
    だがトロルが身を震わせて大きく咆えると、背に深々と突き刺さっていた石が抜けて飛び
   出した。傷口にすぐさま新しい肉が盛り上がり、つぶてを押し出したのだ。トロルの能力、
   "再生"である。
    「そんな程度の攻撃など、いくらやってもムダだぞ!」
    少女が腕を振った。またヒュッと音がして、つぶてが今度は怪物の右目を射抜く。しかし
   ゼネスのトロルは悲鳴もあげずに仁王立ちとなり、再び咆哮した。
    眼窩に空いた穴に、アッという間に黄色い眼が生え出る。怪物はその眼で森の精を睨んだ。
    「いい狙いだ、だがムダだと言ったろう、俺をナメるな!」
    ちょうど梢の葉に隠されて、少女の顔は見えない。それでも彼は内心、彼女の正確な攻撃
   に満足を覚えていた。
    『そうだ、戦いにためらいなぞ要らん。自分が強ければ叩き潰せ、弱かったら頭を使って
   相手の急所を突け、それが戦闘というものだ』
    ―染まればいい!―と、彼は願う。
    ―同じになるがいい!―と、彼は呪う。
    少女の姿がまた消えた。トロルの耳がピクピク動き、木渡りの気配を探ろうとする。
    ゼネスが新たなカードを掲げると、トロルの黒い爪の生えた手に一本の剣が現われ出た。
    細身の刃がやや反った短剣だ。その柄(つか)を握りしめた途端、小さなつむじ風が怪物
   のからだを巻いて旋回し、次いでそのまま肌に吸い込まれるようにして収まってしまった。
    これは"隼(はやぶさ)の剣"、取った者の動きを素早くする呪文効果を持つ、魔法剣だ。
    そして素早さが増す分、五感の鋭敏さもまた高まる。
    今トロルの耳は、樹皮の下を流れる水の音を聴いていた。ごくかすかに、しかし確かに、
   何者かが走り抜けてゆく気配が伝う。
    「そこだ!」
    振り向きざま、大きく腕を振って彼方の高枝へと剣を投げつけた。反り刃の刀身が銀の光
   を散らして回転しながら飛び、目標に到達するやスパリと切断する。
    次の瞬間、断たれた枝の上に少女が現われる。けれどその足場はすでに落ち始めていた。
   彼女は慌てて頭上の枝に手を伸ばす。が、間に合わない。白い手が空をつかみ、緑の長い髪
   が上へとなびく。少女の姿は枝と共に落下した。
    それでも悲鳴一つあげず、森の精は身をひねって巧みに着地した。そのまま素早く一番近
   い木へと駆け寄ろうとする。
    が、その正面に跳んで来たトロルが腕を広げて立ちはだかった。
    「逃がさんぞ!」
    少女はサッと飛び退(しさ)り、カードを掲げた。輝きの中から、剣を手にした屈強の騎士の
   姿が立ち現われる。
    『"援護"を使ったか』
    カードのクリーチャーの中には、クリーチャーでありながらカードを使って、さらに別の
   クリーチャーを重ねて呼び出せる者がいる。そのような特殊能力を"援護"と呼ぶのだ。
    「―だが甘い、簡単には殺(や)らせん!」
    ゼネスはすでに拾っておいた隼の剣をトロルへと投げた。騎士に打ち落とされぬよう、
   かなり高い位置に投げたが、怪物の長い腕は難なくつかみ取る。再び旋風が巻き起こって
   その身に収まる。
    騎士が大きく歩を踏み出し、長い剣を突き出した。しかしその刃の下を非常な速さでかい
   くぐり、トロルの握った短剣が相手のわき腹を襲う。鎧の合わせ目を狙って深々と刺し通し、
   咆哮と共にそのまま強い力で切り裁(さば)く。一瞬で騎士の姿は光の粒子となって消えた。
    だがその間に、緑の髪の少女はまた木の中だ。
    「その手はもう通用せん!」
    トロルがまた耳をそばだて、目線を走らせる。すぐに見当をつけた枝へと跳躍した。ピタリ、
   その前に少女が出現してかち合う。
    彼女は驚いて身をひるがえそうとしたが、トロルは柔らかい腕をつかみざま飛び降りた。
   そのまま、華奢なからだを地の上に叩きつける。
    そこは降り積もった落ち葉の上ではあったが、背中を強く打った少女はすぐには立ち上が
   れない。トロルが飛びかかって彼女のからだに馬乗りになり、押さえつけた。毛むくじゃらの
   手がとうとう白く細い首をつかむ。
    「このまま締め落としてやる!」
    だが、震える唇からかすれた声で呪文が漏れた。少女の姿がカードの光に輝く。
    同時に、トロルの背後で空間が大きく歪んだ。避ける間もなくそこから幾つもの"風の刃"が
   飛来して、次々と頑丈な身体に突き立つ。
    回転する円盤にも似た透明な風、その不思議な刃が怪物の背にも腰にも腕にも脚にも後頭
   部にまでも突き刺さり、回りながら食い込んで切り刻んでゆく。再生も追いつかず、瞬時に
   バラバラに寸断されてトロルは消えた。
    「チッ、"風の刃(ウィンド・カッター)"で来たか」
    今の現象は、クリーチャーが道具として使える呪文カードの働きによるものだ。間一髪で
   難を免れた少女は、緑の髪を乱したままフラリと立ち上がった。
    けれど、休む間など許されない。彼女は再び跳び下がらねばならなかった。
    小悪魔(グレムリン)が一体、トロルが落とした剣を手に近づいてきたからだ。
    「これ以上道具や援護を使わせるわけにはいかん、決めさせてもらうぞ」
    この小悪魔の叫びを浴びせられると、全ての道具類は消滅してしまう。"援護"として使う
   クリーチャーカードとて例外ではない。だから森の精は、全くの素手のままに立ち向かって
   倒すしかないのだ。
    新たな相手の動きに注意深く目配りしながら、少女はジリジリと後ずさりして背後の木に
   近づき、手を触れた。また姿が消え、木渡りをする。
    周囲の梢を見上げ、小悪魔は森の精の行方をうかがった。―しかし、
    「ううむ、やはりトロルに比べるとだいぶ感度が劣るな」
    先刻までのようにはうまく気配を探れない。ゼネスはもう一度右手のカードを見た。
    『こいつを使うしかないのか…』
    だがそんな彼の思惑を見透かしたのか、少女はめまぐるしく居場所を変える作戦に出た。
   見上げるばかりでなかなか動けずにいる小悪魔をあざ笑うかのように、前と思えば後ろ、左
   と見れば右へ次々と移動しつづける。彼女の笑い声が反響し、幹にこだまして彼らを取り囲む。
    しかし、ゼネスも戦いには慣れた者であった。動けないと見せかけて、実は彼はずっとひた
   すら小悪魔の感覚を森の精の気配に"近づけて"いたのだ。そしてついに、木渡りの経路を
   探り当てた。
    「よしっ!」
    小悪魔はまず手近な木の枝によじ登ると、そこから立て続けに別の枝への跳躍を決めた。
   猿のように身軽に枝葉の間を抜け、たちまち目指す"その場所"に到着する。すると彼の
   眼前に目算どおり、緑の髪の少女が出現した。
    ところが彼女は現われると同時に足場の枝を蹴り、大きく跳んだ。まるで、相手の到達を
   予期していたものの如くに。
    次いで小悪魔の片足が急激に強い力で引っ張られ、そのまま空中へと放り出された。何が
   起こったのかわからぬまま慌てて啼きわめいたが、気がつけば木々の間に宙づりにぶら下げ
   られている。
    彼の足には、生きた蔓(つる)がからまっていた。
    「謀(はか)ったな!」
    隣りの木の枝に飛び移った少女を睨み、ゼネスは歯噛みした。彼女の手には、小悪魔を
   ぶら下げている蔓草の端がしっかりと握られている。これは道具でもカードでもない、彼の
   特殊能力では破壊されないシロモノだ。
    「いつの間に…こんなワナを仕掛けていたとは…!」
    彼女の動きを捉(とら)えたと思ったが、実際にはまんまと誘導されていたのだ。見抜けな
   かった口惜しさのあまり、腹わたが煮えくり返って焦げつきそうになる。
    そんなゼネスの顔をチラリと見てから、少女は蔓の端を離した。宙づりにされていた身体が
   悲鳴をあげて振り子と化し、そのまま勢いよく太く硬い幹に叩きつけられる。
    今度は逆さづりになって弱々しくもがいた。
    ―来る!
    木渡りの気配を感じ、ゼネスは焦りながらも懸命に小悪魔の体勢を立て直そうとした。だが
   強く叩きつけられた衝撃で、思うようには動けない。
    幹の上で悶える傍らに、白い腕が二本、いきなり生え出た。続いて森の精の上半身が幹から
   抜け出るように現われる。彼女の両手が伸びてきて、隼の剣をつかんだ小悪魔の手を、その
   まま包むように握り締める。
    「しまった!!」
    逆さづりになったまま、小悪魔は己れの武器である反り刃の短剣で首を掻き切られた。

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