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       第12話 「 水の上に映る  」 (5)


    「ゼネス、引いてる引いてる!」
    背中の後ろから声が来た。ハッと目を覚まして水面を見る――と、波紋が見えた。水に
   垂れた糸の先が盛んに上下する。慌てて竿を持ち上げた、が、遅い。水の上に現れた針は
   空っぽだ。
    「むむ……」
    「ああ、また逃げられちゃった」
    残念、という調子で背中の声がため息をついた。仕方なく竿を振り、針を手元に戻す。
    「ゼネス、ちゃんと糸見てないと。なんか今日はすぐボーっとしちゃうみたいだけど?」
    後方から左回りに回り込み、声の主が出てきて座っている彼の顔をのぞき込んだ。とび
   色の眼がまともに見えた。『どうしたの?』と問いたげだ。
    ――マヤが舞い、ウェイ老が秘剣を見せてくれた翌日は、ちょうど「手習いの日」に当
   たっていた。なので朝の稽古も畑仕事も休みであり、師弟は小屋を離れて今は再び「岩の
   棚田」を訪れている。そしてゼネスは今、先日の申し入れ通りに弟子の少女から釣りを教
   わっている最中なのであった。
    ここまで来る間に少し通り雨には降られたが、今は晴れて暑い。流れ落ちる渓流の水音
   が目にも耳にも涼しい。時おり林を通り抜けて吹き寄せる風も涼しく、肌に心地よかった。
    「餌、取られちゃったからまた付けないとね」
   言いながら少女はしゃがみ、足下の手つき桶に手を突っ込んだ。つまみ上げたのは小さな
   細長い生き物、黒光りする多脚をもぞもぞ動かす虫だ。が、白っぽい手は気後れするそぶり
   も見せず虫を曲がった針の先に器用に刺し留めた。
    「できた、も一回投げてみて、さっきの辺りでいいから」
    言われるまま竿を振り、川の上に針を投げた。「ヒュッ」竿先が空を切り、やや遅れて
   「……ちゃぷ」針が水に落ちる。
    小さな滝から流れ落ちた水がひととき流れ澱む辺りだった。渓流に張り出した枝が濃い
   影を作る暗い水面だった。風は弱く、繁る木々の影の切れ間で夏の陽光がちらちら揺れる。
   せせらぎの音がかすかに耳の底を洗い、時おり遠くの林から鳥の声が響く。
    すう……と静かに息を吸い込みつつ、ゼネスは竿を左右に振り動かした。
    「魚が針の虫を突っつくと、糸と竿を伝ってその感じがわかるからずっと糸に注意して
    なくちゃいけないんだよ、ゼネス。ジャクチェはね、『糸で水の中を見るんだよ』って
    言ってた。慣れれば糸を通じて水の中の様子がわかるようになるって」
    言われるまま、竿を握る両の手のひらの感覚に意識を集中させてみる。釣り竿の重み、竿
   の先から垂れて水に触れる釣り糸と、針にかかる流れの重み――それらを感じつつ、おも
   むろに水の面を見つめる。暗く平らに広がりわずかに揺れるおだやかな面(おもて)を。
    「紙」が見えた。夢の中に何度も浮かんだ白い紙、水を含んで陰るように濡れた四角形
   が視界の真ん中で静かにたゆたう。
    自ずから惹きつけられ、目は白を追う。ひたすらに注視していた、糸も竿も消えた。
    『あれは幻だ』
    胸にささやく声はある。が、頭にまでは届かない。
    「ゼネスったら!」
    ハッとした。ひときわ強い声に目が覚めた。横を向く。と、弟子の少女が腰に手を当て
   唇をとがらせて立っている。
    「またボーっとしてた。これでもう三度目じゃない、どうしちゃったの?」
    「ああ……」
    煮え切らない返事をして水面に視線を戻した。無論のこと、「紙」はすでに消えている。
    「どうもな、水面を……あの平らな水の面を見ていると紙が一枚、浮かんでくるように
    見えてきてしまうのだ。で、その紙が自ずと二つに切れのだ、波もたてずに。
     どうも昨晩聞いたウェイ老の話が、例の"吹毛剣"を会得する際の練習の話が頭にこび
    りついてしまったらしい」
    夢に見たことだ――とまでは告げなかった。
    「ふーん……」
    何やら深くうなずきつつ、弟子の少女は師の横顔を見た。しばしまじまじと見つめた。
   それから、彼女も水面の糸に目を移した。
    「勝ちたいんだ、あなたは」
    つぶやいた。
    「そうだ」
    答えた。左眼の視界がいつしか赤味を帯びている。
    「"吹毛剣"とは理性の剣だ。昨晩見てつくづく得心した。ウェイ老は己れの理性を磨き
    上げてあの境地に至ったのだ、と。
     “剛剣”の俺とはまるで違う。いや、違うどころかあちらの方が遥かに上をゆく。わか
    っている。だが、それでも勝ちたい。お前の言う通り、俺はたとえ一本なりともあの男
    から取って後に村を辞したいと思っている」
    ひと息に言った、虫が糸を吐き出すようにして。否、言葉にしたことで自らの執心に気が
   つかされた。
    言い切って、黙す。弟子も口をつぐんでいた。風がかすかに水面近くをうつろう。汗した
   肌が寄せる微風をとらえてひっそりと冷える。
    ややあって、少女がまたつぶやいた。
    「ジャクチェはね、こうも言ってた。『釣りたい、釣らなくちゃ……って思い詰めたら
    かえって釣れないもんなんだよ、魚は』って」
    「違いない」
    苦笑いしていた。確かに思い詰めすぎではある、水面に目を向ければ白い紙が浮かんで
   見えるなどとは。
    「そういう点が、俺の悪い所だ。ひと度走り出してしまったら最後、なかなか方向転換
    もできん」
    「でも……ゼネスは変わったよ、ずいぶん。だから私、」
    言葉を切り、彼女は仰向いて梢を見上げた。顔の上に木漏れ日がちらちらする。
    「信じてるから」
    急に耳に入った。声が、言葉が。信じてるって、何を? すぐには腑に落ちきらず、だが
   その後から意味が追いかけてきた。追いつき、胸中を覆う。
    答えるべき言葉が見つからない。水面(みなも)にたゆたう糸の影ばかりを眺めていた。


    さて、しばらくの間、師弟はともに辛抱強く「当たり」を待っていた。が、なぜかぱった
   りと引きは途絶えてしまっていた。釣りに意識を集中したらこう来る、とは皮肉なものだ。
    しびれを切らしたのか、
    「もしかして、また餌を替えた方がいいのかな。ゼネス、ちょっと上げてみて」
    言われて竿を持ち上げる。見れば、針の先では餌の虫の動きがだいぶ鈍くなっている。
    「あー、やっぱり元気なくなっちゃってたんだ。これじゃもう替えないと、針貸して」
    竿を振り、針をまた手元に戻した。少女の手が横合いから伸びてきて、師が虫をはずし
   て川に投げ入れる間に手桶の中から取り出した別の虫を針に付ける。
    「これで最後、うまく釣れたらいいんだけど」
    言って手桶の水を捨て、新たに汲み直そうとした。「ザブリッ」桶を水に沈めた。
    ――見るともなく見ていた。透明な水が一気に丸い内側に流れ込み、桶を満たす。水は
   中心で小さな渦を巻いた。
    意識が見開いた。
    「マヤ」
    呼び止める。手の内で針先の虫が暴れる感触は忘れていた。
    「何?」
    「水を汲んでくれ、その桶でもう一度」
    「水? こう?」
    首をかしげながら、弟子は手を動かして同じ動作を繰り返した。桶を沈める、水が流れ
   込む、透明な液が渦巻きながら丸い内を浸し、満たす。桶の空虚に水が流れ込み、あふれ
   てやがては形のままに収まる。収まって、やがて静まる。
    『――これだ』
    これなのだ。そう思った、突如として。形無きもの、自在に流れて適うものにいかにし
   て対峙するか。
    『収める、入れるのだ、そのままに』
    肚の底深くうなずいた。そのまま大きく竿を振り、針を投げた。
    小さな水音を聞き、波紋を確かめる。脳裏に渦が巻いた、ぐるぐる水が回る、手桶の内
   に流れ込み、吸い込まれる水、透明な渦巻き。
    そして解き放つ、耳を目を鼻を手足を肌を、触感を、官能の全てを。さざめきが聞こえ
   た。水の音、瀬の音、川水の動き。水が満ちてくる、脳を身体を満たす、浸して洗う。受
   け入れた、流れ入るままに全てを。そして――
    見えた。いや、感じた。
    『満ちている』
    気がつけば「水」の中にいた。竿を手にしたまま。ゼネスも、マヤも、周囲の木々や鳥
   の声、果ては陽の光までもが。いずれも世界を満たす透明な「水」にとっぷりと沈み、包
   み込まれている。
    感じる、見える、「水」を介して。梢のそよぎ、日射しの熱、谷川の流れ澱み、少女の
   息づかいまでもが微細に伝わる。「水」の振動が今、世界の呼吸であった。大いなる何者か
   の内に包まれて立ち、たたずむ。これまでに感じた憶えのない、それは繊細、霊妙な一体感
   であった。
    「や?」
    ふと、見えた。「水」の中にひとすじのゆらめきがある。ゆるやかな曲線を描いてちら、
   ちら、優美にくねる光の線――それが魚のヒレの動きであることを、やがて彼は理解した。
    そっと、静かにその光に向かって竿を降り動かす。線の動きに添うように微妙に。
    引かれた。手応えが来た。竿が引かれ、強くしなる。
    「ゼネス、掛かった!」
    弟子の声が響いた。光の線の動きが激しくなる。暴れるようにくねくね、右に左に跳ね、
   飛んでは伸び縮みする。強く引っ張ってきた、糸に竿に力がかかる、緊張し緊迫する。彼
   は光の動きに注意しつつ、引いてくる力を受け流すように糸と竿を押し引きした。戻し、
   また戻しては頃合いを見て少しだけ引く。根気よく繰り返すうち、光が次第に大人しく従
   順に静まってゆくような。
    『よし、今だ』
    動きが収まった瞬間を見計らい、ひと息に竿を上げた。
    「パシャッ!」
    水音をたて、銀色の魚体が高く躍り上がった。


    「釣れたねぇ、大きいのばっかり五匹も」
    手桶の中をのぞき込み、弟子の少女が嘆声をもらした。最初の一匹を釣り上げた後にも、
   ゼネスは立て続けに釣果を挙げ続けた。光の線さえ見つけることができれば後はたやすく、
   竿を出せば魚の方から掛かってくる。いずれも尺を越える大物だった。
    「ゼネスがこんなに釣り上手だったなんて」
    意外だ、と心底から驚いた様子で弟子は師を振り仰いだ。とび色の瞳がまぶしく、師は
   やや視線を外し加減になる。
    「いや、お前がいろいろ教えてくれたおかげだ、これは」
    それだけを口にした。彼女が目の前で手桶に水を汲んだことがきっかけになった――と
   説明して、わかってくれるだろうか。自分が体験したことはそも何であったのか、彼自身
   にもまだ整理がついていないというのに。
    世界を満たす「水」の気配、あの不思議な一体感の正体を。思い返せば懐かしい。
    その時だった。
    「む……?」
    誰かに呼ばれたように思った、それも頭の上辺りから。
    首を伸ばして見上げる。頭上の緑陰の中で何かが揺れていた、明るい色彩が。
    目をこらす。梢に一輪の花があった。枝にからんだ蔓に咲く、明るい橙黄色の花。
    『俺を呼んだのはお前か?』
    つい、声には出さず呼びかけていた。バカバカしい、とわかってはいる。が、周囲と一つ
   になる感覚を得た今はまんざら、偶然ばかりとも思われない。ままよ、と樹下に垂れた蔓
   を引っ張った。枝が大きくたわみ、花が近づく。彼は腕を伸ばし、摘み取った。
    そうして手にした花をじっと見つめた。彼の手にもあまるほどの大ぶりの花だ。ふちを
   ゆるく波打たせた花びらが五弁、色は目に染みるように鮮やかな橙色で、花心に近い部分
   が黄色い。風に揺らぐ炎を思わせる姿形だった。木の下闇の中、灯火のように明るく輝く。
    心惹かれ、花に顔を寄せた。ほのかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。じわり、胸が締め付
   けられた。炎に似たあえかな花は、風でも吹くと手の内から消えてしまいそうに思われる。
    『俺は、なぜこの花を手にしたのだろう』
    不思議だった。己が身が訝(いぶか)しい。少年の頃から今の今まで、彼にとり花は単に
   花でしかなかった。心寄せて手に取り、摘んだ憶えなどは皆無だ。それが今になって何故、
   こうまで惹き付けられるのか。
    そう問う心に赤紫の百合が浮かんだ。花の連想に誘われたか、かの山猫娘によく似合って
   いた、くっきりと鮮烈だった花の姿が。
    『そうか』
    自分が何をしたかったのか、ようやく合点がいった。
    「マヤ」
    彼は弟子の少女を呼んでいた。
    彼女はまだ手桶の魚を見ており、呼ばれて「何?」という顔を上げた。その顔に告げる。
    「この花をお前にやる、髪に挿してみろ」
    おもむろに差し出した、少女の目の前に。とび色の瞳にとまどいの色が広がった。
    「え……今すぐに? でも私……こんな格好だしどうしよう……」
    うつむき、わずかに身を揉んだ。明らかな困惑の表情、「なぜ?」と全身で悩んでいる。
   どう見ても山猫娘のような晴れがましさからは遠い。
    『困るのか……』
    強い困惑を目の当たりにして、ゼネスは沈鬱にひたされた。明るく浮き立ちかけた気分が
   しぼむ、残念でならない。だが、相手のあることであれば仕方もなく。
    彼は努力をして口元を笑みの形に作った。
    「そうか、お前の好みではなかったか。俺は似合うと思ったんだがイヤなら無理にとは
    言わん、済まなかった」
    唇から言葉を押し出し、花を川面に放そうとした。
    「待って!」
    その師の腕を弟子の手が押さえた。
    「イヤなんじゃないの、ごめんなさい。
     ――びっくりしたの、ゼネスが私に花をくれるだなんて、髪に飾れだなんて、そんな
    こと言われる日が来るなんて思ってもみなかったから。
     だから驚いたの、すごく。どうしようと思っちゃった。でも、それであなたを悲しく
    させたならごめんなさい、ホントに。この花はすごくきれいだと思う、私も。
     だから、貸して」
    言うだけ言い、師の手の上から花をさらった。そして例により服の内側からピンを取り
   出し、うつむいて注意深く左の耳の上の辺りに花を留め付けた。
    栗色の髪に、橙色の花が咲いた。
    「挿してみたよ……どう?」
    少女は首こそ立てていたものの、目は上げていなかった。川の面ばかりを見ている。足
   元の流れは小刻みに揺れ、彼女の姿を映し出すには至らない。
    今、マヤを映すものは師の眼より他にはなかった。
    「うむ」
    うなずいた、深く。思った通り、よく映えている。髪の色と花の色、どこか妖艶で移ろ
   いやすくあえかな印象と共に。彼女にはこの花がとても似合わしい。
    『これを見たかったのだ、俺は』
    ようやく得心した。
    「いいな」
    うなずいた、もう一度深く。少女の顔はまだうつむいている。その頬に朱が差した。
    「見ないで……そんなに……」
    うなじまでを赤く染め、また身を揉むようにした。照れというより恥じらっている、そ
   れも「怖じる」と呼べるほどの強い羞恥に見えた。こんな態度のマヤを見るのは初めてだ。
    「私ばっかりそんなに見てられたら……恥ずかしいの……」
    そう言い、ついにうなだれた。言われてようやく気がついた、彼女にとり、男の熱心な
   視線を受けること自体が遊里での経験を思い起こさせて負担になるのだ、と。
    「いや、悪かった……俺がうっかりしていた」
    慌てて詫びた。今は男として"値踏み"や"欲望"を込めて見たつもりではなかった、
   ただ弟子の少女を女として美しく装わせたいだけだった――はずだ、と自分では思う。そ
   れでも、彼女を困惑させてしまったならその責は己れにある。
    「ううん、ゼネスは悪くないの、ぜんぜん悪くない。
     ただ、私がこうやってお花を付けて、ゼネスはそれを見てるだけの側だってことが……
    すごく恥ずかしくて」
    ため息した。次いで梢を見上げる。パッと顔が明るんだ。
    「そうだ、花取ってゼネス、もう一つ」
    「同じ花、か?」
    彼もまた梢を見上げて問う、と、うなずき返す気配がある。理由はわからぬまま再び垂
   れた蔓を引っ張り、腕を伸ばして鮮やかな橙黄色を手にした。先ほどよりは一回り小さな
   一輪だった。
    「これでいいか?」
    弟子に向き直る。と、少女は「うん!」と勢い良く応えて花を取り、そのまま花を持つ
   手を師の左胸の前にかざした。
    「おい、何をする」
    訊く間もなく、その花は彼の胸の上に留め付けられていた。師と弟子、互いの胸と髪に
   咲き揺らぐ炎の形の花。
    「うん、ゼネスも花付けたらいいの、これで恥ずかしくない、私」
    弟子は顔をほころばせて師を見つめた。
    「素敵、似合うよ」
    ようやく屈託のない笑みを見せる。しかし今度は師の側が羞恥の中にいた。甘くやるせ
   ないような匂いが胸から立ち昇り、とても自分が自分とは思われない。
    身に沁みた。「恥ずかしい」――とマヤが言った際の思い。装い、それを見つめられる
   ことのとまどい、困惑。誰かを一方的に眺めようとする視線の在りようのことを。
    彼女のことが、また少し理解できたような気がした。


    夕方、山から村に戻ってウェイ老の小屋に近づいた。庭先に数人の女の子がまだ遊んで
   いた。畑の脇に生えた草の、赤い小さな実のようなものを摘んでいる。手習いを終えた子
   ども達であった。釣り具と手桶を提げて山道から現れた師弟に、少女らはやや遠慮がちに
   頭を下げて挨拶した。と、
    「あ、お花」
    さすがに女の子は目ざとくマヤの髪に気づいた。そしていったん気がつけば遠慮などは
   振り捨てていそいそ慕い寄ってくる。
    「きれい……これ、山のお花?」
    一人の少女が訊ねた。数人の中では一番歳下の、七〜八歳ぐらいの子だ。
    「うん、山の中の樹にからみつく蔓のお花だよ」
    答えるマヤの左耳の上をつくづくと眺め、やがてゼネスにも目を向けた。
    「あ、おじさんもお花つけてる!」
    少し驚いたように目を見張った。それでも、
    「きれいねぇ、お花」
    感心して見つめてくれる。ゼネスは面映ゆくなった、体がムズ痒いような心地がされる。
    「花嫁さんと花婿さんだね」
    突然、別の少女が口にした。娘たちの表情が一斉に花咲いたように明るくなる。
    「ホントだ、お嫁さんとお婿さんみたい」
    「すてき……」
    にこにこ言い交わし、笑み交わす。小鳥のさえずりに似た賑わいの中、赤面した。
    「わかったからもう、お前たちは帰れ、日が暮れるぞ」
    たまらず声をかける。すると娘たちはさらに賑やかに笑って畑道を駆け降りた。さん
   ざめきがたちまち遠ざかる。
    ――が、少女が一人だけ居残っていた。最初に「お花」と言った子だ。
    彼女は、マヤの髪の花をずっと見つめていた。夕暮れの赤味の強い光の中、揺れる花弁
   から目を離そうとしない。ひどく熱心だ。
    「このお花、欲しいの?」
    不意にマヤが呼びかけた。少女は肩をすくめ、気後れしたようにやや後ずさった。が、
   それでもけなげにうなずいてみせる。
    「いいよ、あげる」
    しごくあっさりと返事し、マヤはさっさと髪から花をはずした。さらに、
    「はい、ちょっと頭出してごらん」
    手を伸べ、娘の髪に花を差し留めてやった。小さな頭には不釣り合いにも見えるほど
   大きな花が揺れる。娘の顔が明るく華やいだ。
    「ありがとう、マヤ姉ちゃん、あたしすごくうれしい。
     どう? お姫さまみたいになってる?」
    答えるマヤの声は優しかった。
    「うん、お姫さまだよスーヒェン、早くお母さんに見せてあげて」
    聞いて、娘はくるりと踵(きびす)を返した。すぐにも駆け出しそうな背中を、だが
   ゼネスは呼び止める。
    「待て」
    他所者の男に呼ばれ、娘の背が強張った。脚も固まったように動きを止める。
    「こいつもやろう、持ってゆけ」
    つとめて優しげな声を出し、自分の胸に咲く花を取って差し出した。彼の目の下で怖じ
   ひるんでいた面相がいく分かほぐれ、小さく息をつく。
    「ありがとう」
    大事そうに、こちらは両手で受けて胸に抱いた。そのままビョコンと辞儀をして、トコ
   トコ畑道を降りてゆく。
    師と弟子、二人してその後ろ姿をしばらく眺めた。
    「行っちゃった。ほんとにきれいなお花だったね」
    花を飾った少女を遠目に見つつ、小さな声でマヤは言った。誰に聞かせるともない言い
   方に聞こえた。その後、
    「ゼネス、ありがとう。ほんのちょっとの間だったけど、私もお姫さまだった」 
    こちらははっきりと、彼方の山並みを眺めて続けた。

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