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       第12話 「 水の上に映る  」 (4)


    月が出ていた。真円に近い大きな月だ、深更の黒藍の空に白銀の輝きが音も無くたたず
   む。風は絶えていた。月が明るいせいか星もまばらだった。
    ひた、ひた、ひた――裸足で土を踏み、マヤが進み出た。小屋の前、ささやかな庭を横切っ
   ていってその端に立ち、眼下を見る。急な斜面の下は一面の水田が宵の底に沈んでいる。
    つ、と右手を上げた。
    「綾(あや)の絹、玉の帯とて惜しからず
     惜しむべきはこの、花の錦(にしき)
     いざや焚け、篝火(かがりび)
     盛りの春、たけなわの時に臨(のぞ)まん
     咲くや木(こ)の花、今宵花咲く」
    ――ザザザザザ…………
    「音」が立った、斜面の下から。水田だ、細長い緑の葉擦れの音が。
    「花咲く枝を折りたまえ
     咲き匂う盛りを愛(め)でたまえ
     折ってかざして舞いたまえ
     御身の少(わか)さに酔いたまえ」
    ザザザザザザザ…………
    風は無かった、今も。しかし稲は騒ぐ。眠りから目覚め、マヤの唱える詞章に応えるか
   のように。さらに、
    『おお!』
    光が広がった、目の下の稲の海、その表の全域が光を放つ。目を見張った。今や盆地の
   底部分が一面、淡い黄金色に発光している。
    『実りの花』
    それは出穂した稲穂が放つ輝きであった。ぼうとけぶる光が盆地にあふれ、そればかり
   か周囲の斜面にまでその光は這い上がって呼吸(いき)するようにまたたく。西から東、
   北から南、横へ、斜めへ、十重に二十重にゆるゆる光の襞がうねる。うねっては連なり、
   次から次と渡りゆく。
    さざめく水の面(おもて)だった。幾千幾万とも数知れぬ光の点、その点が形作る水面
   のゆらめき、ざわめき。
    「時移れば花散り、
     歳(とし)廻りて復(ま)た開くも、
     人の身に再びの春は来たらじ
     君よ、短き日を惜しみ、
     日、落ちなば燭(しょく)を取りてもなお遊べ
     「過ぎ行く春よ永(なが)からん」とぞ願いたまえ」
    舞踊が始まった。腰をやや落とした姿勢からひざが動き、足裏が地を舐めて進み、進み
   きって動きは足の親指に跳ね、指が宙を指して上がり、上がったまま土を踏む。両の足が
   互い違いに進む、ちら、ちら、繰り出された足先で親指が目に立つ。
    以前に花の木の下で舞った時に比べ、詩も舞いも調子は一段低く抑えられていた。ゆる
   やかに濃(こま)やかに、緻密な動作が続く。手先のひねり、ひじの返し、腰のため、ひざ
   の開き、爪先の向き――全てに何らかの「意味」がある。時にひざが強く「はっし」と上下
   して「タンッ」、足裏が地を打つ。舞う手足の調子に連られ、水田の光はさらに明滅し、
   波立ち騒いだ。光の水面が震える、葉擦れの音がこだまして夜の彼方に放たれる。
    この世のものとも思われない。ウェイ老とゼネス、二人だけの客を前に演じられた聖な
   る宴(うたげ)であった。花無き花の満開の極みであった。
    茫として見とれた。
    「花咲く枝こそ折りたまえ
     花無き枝を手に、
     君、悔い嘆きたもうことなかれ」
    気がつけば、詩はすでに最後の一節に差しかかっている。
    やがて、「ぴたり」手が止まった。同時に足も止まる。
    音が消えた。光も消えた。さざめく水田は再び闇の底に成り変わって黙り込んだ。黒々
   と静もり「そよ」ともささやかない。
    何もかもが口をつぐんだ。――中で、そろり動き出した影がひとつ。マヤがゆっくりと
   姿勢を解き、さらに水田の海に向かい一礼した。
    風が出て来た。ひいやり、ほほをなぶって過ぎる。月明かりの下、少女がこちらを振り
   返った。
    「ウェイ先生?」
    その時始めて気がついた。老爺が立ちながらに涙をあふれさせている。
    「いかがなされた?」
    思わず二歩、三歩と歩み寄って訊いていた。想像もつかない、この人にして泣くことが
   あったとは。
    老剣士は片手に両のまぶたを押さえ、しばらくはそのまま身じろぎもせずにたたずんで
   いた。が、やがて涙をぬぐった。
    「稲の花に光を灯されるとは、これは『奨進花』を舞うてくだされましたか。久方ぶりに
    目にしました、つい万感せきあえずお恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ない」
    驚いた。ウェイ老はマヤが舞った舞踊の名称を知っていた。しかも、過去にも目の当た
   りにした機会があるという。
    「姉がおりました、ひとり。私には」
    唐突に口にした。何のことか、といぶかしむ師弟にはかまわず、さらに続ける。
    「十近く歳の離れた、腹違いの女です。私の実家は貧しく、彼女は数えの十二で家を出
    されて妓女となりました。それでも才がありましたものか、やがて優れた舞い手として
    頭角を表わし、都のさる貴人の屋敷に抱えられ、そこで先帝さまのお目に留まって後宮
    へと迎え取られ申した」
    「それは……」
    これまた意外な告白ではあった。タイハンの民であれば先刻承知の逸話であったのかも
   知れないが。
    「後宮においても姉は先帝さまより厚いご寵愛を賜りましてな、正妃さまに次ぐ貴妃の
    位をいただきました。布衣の私が東征の将軍職に抜擢されましたのも、この姉の奇縁が
    あったればこそにござる。
     ただ……惜しくも四十に届かぬうちにみまかりましたが」
    ひとりごちるように言い、もう一度目をぬぐった。
    「とは言うものの私自身は、実の姉ではあっても親しく言葉を交わす機会は一度も持ち
    得ませなんだ。なにしろ私が物心つく以前には家を出て、再会した時には後宮の御簾の
    内のお方となっておりましたゆえ。
     御姿と御声に直に触れることができましたのは二度ほど、先帝さまのお声がかりで催
    された祝賀の宴の席上でござる。その二度のうちの一度で姉が舞ってくださいました演目
    が、ただ今マヤさんがお見せくださった『奨進花』でござった」
    「そうだったのですか……何も存じませず、差し出がましい真似を……」
    少女は恐縮した。が、老爺はひっそりと笑む。
    「いや、むしろ嬉しう思うておりまする。姉は"木の下にて舞えば、枝に花咲く"と称え
    られた名手にござった。かつての御姿が貴女のおかげでまざまざと想い起こされました。
    この通り、でござる」
    白髪の頭が深く、深く垂れた。
    「いえ、お褒めのお言葉をありがとうございました」
    少女も静かに腰を折って返礼した。ところへ、
    「マヤさんは私の願いを聞き入れて舞うて下された。私も、お返しにひとつお見せをい
    たしましょう。以前にお約束をした『鵞毛を斬る剣』を」
    ――何? とゼネスの耳目が一斉にそば立った。
    「今、ここでですか先生? でも……」
    慌てて身を起こしたマヤも周囲を見回した。無理もない、今は夜半だ。白々と月の光が
   冴えるとはいえ、昼間に比べれば手元は暗く、宙をただよう小さな羽毛を見極めるには難
   がある。だが、老爺は落ち着き払っていた。意にも介さない様子であった。
    「ご心配めさるな、マヤさんが例の明かりを灯してくだされば私にはそれで十分にござる」
    興深い、といった微笑をたたえている。
    「そう、ですか。ウェイ先生がそう仰るなら……。
     それではお願いをいたします」
    覚悟を決め、マヤは片手をかざして呪文を唱えた。
    たちまち、大きな光球が呼び出されてささやかな庭先に燦々、光が満ちる。
    その中を、ウェイ老はいったん小屋に戻って愛用の刀を取り、さらには物置の隣りにこ
   しらえた鶏小屋の中にも手を突っ込んで、騒ぐ鶏の腹の下から羽毛を一枚失敬した。
    白く柔らかそうな、綿の切れ端に似た綿羽であった。節くれ立った皺だらけの指先に、
   粘りつくようにして絡まり留まっている。
    老剣士はそうして、いよいよ士を喚び出した。すっくと背を伸ばした姿が庭の真ん中に
   現れ出て地を踏みしめる。主の手より刀を受け取り、腰に差し落とした。
    「構え」に入る。刀は鞘に差したまま、身体が右斜めに前傾する。「居合い」の構えだ。
    「では、参る」
    厳かな声が落ちた。風は今、無風に近いほどのかそけさで動いている。ウェイ老はゆるり、
   士より三歩ばかり離れた。風上に立ち、背伸びして指先の羽毛に唇を近づけ、
    「フッ」
    吹いた。
    「ふわり」羽毛が指を離れて浮いた。白く細い毛が光に照らされてわずかに銀を放つ。
   とは言え所詮は「灯火の呪文」による明かり、真昼間の陽の明るさには及ばない。宵の闇
   の内から羽毛のそよぎを見分ける難しさは、ゼネスも竜眼を凝らしてようやく「できる」よう
   になるほどだ。たとえウェイ老ほどの剣士であっても、人の目をもってこれを斬ることなど
   本当に可能であるのか。ふと疑念さえきざす。
    かく見守るうちにも羽毛はゆらり、ふわり、ゆらり……中空をただよい泳ぐようにして
   次第に、少しずつ士の待ちうける間合いに近づいていた。ゆら、ゆら、ゆら――時が粘る。
   風も濃密に羽毛を絡めとろうとする。三つの視線を集めて白い焦点が移ろう、行きつ戻りつ
   不規則に浮かみ沈み、
    「ヤァッ!」
    一瞬、にも満たない間だった。低い気合声とともに士が腰をひねった。光線が走った、
   鞘ばしる音より疾く。
    風の「断面」が見えた。断ち切られた大気がズレつつ今しも動いてゆく、その運動に連れ
   て白い羽毛が二重にブレた。ブレて再びゆらり、ふわり、おごそかに宙を舞う。
    すぐには言葉が出てこなかった。固唾を呑むことさえも忘れている。「断面」が崩れた、
   羽毛は静かに分かたれつつあった、此方へ、彼方へ。
    背すじと脇とが急に寒くなった。いつの間にか汗がじっとりとにじんでいる。
    「見たか」
    やっと、声が出た。かすれしゃがれた声が出た。
    「見ました」
    同じく、かすれた小声が返って来た。
    そう、「見えた」、辛くも、だが確かに。羽毛を両断した太刀すじは目の裏にくっきり
   と灼きついている。
    斜めに上から下、刃が振り下ろされ振り抜かれる一劫(ごう)の間だった。刃を振る速度
   はそのまま、しかし振り下ろす力だけが鍔(つば)元から刃先に向かって抜けてゆく。糸で
   も引くように均一に、整然と抜けていって最後の最後、切先の一点に残った。その一点の
   力で羽毛を捉え、斬った。
    見た。明らかに見届けた。
    だが、
    「…………」
    ゼネスもマヤも同じように押し黙っていた。この技を「見た」ことによってもたらされた
   感覚に、まだ名をつけることができない。黙して、唸る。
    「鮮やか」とは言うも愚か、「神業」もなお卑小にすぎる。「これ」は何か、たった今自身
   の目に見たこの一瞬は何と呼ぶべきものであるのか、ふさわしい言葉を求め脳髄を、記憶
   の中を駆け巡る。
    『"意志"だ』
    やがて、彼は一つの言葉をつかみ出した。
    『強い"意志"に裏打ちされた力の制御、それがこの剣技の中心だ』
    探り当て、彼はそっと弟子の顔を見る。
    『わかるか、マヤ』
    少女はすぐと師の視線に気づき、強くうなずき返した。とび色の眼に例の白い光がある。
    『そうか、つかんだか、お前も』
    確かめ、あらためて目の先を見た。
    二つに切断された羽毛の片割れがただよっている。さらに小さくなった柔らかな白、なけ
   なしの質量をさらに二分され、もはや風がなくとも上へ、上へ自ずから舞い昇る。
    ゼネスは手を伸ばし、指の先に羽毛を引っかけた。彼の隣で、弟子の少女も同じように
   もう片方の羽毛を手にしている。
    つまんだ羽根を目に近づけ、仔細に観た。細い細い羽軸が中途から「ふっつり」断たれている。
    「お手前、お見事」
    それだけ告げ、一礼した。他に言うべきことは無い。
    「ありがとうございました」
    マヤもうやうやしく頭を下げた。が、彼女には言うべき何事かがあった。
    「ウェイ先生、ひとつだけ」
    「何なりと」
    士から刀を受け取り、老爺は少女へと体を回した。
    「この『鵞毛を斬る剣』を習得される際、先生はどうような修行をなさいましたのですか?」
    聞けば、彼女らしい問いではあった。
    「はい」
    老剣士のほほがゆるみ、破顔する。
    「水の上に半紙を一枚浮かべましてな、水は切らずに紙のみを断つ――そういう稽古を
    繰り返しました。なつかしうござる。
     この剣は羽毛一枚、毛一本を斬り分けますがゆえに、別名を『吹毛剣』とも称します。
    吹きかけた毛を切る、という古(いにしえ)の名剣にちなんだ名にござる」
    おだやかにも、どこか楽しげな語りであった。
    『"吹毛剣"(すいもうけん)、とな』
     喉の奥で自ずからつぶやいていた。「見た」全てとともに心身に染み込ませるために。




    その夜、床についてもゼネスはなかなか寝つくことができなかった。目をつむればまぶた
   の裏に一場の光景が浮かび上がってくる。
    深藍に澄んだ水面が広がっていた。鏡のように平らかに、遠く果てなくどこまでも打ち
   静まった水であった。 その上に一枚、四角く紙が浮いている。
    白い紙だった。ぼんやりと光を放つほどの白さが目に沁みる。
    その紙が、真ん中から音もなく切れた。上からひとすじ、深藍の線が伸びていって下まで
   届き、右に左に紙が分かたれて離れる。
    水面は終始動かない。ほんのささやかな波紋一つ生じない。何度も何度も水の面に紙は
   現われ、現れては切れ、切れて静かに二つに分かたれ、離れてやがて消えてゆく。
    切れてゆっくり、右と左に離れゆく紙の幻影。それはいつしか夢と混じりあい、彼を眠り
   の底へと誘うようであった。

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