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       第6話 「 焦がれる者 (後編) 」 (3)


    深夜の森はひたすらに暗かった。四人は相変わらず川沿いを歩いて湿地を目指している。
   上空を冷いやりした風が渡る、そのたび、木々の梢が揺らいでザワザワと葉が騒ぐ。彼ら
   の頭上の大半は暗い葉陰に覆われ、ただ川の上だけが川よりも少し広い幅で、夜空に光る
   星々の明かりを見せている。
    暗い森に音は無かった。昨夜は旅の話をよく喋っていたロメロも、今夜は静かだ。マヤ
   も彼に話をせがんだりはせずに、黙々と川の傍(はた)を歩いている。
    皆が話をしないのには理由があった。実は、ヴィッツがずっと何事か考え込んでいるの
   である。彼は昼間、ネズミ対策を検討しはじめた辺りからこんな調子で、出発してからも
   ひたすら、歩きながらの思索を続けているのだった。
    マヤもロメロもそんな彼を気遣って、余計なおしゃべりを自粛しているのだ。
    「…どうしたの?」
    ついにたまりかねたようにマヤが少年の傍に寄り添い、そっと訊いた。
    こうして彼に問い掛けるとき、彼女はいつも少し遠慮がちだ。師に対する場合とは大分
   調子が違う。
    「うん…」
    ヴィッツはあいまいな返事をした。彼の頭上近くでは、黄色い小獣が枝から枝へと跳ん
   では渡っている。もちろんカーバンクルである。時おりは地上に飛び降りて、主の傍らを
   並んで走ったりもしている。昼間からずっと遣い続けて、今はもう驚くばかり操る手腕が
   上達した。
    的確かつ敏捷に動く、黄色い獣。その姿にはヴィッツ少年の美質―強い意志、素直で柔軟な
   感応力―がはっきりと見て取れる。
    「オレ、なんだかわからなくなってきた」
    自分のカーバンクルを見つめながら、彼は言う。
    「わからないって、何が」
    「今日初めてクリーチャーのカードを使ってみて、そしたらいろいろとその…わかった
    ことがある。でも、わかったせいでわからなくなったこともあるんだ」
    「わかって、それでわからなくなったこと?それ、どういう意味?」
    少女が問い返す。少年はふうっと息を吐いた。
    「クリーチャーを遣う感じって、頭のどっかにポカッと穴があいて、そこから音も色も
    匂いも直で吹き込んでくるみたいだ。いつものオレとは違うやり方で周りをさわってる
    ―って言ったらいいか。
     最初はビックリしてちょっと怖いとも思ったけど、でも今はすごく面白い。
     それで…思い出したんだ、親父がクリーチャーを遣う時にはいつも、そんなに楽しそう
    じゃなかったなって。
     確かに大型のクリーチャーを一度にいくつも遣えて、動きも良くってすごかったけど、
    親父はどうも、今オレが思うようには面白いと感じてなかったんじゃないかって…」
    「え?違う感覚が面白くないって、そんな人がいるの?」
    マヤが驚いたように目を見張った。
    「ははは、そんなにビックリしなさんなよ。自分の中に別の感じが入ってくるのがイヤ
    だって奴はけっこういるぜ。つーか、大概のセプターはそれをガマンして遣ってんだ、
    面白がれるような者(モン)のほうが珍しいぐらいさ。
     まあオイラもどっちかってえと面白がるクチのほうだけど、実はそっちの方が少数派
    だってことは憶えといたがいいだろうな」
    苦笑しつつロメロが説明した、ゼネスもまたその件は承知している。"力"に触れる経験
   は独自で特殊だ、セプターであっても、全ての者がカードを使う経験を楽しめるわけではない。
    そしてそれは、真に優れたセプターが数少ない理由の一つでもあるのだった。
    「だけど…伯父貴のほうはそうじゃなかったんだ。ネズミを遣ってる時、伯父貴はいつも
    すごく楽しそうで、その頃のオレはネズミなんか何がそんに嬉しいんだろうって思って
    たけど、でも今は違う。
     わかるような気がするんだ、伯父貴が楽しそうだった理由(わけ)が。クリーチャーを
    遣って別の感じ方が自分に入ってくるのが面白かったんだ、きっと、親父とは違って。
     もしかしたら、本当は伯父貴の方がセプターとしては上だったのかもしれない、魔力
    は少なくても。親父もそのことには気づいてたから、だから"ネズミ野郎"とかひどい
    言い方をして、何とかバカにしようとしてたのかもしれない」
    少年の面持ちは実に真剣だった。無理もない、彼は今非常に重要な事に気がついたのだ
   ―と、ゼネスもまた息を飲む。
    「まったく、うっかりセプターなんて者に生まれついちまうのは貧乏クジだよなあ。
     カードをどれだけ使えるとかどれだけ強いとか、自分でも周りのモンもそんなこと
    ばっかり気にして、いつの間にか何かの序列の中に組み込まれちまう。
     いや…ホントは組み込まれるんじゃなくって自分で自分を組み込んじまうんだよな」
    ロメロが遠くの星空を仰ぎながら言った。
    「オイラさ、15ン時に生国(生まれた国)の『セプター訓練所』に入れられたんだ。
    公認セプターの家に生まれてそこそこカードが使える奴は、そんくらいの時から施設で
    知識や技を叩き込まれることになっててね。
     ところが、入所式の時そこの所長が訓示で言いやがったのさ。
     『諸君等は"力"に選ばれし者である。選ばれたる者はその"力"を有効に活用し、
     庶人を善導してこれを国の役に立てるべくあい務めよ』
     これ、どういう意味かわかるかい?要するに"お前らは役に立つ力を持ってるから権力
    の端くれに加えてやろう、だからそれを恩に着てしっかりこっち側のために働くんだぞ"
    ―ちゅうこった。
     オイラ、こりゃあとんでもない所に来ちまったと思ったけど、周りの奴らは皆んな、
    えらく嬉しそうな誇らしげな顔してんだよな、それ見たらつくづくイヤになってね。
     それで一晩中考えたあげく、日が昇る前にトンズラ決め込んだんだ。その時以来、国
    には一度も帰ってねえしカードも使ってねえ」
    宵闇の中で、首を振る気配がした。 
    「でも、どうしてそんな窮屈な序列のなかに自分から入り込もうなんてするんだろう。
     …もしかして、それ、神様が欲しい気持ちと同じなのかな」
    今度は、マヤがつぶやく。
    「"力"が使える自分て何だろう、何者なんだろう?…セプターだってわかってから、私、
    気がつけばそのことを考えてる。
     自分が何なのかわからないと、すごく不安でしょ。でも序列の中に居れば位置がすぐ
    わかるから、安心できるのかも、それがどういう形であっても。
     一人で立ってるのは自由だけど孤独で、不安で、いつも自分と向かい合ってなくちゃ
    いけないから厳しくて…それで神様が欲しくなったり序列に入って安心したくなるのかも
    しれない。
     でもその代わり、今居る位置からずり落ちたくなくて下にいる人を攻撃したり、上に
    居る人を妬んだりするんだったらイヤだな、私は。
     そんなことだったら、私もロメロと同じで自由でいる方がいい。一人で立ってる方が
    いいよ、不安でも厳しくても。
     ただ…そう思い切れない人の方が多いのかな…どうしたらいいのかな…」
    彼らの会話に、ゼネスは沈鬱な思いを抱きつつ耳を傾けていた。
    覇者を狙えるほどの優秀なセプターなどは、どの世界でもほんの一握りに過ぎない。
   大半のセプターはヴィッツや彼の父親や伯父のように、"力"の行使に焦がれながらもその
   全てを手にすることなく生き、そして死んでゆく。
    自らの生の意味を見出し、確信することができないままに。
    ―『人の生まるるや孤、生くるや苦』―
    神が導いた"力"の片鱗に触れた聖女はそう言い残したという。「私は何者か?」この
   問いこそは、人間を「人」とすると同時に孤独と苦しみをももたらす「意識」という怪物だ。
    彼は知っている―ずっとずっと昔から、同じことのくり返しだった。人は自らの身内に
   巣食う怪物との共存に耐えられず、何がしかの序列の構造を造りあげてはその中に収まる
   ことで、安らぎを見出そうとしてきたのだ、特定の集団、宗教、国家…。
    だがそうした構造の中で生きるうち、人はいつしか自分の全てを構造と同化させてしまう。
   そして序列や構造を揺るがす者、乱す者を激しく憎んで互いに抑圧しあうのだ。
    ―「覇者になることだけが"本当のこと"なら、セプターはみんな絶望しなきゃいけない」―
    以前にマヤが言った言葉を、彼は思い出す。その意味は最初に聞いた時よりも、今こそ
   が身に染みる。宇宙の継続と拡張をになう、カルドセプトのカード。その使命を支える最も
   底辺に在るのがヴィッツ達、無数の"焦がれる者"ではなかったのか。
    『いつの間にかセプターは、覇者を頂点とする序列の中で互いを抑圧しあうようになって
    しまったんだ。そのあげく今では頂点さえもが失われて、序列の構造と抑圧だけが機能
    している。
     全ての狂いの中心には、ことによると覇者になれないセプター達の絶望が積み重なって
    いるのだろうか…もしそうだとすれば、だとするなら俺のやるべき事とは…』
    夜の闇が濃い。ゼネスの竜眼に映る闇ではなく、彼の脳裏に映る闇が濃い。一寸先さえ
   見ることができずに、ただ手探り足探りして進む。
    夜明けの時は来るのだろうか、それは気配さえまだ毛筋(けすじ)ほども感じられない。
    「オレ、わからなくなるばっかりなんだ」
    しばらく黙っていたヴィッツが、また口を開いた。
    「伯父貴は本当に親父やヴィルムを殺したんだろうか?
     前にネズミを遣ってた時の楽しそうな顔を思うと、今はオレもその気持ちが何となく
    わかる感じがする。でも、それと親父たちを殺すこととが全然結びつかないんだ、いや、
    むしろ反対側にあるものみたいにさえ思えて仕方ないんだ。
     わからない、これっぽっちも。いったい何がどうしてこんなことになってるのか」
    苦悩のにじむ声だった。その疑問の答えは、伯父であるオズマ本人だけが知っている。
   やはり彼は伯父を探し出して会い、確かめるしかない。
    そしてもしオズマがネズミを繰り出して抵抗するようであれば、クリーチャーを排除し
   てでもセプター本人を引っ張り出す他ないのだ。
    「とにかく急ごう、手掛かりがないまま考えても疲れるだけだ」
    ゼネスは声をあげ、さらに足を速めた。
    すると、師の後からマヤが小走りに追って来る。
    「ゼネス、老柳でネズミの群れに立ち向かう役、私にやらせて」
    あまりにも意外な言葉、驚いて彼は思わず立ち止まった。
    「正気か?これは普通の対戦とは違う、集中力の戦いなんだぞ。しかも、敗れたら一瞬
    でネズミどもに食い殺されるかもしれない、経験の浅いお前などには無理だ」
    今度だけは言い分を引っ込めてくれ…と、彼は祈るような気持ちだった。だがやはり、
   (案の定と言うべきか)弟子は首を縦には振らない。
    「オズマって人のことを知りたい。どうして、何を考えてこんな騒ぎを起こしてるの
    かを感じ取りたい。そのためにはネズミとぶつかり合ってみるしかないから、今は。
     ゼネスだって本当は、老柳を遣ったことなんて一度もないんでしょ。だったら私が
    やったって同じだよ、だからやらせて、お願いだから」
    「う…む…」
    ―相手のことを知りたい―今、彼女はそう言った。知るためにこそ対戦するのだと。
   ゼネスは激しく動揺していた。それは自分には欠けている感覚だと、つい最近気づいた
   ばかりだ。
    「やらせてやんなよ、お師さん。オイラこの子のことは信頼してる。それにもしもし
    危なくなるようだったら、オイラとあんたとで助けに入ればいい。そん時にはオイラ、
    いくらでもカードを使わしてもらうからさ」
    ロメロがマヤの後押しをした。さらなる意外、だが彼の言葉は温もりと力強さに満ち、
   この覇者クラスの(と推測される)セプターの思いの深さを十二分に表している。
    ゼネスも覚悟を決めた。
    「…わかった。植物のクリーチャーの特性をしっかり把握して、見事に操ってみせろ。
    お前の集中力を存分に発揮できれば、必ずネズミ遣いを圧倒できるはずだ。
     ただ、ムチャはするなよ。それと、少しでも危ういと見たら何を置いても介入する、
    その時になって文句を言うんじゃないぞ」
    師としての威厳を込めたつもりで、弟子に許可を与えた。
    「ありがとう、頑張るから、私」
    少女はニッコリとほほ笑んだ。そして小声で
    「ヴィッツのためにも…ね」
    片目をつぶって付け加える。少年が無言のまま彼女に右の手のひらを差し出した。
    二人は固い握手を交わした。



    「ギィッ…ギィッ…」魯(ろ:舟をこぐための道具)が船端にこすれてきしむ音がする。
   ゆらり、ゆらぁり、音のするたび小船は揺れる。遠い水面(みなも)の上に浮く街の灯も、
   チラチラ、チラチラ瞬きながら揺れる。さざ波立つ水の上に、赤や黄色の光跡を曳(ひ)く。
    草木も眠ったような闇の森を抜け、四人は夜半過ぎ、ついに湿地の「盗人街」に近い場所
   に出た。その後はヴィッツの案内に従い、ぬかるみの間をつづら折りに折れ曲がる細道を
   通って「街」への渡し場に至り、船に乗り込んだ。
    目指す地は、湿地のほぼ中ほどに広がる大きな湖に浮かぶ小島である。
    「湖の島にしては大きいな」
    チカチカと光る灯を透かし見しながら、ゼネスは思わずつぶやいた。非合法の場所という
   からにはもっとひっそりした佇まいを想像していたのだが、実際に見る街明かりはかなり
   広い範囲で煌々(こうこう)と賑わしく輝いている。「盗人街」と言うより「不夜城」の方が
   よほどふさわしい。
    「オイラは二回ばかり来たことあるな、いかがわしくって人出の多い面白いとこだ」
    ロメロが楽しそうに街を眺めて言った。すこぶる上機嫌である。
    「上陸したら、まずは稼がせてもらうぞォ」
    彼は本来の技能である"歌"を披露するつもり満々なのだ。実は「盗人街」行きが決まった
   直後から、発声練習と称してはしばしば遠くまでよく響く声を張り上げ、ゼネスを閉口させていた。
    「本当に言うほど金になるのか、お前の歌は」
    これまでカード一筋に生きてきたゼネスは、歌などという文化的技能に対する理解度が
   それほど高くない。ただ術師らしく感受性には富んでいるため、辛うじて美しいか否かの
   判断がつく程度である。ロメロの技量のほどなど、とてものことに見当さえつかない。
    「彼の声は素晴らしいよ、ゼネス。歌はまだ聞いてないけどきっとすごくうまいと思う。
    ロメロ、楽しみにしてるからね!」
    マヤもそんなことを言って嬉しげだ。彼女にはどうやら、調子のいい男の歌手としての
   レベルが判断できるらしい。
    「そんなものか…?俺はあまり期待しないことにしておく」
    この話題についてはもう打ち切りとばかり、ゼネスは近づいて来る島の岸辺に眼を向けた。
   色とりどりの呪文の灯を満載して、周囲の深い闇の中でそこだけが場違いなまでに明るく
   華やいでいる。そして灯の奥には、建てこんだ街なみの影が黒々と沈んで見えた。
    ヴィッツ少年はずっと船のへさきに取り付いて、街の灯を食い入るように見つめている。
   彼は今、大判の赤い花柄の布をストールのように頭からすっぽりと被っている。実はこれ
   は女装のつもりだ。
    森から湿地に出た時、ヴィッツは自分から
    「オレ、顔を隠したいんだけどストールか何かあったら貸してくれるか?」
    そう言いだした。
    「あの街じゃ素顔を晒してると目立つんだ、"売人"の印だからな。大抵の売人は得意客
    しか相手にしないけど、顔を出してると売人と思われてじろじろ見られたり話し掛けられ
    たりする。その中にオレを知ってる奴がいたら動き難いだろ?だから、あったら頼む」
    それはもっともな意見だということで、マヤはカバンの中から一枚の布を取り出した。
   大判の真四角のストールで、彼女が市場での買出しの際などに荷物を包むのに使うものだ。
   これが赤地に花柄だったのである、少年が見るなり言葉を失ったのは言うまでもない。
    「ごめんね、今はこんなのしかなくて…」
    少女は申しわけなさそうに詫びたが、ロメロは笑いながら少年の肩を叩いた。
    「いいぜ、これは傑作だよ、ヴィッツ。お前さん、顔を隠すついでにいっそ女の子って
    ことにしときゃあいいじゃないか。ゴマかすんだったら徹底的にやるに限るぜ」
    ヴィッツもこの助言に従うことにしたのだった(ついでに言うとゼネスは眼帯を着け、
   マヤは首に巻いているスカーフを鼻の上の辺りまでずりあげた。ロメロは売るものがある
   ので顔は隠していない)。
    そうして今、小船は島の岸辺に着いた。竜眼の男と若い男、男装の少女と女装の少年は
   「盗人街」に上陸し、第一歩を踏み出した。
    彼らの足の下の土は赤っぽくてキメが荒い。こぶし大までの石がゴロゴロと混じるのが
   目に立つ。
    「"アップヒーバル"(地底から溶岩を呼び寄せて大地を隆起させる呪文)で盛り上げた
    土地なのか…」
    足元を見ながら確かめるゼネスをよそに、
    「さ〜あ、稼ぎ稼ぎ」
    ロメロはスタスタと足早に進む。少年と少女もそのすぐ後について行く。ゼネスは彼ら
   からはやや遅れて、周囲を良く見回しながら歩き始める。
    ロメロの言う通り、人出は多い。港から続く中央の広い通りからいく本もの路地が伸び
   ているが、どの通りも大勢の人が行き交いあるいはたむろしたりしている。
    だがそれでいて、市場のような喧騒はない。聞こえてくるのは低いヒソヒソ声ばかり、
   道の端で何やら会談中とおぼしき者たちなどは、声さえ出さずにもっぱら手指を印を結ぶ
   按配で組み合わせ、見せ合うことで意思疎通を図っている。
    『なるほど、あれは一種の"隠語"か。部外者に知られずに商談というわけだな』
    そんな見当をつけつつ、しばらくはひたすら真っ直ぐに通りを進んだ。
    密やかな人々はまた、顔を隠している者が大半であるのもこの街の著しい特徴だった。
   濃い色のフードを目深に被る者、目だけ出してターバンを巻きつけた者、中には仮面着用
   の者までいる。確かにかなり"いかがわしい"雰囲気をかもし出している。
    そんな中で素顔をさらしている者らは、顔を隠した者と会談中であるか、道の傍や壁の
   前などで人待ち顔で立っているかのどちらかだった。ヴィッツの言った通り、この街で顔
   を晒すことは「売るモノがある」という意思表示なのだ。
    さて、一行はそのまま通りを歩き続け、やがてかなり広くなった場所に出た。ぐるりを
   見渡せば数多くの路地がつながるそこは、どうやら街の中心部らしい。
    "広場"はその半分ほどを飲食の屋台に占められていた。そのせいで、街のほかの場所に
   比べて集う人々の上にもややくつろいだ表情がうかがえる。―とはいっても、やはり喧騒
   からはほど遠い。食卓を囲む人々は時おり顔を寄せてささやき交わしたり忍び笑いをもらす
   ぐらいで、そんな声は調理の音や食器の触れ合う音にすぐとかき消されてしまう。
    それでも、食物をかき込む人の間を、楽器を抱え調べを奏でながら流し歩く楽人の姿や
   鮮やかな術を見せる手品師などが散見された。やはり人は常と違う場所に来れば何がしか
   楽しみを求めるもののようで、そんなところはこの街も他所とそう変わらない。
    また、屋台の出ていないもう半分では実際にモノを並べて売る者たちが幾人か店を開き、
   客を待ち構えていた。売り物の多くは武器と防具である。
    ゼネスは彼らの店頭をひと渡り眺め、やがて一台のクロスボゥに目を留めた。その石弓
   (いしゆみ)は通常の品とは違い、つるを巻き上げるハンドルがかなり頑丈にできている。
    「旦那、お目が高い。この弓は特別製の強いつるをつけた品でしてね、鉄の矢でも飛ばせ
    ますんですよ。これさえありゃあ、火竜が相手でも恐れるどころじゃありません」
    しゃがれ声で、すかさず店の主が説明する。
    『こいつか…』
    ボーマンの砦で腹に受けた鉄の矢を思い出し、彼はつい顔をしかめた。あの時のひどい
   苦痛は、しばらくはとても忘れられそうにない。
    連れの三人は路上の店には目を向けず、どんどんと広場の中央へ進んでいた。ゼネスも
   嫌な記憶から逃れるように、彼らの後を急いで追う。
    そうして真ん中付近の何もないところまで来ると、ロメロが立ち止まった。
    「さあて、一丁やらかすとするか」
    彼は溌剌として喜びを抑えきれないような表情で胸を張り、両腕を広げ、肚に大きく
   息を吸い込んだ。―と、
   突然、驚くばかりに豊かな声量が周囲を圧して鳴りはじめた。

     さあさ皆さん寄っとくれ
     オイラの歌を聞いとくれ
     辛い浮世の憂さ晴らし
     通りすがりのおなぐさみ
     恋の歌から子守りの歌まで
     お望みまかせに唄いましょう
     笑いも涙も詞(ことば)に乗せて
     命の洗濯いたしましょう
     お代は聞いてのお帰りに

    それは朗々と響く声だった。太く、明るく、粘こく、伸びやかに良く通り、広場の隅々に
   まで瞬く間に浸透する。集う人の頭の全てが一斉に動き、こちらを見た。
    まるで魔法だ。
    確かに目の当たりにしながら、しかしとても信じられない。ゼネスはただ眼を見張って
   いきなり始まった魔法の時間の中にいた。
    ―食事をしていた者の手が止まり、立ち上がる。商品の品定めをしていた者も、用事を
   中途にフラフラと近寄ってくる。その場の視線が一点に集まる、歌手、ロメロの顔の上に。
    若い男は、ジリジリと身を焦がす熱い眼差しを楽しむかのようにぐるりと周囲を見回し、
   艶を帯びた笑みを浮かべた。華やかな色気が匂い立ち、誰もがもはや彼をしか見ていない。
   固唾を飲んで「次の歌」を待ち受ける。
    その緊張が頂点に達した瞬間、ロメロはスッと背を伸ばした。ついに、先刻よりさらに
   一層の輝きを加えた声がほとばしり出る。


     東方の佳人
     黒い髪、黒い瞳(め)
     紅い口元ににじむ、蠱惑の揺らぎ

     おまえの中には何がある
     口付けを交わすたび、あふれる蜜と毒
     めくるめく 午後の陽(ひ)
     甘く痺れた腕でかき抱いても
     不実な花よ
     肌は冷たく冴えたまま
     視線だけ熱く 俺の肩越しに空を見る
     蜂のように細い腰 柳のようにしなわせて
     この身を楔(くさび)と引き止めたいのに
     笑いながら 今日もツルリとすり抜けた

     俺の全てをくれてやる
     お前の心臓が欲しい
     全部惜しみなくささげよう
     お前の心臓をつかみたい

     中心が欲しい
     魂が欲しい
     熱くとろける芯が欲しい

     東方の佳人
     黒の髪、黒の瞳
     紅の唇に浮かぶ 笑みは誰に
     照りつける太陽の下 輝く逃げ水
     俺の手がつかむのは いつも
     幻の影だけ


    一曲が終わった。歌い手は口をつぐんだが、歌の声はまだ、人々の頭上に余韻を曳いて
   揺れ漂っている。
    しばらくの静寂の時…そして数人の手のひらが打たれたのをきっかけに、万雷の拍手が
   湧き起こった。ヒューヒューと高い口笛も盛んに飛び交う。歌手は深々と一礼した。
    「すごいねえ、声は飛び切りだし歌もいいし、ロメロは天才だね」
    マヤがゼネスの傍に来てささやいた。興奮に顔を火照らせる弟子の顔を見ながら、
    「不謹慎な詞だ」
    師はひとことだけ感想を述べる。少女がプッと吹き出した。
    「何その言い方、ゼネスらしいなあ。あれは恋の歌だもん、硬いことは言いっこなしだよ」
    その後もロメロは数曲を披露し、歌が終わるたびに拍手と歓声に包まれた。そうして
   「これでお終い」と言いながら実に三度もアンコールに応え、ようやく観客に暇(いとま)
   を告げると彼の前にはみるみるうちに金貨銀貨の山が出来た。
    これはもちろん、客の満足の証したる歌の代金である。
    「こんなに金になるものなのか、歌というものは」
    ゼネスには到底理解できないことだが、調子のいい男は澄ましたものだ。
    「いつもの三割増しってとこかね、さすがにこの街の客は持ってんなあ」
    そんなことを言いながら、ポケットから取り出した袋に金を詰め込んでゆく。全部で
   五袋にもなった。
    「さてさて、これで金は出来たぜ、お次はいよいよ情報だな、心当たりはあるのかい」
    若い男が少年に目配せすると、ヴィッツはうなずき、
    「ついて来てくれ」
    先頭に立つと、広場から続く路地の一つに入っていった。

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