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      第11話 「 師とその弟子 (前編) 」 (3)


    「でも……さ、ゼネスだって変わったよね」
    黙ったままの師に、弟子はこそこそと上目を使った。心配したのか、それとも探っている
   のかはどちらともつかない。
    「……変わった……? 俺がか?」
    ようやく言葉を返すと、少女は遠慮がちにうつむく。
    「うん、昔のゼネスだったらさ――ウェイさんの士を見つけて畑に駆け上がったら、もう
    そのまますぐに『貴様は強そうだな、俺と勝負しろ!』とか言っちゃって返事も聞かずに
    勝手にカードを出しちゃってたと思うもの。
     それが今はきちんとあいさつするし、相手の都合に合わせてあげて、こうやってお手
    伝いまでしてる――やっぱり、変わったよあなたは」
    「……ふん……」
    ゼネスは煮え切らない返事をした。変わったのはなるほど、本当のことかもしれない。
   彼自身、以前の己れは身勝手で他人や周囲への想像力に乏しい男だったと認めるのに
   やぶさかではない。
    しかし、もし変わったとして自分はこれからどうすればいいのか。カルドラ宇宙の衰亡
   を食い止めるにしろ、目の前の少女を守るにしろ、そのための力をどのように身につける
   のか、どんな自分を目標とするのか。それが未だにはっきりと見えずにいる。
    もどかしく、そして情けない。
    再び黙りこんだ。だがとび色の目が下からのぞき込んできた。ゼネスの目とかち合った。
    「だけど私、ゼネスはきっと前より強くなってると思う。
     弟子にしてもらった頃より今のほうがずっと強いって、そういう気がする」
    「気がする――だと? 根拠のない話には乗れんな」
    目を逸らし、彼はほとんど口の中だけでつぶやいた。「強さ」とは何だろうか、彼女が
   言う自分の「強さ」とは。わからない、物悲しさだけがつのる。
    その時、
    「ほ〜い、お二方よ」
    向こうの畑から屈託なくウェイ老が呼びかけてきた。
    「そろそろひと休みをいたしましょう、茶などいかがか」
    その声を聞き、彼はなぜだか少し救われた気分になった。「は〜い」と答える弟子の少女
   と連れ立ち、その場に鍬を置くと畑を離れた。




    畑道のはずれ、山の斜面の芝草の上に腰を下ろし、三人はひととき茶を飲んで体の疲れ
   を癒した。
    シャバシャバシャバシャバ……。
    畑の合い間を流れる小川の水音が、絶えず聞こえてくる。山らしく陽射しは強いが風は
   涼しくてすごしやすい。出してもらった茶を口に含むと、炒ったような香ばしさが喉の奥
   から鼻まで抜けた。
    「うまい――」
    覚えずつぶやいた、さすがは山の清水で淹れた茶だ。
    「このお漬物も、おいしいよ」
    マヤが小ぶりの鉢を回してくれた、ウェイ老持参の茶受けだ。白くて細長い根菜を漬け
   たそれは、全体にうっすらと褐色がかってかすかに燻した香味を持つ。薄い輪切りにした
   ひと切れを口に入れ、噛んだ。しんなりした中にも「ぱりっ」と歯ごたえがある。
    「うむ、いける」
    汗した身体に塩気が嬉しい。ゼネスは茶のお替わりをしながらついつい、次から次と鉢の
   中の半分近くをつまんで食べてしまった。
    こうして腹が落ち着けば、彼の目は自然、下に広がる水田地帯を眺める運びとなる。
    下で立って見渡していた時に比べ、山の斜面から見下ろす水田風景は大分に様子が違っ
   ていた。ここでは平面ではわからなかったことがわかる。
    まず彼の目を惹いたのは、水田の畦が作る細やかな線模様だった。丸みを帯びた四辺形
   が互いに隣りあい連なりあい、四方八方へと展開している。ずっと眺めるうち、以前に似た
   ような何かを見たことがある――という気がしてきた。何だったろうか。
    「こうして見てると蜘蛛の巣みたいなのね、水田て」
    弟子の少女がひとりごち、なるほどそうであったかと合点した。
    言われてみれば確かに、畦が形作る線の模様は大きな蜘蛛の巣の網目模様とそっくりだ。
   そして今、彼らの眼下にあるこの"蜘蛛の巣"には、一つ一つの網の目に草緑の紗(薄手の
   絹織物)が懸かっていた。その下にきらきら、光を反射する水の膜が透けて見える。
    風が吹くたび「さらさら」紗は繊細に揺れた、水の膜も小刻みに震える。山から流れ出た
   冷たい清水が、田に引き入れられてゆるゆるとまどろんでいる。いつか、眺めるこちらに
   まで草のそよぎと水の揺れ、泥の温みが伝わってくる。
    沈んでいた気分が次第に上向いてくるようだった。
    さらに視線を山の斜面に転ずれば、段々に作られた水田(これを「棚田」と呼ぶとウェイ老
   は教えてくれた)の有り様をはっきりと見渡すことができた。
    ゼネスの目に、それらは水を張ったテラスが幾層にも重ねられているように映った。斜面
   がゆるい所では幅広く、狭い所では階段のように狭く、少しずつずらされながら上へ上へ、
   すこぶりに積み上げられている。
    もちろん、これらの棚田もその一面ごとに、平地と同じ緑の紗と水の膜がたたえられて
   あった。平地で山で、広がり重なりあう水田の全てが光を映し、緑にさやぐ。風上から風
   下へ、さざなみが渡る。そよそよと振動する。
    なんと調和に満ちた美しさだろう、もはや風景の全体が神の手になる極めて精巧な作り
   物とさえ見えてくる。ゼネスもマヤも、ひと時言葉を忘れて陶然と眺め入った。
    ――しばらくの後、ゼネスはふと思い立って訊ねた。
    「見事な眺めだ。このような奥地を切り開き、山の上にまで水田と畑とを作り上げた先人
    の辛抱、並大抵のものではないな、恐れ入る。
     ところで、この村は他とはずいぶんと離れているようだが、いったい何処の国に属して
    いるのだろうか。お教えいただけるか」
    この問いに、老爺は手にした湯呑の茶を飲み干し、少し間を置いてから答えた。
    「"タイハン"でありますよ」
    そのまま頭をめぐらせ、北東を向いた。
    「そら、あの天辺が三角の山、あの方角にずっと進み行けばタイハンの都・リュウ=ユウ
    に着きまする。それが皇帝陛下をいただく国の要にござる」
    ウェイ老の眼はじっと彼方を見据えていた。ただ、言葉の静かさとは裏腹に、その視線
   には熱がある。それも、何らかの葛藤を孕むと思しき熱が。
    『この老人、以前は都に居たことがあるのか――?』
    ゼネスが疑問を抱いた瞬間、だが老爺はついと目を眼下の平野に転じた。
    「あの川をご覧くだされ」
    不意に平地の中心を流れる水の線を指差した。広がる水田の中、それは細くしなやかな
   白蛇の姿にも似てゆるやかにうねっている。
    「ああ見えて、あれはなかなかの暴れ川でしてな。時に猛々しく水の嵩を増し、平地に
    あふれ出しては作物のことごとくを押し流すばかりか、山際までをも水浸しにすること
    がござる。丹精こめた命の糧を一朝にして失う我らの悲嘆、とても言葉には尽くせませぬ。
    なれど」
    指していた手を下ろし、老爺は平地をぐるりと見渡した。
    「川が暴れるたびに山は削られ、この地の平野は広がって泥も積もり、土地は肥えるの
    でありますよ。禍と福とはあざなえる縄の如し、それが現し世の摂理というものであり
    まするかな」
    「なるほど……」
    相づちを打ちながらしかし、ゼネスの脳裏には眼の下の平野を覆い尽くして逆巻く濁流
   の光景が浮かんでいた。瀟洒な白蛇が変じて山をも削る大河と化す、この地の山野にはそれ
   ほどの強大な「力」が秘められているのだ。
    想像すれば恐ろしい。だがその一方で彼の内には、そんな激しい「力」であるならば一度は
   触れてみたい、そう願う心も確かに存するのだった。見たい、出遭いたい、掴み締めたい――
   何のためという目的さえもなく、ただ「力」に惹きつけられてしまう、そういう己れがいる。
    『……ちっとも変わってなぞいやしない、俺は……』
    目を瞑り、想像の中の濁流を追い払おうとした。――しかし、その努力は突如中断された。
    「先生、こんちは!」
    「こんちは、手伝いに来た!」
    元気の良い声だった。眼を開くと、数人の子どもたちがこの畑への道を登ってきている。
   七〜八歳から上は十代の半ば過ぎぐらいまで、いずれも質素な身なりをした農家の子らだ。
    「おお、今日もよう来てくれた、かたじけない」
    ウェイ老は破顔して彼らを迎え、次いで師弟に向き直った。
    「この子らは私が手習いを教えておる村の子どもたちでござってな、いつもこんな時分
    からやって参って私の手伝いをしてくれるのでありますよ」
    説明してから今度は子どもらの方を向き、
    「さあ諸君、見ての通り今日は私のお客人お二人がご一緒してくださっておられる。諸君
    らは順番にごあいさつをなさい」
    そう言って彼らと師弟とを引き合わせてくれた。
    子どもたちは、最初のうちこそゼネスの異相を見て顔色を変えたり立ちすくむ者もいた。
   が、
    「このお二方は私と同じく術の修行を続けておられる方々、礼儀正しいお人たちなれば
    心配は要り申さぬ」
    老先生の言葉を聞いて後は、こわごわながらもてんでにしゃっちょこばった辞儀をして
   くれたのだった。
    そうして挨拶が済むと、子どもらは「勝手知ったる」という様子で畑に散り、おのおの
   必要な作業を始めた。それを見てゼネスとマヤも休みを終えて腰を上げ、先の畑の仕事を
   再開する。
    西の空がほんのりと赤くなるまで、ウェイ老と子どもたちに立ち混じって師も弟子も土
   や草と格闘しながら汗を流したのだった。

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